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あなたが、笑うなら

作者: 保野透香

 私たちに未来はないから、これはただのごっこ遊びなのね。

 お嬢様は、僕にそうおっしゃいました。


 真夏の木陰、お茶を飲みながら裸足で芝生に座り込むお嬢様は、どこか遠くを見つめていたように思います。その横顔を見ていられなくて目を逸らしたら、お嬢様の真っ白いドレスがめくれ上がり、その柔らかな太腿が露わになっているのを見てしまって、僕は慌てふためきました。そうしたら、お嬢様はとても楽しそうに僕を見て明るく笑って下さったのを覚えています。

 お嬢様はいつも寂しそうにしていらっしゃったので、僕はとても嬉しかったのです。なんだっていいから、笑っていただきたかった。


 そうです、お嬢様はとても寂しい方でした。由緒ある公爵家のたった一人の令嬢としてこの世に生を受けられ、お嬢様は公爵の掌中の珠としてそれはそれは大事に育てられました。そのことは、僕も認めます。けれど、やはりお嬢様はとても寂しい方でした。


 お嬢様をきちんと知っていらっしゃる方になら、分かっていただけるはずです。お嬢様は全身で寂しいと叫んでいらしたくせに、決して言葉にはなさいませんでした。だからでしょうか、余計にその寂しさが際立っておられました。

 ひとめ見ただけで、分かるぐらいに。


 僕がお嬢様に初めてお会いしたのは、公爵邸の厨房で下働きとして使っていただけることになってから、ひと月が経ったころのことです。


 ええ、僕は幼くして奉公に出ることになりましたから、当時は十歳になったばかりでした。とは言っても、ただの平民には珍しくもない話なのですけれどね。

 話を戻しましょうか。


 その日、たまたま普段お嬢様のお茶の準備を申し付けられていた同僚が熱を出し、僕がその役目をすることになりました。

 急な来客があったせいでその日はみな立て込んでいましたし、実家が茶葉を扱っていたので、僕にやらせておけば間違いはないと踏んだのでしょう。実際、家の商売を引き継がせてやることもできない六男坊にせめて、と両親は茶葉の扱いだけは厳しく僕に仕込んでくれていましたから、期待に応える自信はありました。


 けれどまさか、今日のお茶はとびきり美味しかったのだけど淹れたのは誰? なんておっしゃって、お嬢様が厨房に忍んでこられるとは思ってもいませんでした。


 お嬢様がいらしたことにも自分の目を疑いましたが、一番は違いました。こんなことを申し上げれば不敬に当たるのでしょうが、僕はそのときお嬢様を見てまだ実家にいたころに見知った孤児を思い出したのです。

 その子どもはいつも帰るべき家を探して、街をさまよっていました。その子の家はもう、その家主ごと焼けてしまってどこにもないのに。

 高貴な身分のお嬢様と、貧しい孤児に似通った部分などありません。そのはずです。けれど僕は、理屈抜きで確かにお嬢様と似ていると感じていました。


 お嬢様は驚いて固まっている僕がその張本人だと周りの者から教えられると、お嬢様は僕に負けず劣らずの驚きようで、私と同い年ぐらいに見えるのにすごいのねと呟かれました。そして、あなたは私と違って魔法が使えるんだわとどこか苦しげに微笑みました。


 そのときのお嬢様を、僕は今でもはっきりと記憶しています。

 形のいい眉が切なげに下がり、はっきりした二重と長い睫毛に飾られた樅の葉のような緑の瞳は、涙をこらえて潤んでいました。不恰好に歪められた珊瑚色の唇と、色をなくして血管が透けて見えるほど肌は白くなり、豊かな亜麻色の髪まで少しほつれてしまっていて。

 見ているこちらまで泣きたくなるような、そんなご様子でした。


 これはいけない。そう思った僕の口から、なら僕はお嬢様のためにいつだって魔法使いになりましょう、なんて気障な言葉が咄嗟に転がり出ました。そのときは必死だったのですが、一瞬で我に返ってしまったので、もう恥ずかしくて恥ずかしくて。

 そのまま消えてなくなりたい気分で赤面していたら、お嬢様はそれは嬉しそうに笑って下さいました。とても、可愛いらしい笑顔でした。


 このときのお嬢様の笑顔も、もちろん昨日のことのように思いだせます。ですが、細かくは語りたくはありません。この笑顔は、僕だけのものです。


 それからお嬢様は、僕にお茶を淹れてほしいと言うために、頻繁に厨房に出入りするようになられました。あまりに何度もいらっしゃるので、わざわざ公爵がお嬢様に注意なさったぐらいです。それでも、お嬢様は止めませんでした。

 だから、根負けなさった公爵はお嬢様が厨房に出入りしなくても済むように、仕方なく僕を側仕えにしたのです。


 お嬢様の側仕えになって、気付いたことがありました。お嬢様が僕にお茶の準備を頼まれるのは、決まって公爵や奥様、そしてお嬢様の叔父に当たる方を初めとするご親戚が言い争っているときなのです。


 公爵家は由緒ある古い家柄ですから、長い時間の流れの中で親戚は膨大な数に膨れ上がり、それに比例するように多い揉め事も大小様々、常にあちこちでその火種が燻っている状況でした。


 お嬢様は、公爵家を指してこのようにおっしゃったことがあります。


 この家はね、嵐の中を行くひとが持つ傘なのよ。骨は軋んで今にも折れそうだし、飛んできた尖った小石がいくつもぶつかるせいで折角の綺麗な模様に穴が開いていないのが不思議なぐらい。おまけに風に煽られるせいで真っ直ぐに持っていられなくて、ちっとも雨を防いではくれないの。むしろ、傘に振り回されて歩くのも難しいくらいだわ。本当はこんな邪魔な荷物、捨ててしまった方がいいのよ。


 騙し騙しで華麗なる公爵家の体面を保っていましたが、その体面をかなぐり捨てられたなら、公爵はどれほど楽になられたことでしょう。すぐに気炎を上げ、そのたびに金の無心をする親族に公爵は始終お悩みでした。


 ですから公爵の心労は非常に深く重く、それは奥様との関係にも影を落としました。

 奥様は気弱で、すぐに体調を崩し、夫である公爵に自分を支えてもらいたがっていらっしゃいました。公爵もまた、抱えきれない荷物を抱えきらなくてはならない自分を妻に支えてほしいと望んでおられました。

 いつからかお二人の間には埋めがたい溝ができ、顔を合わせても冷たい皮肉の応酬以外できない関係になってしまわれたのです。


 お嬢様は、そんな公爵家の内情に心を痛めておられました。いつだってどうにかして言い争いを止めさせたいと考えを巡らせては、実行に移していらしたのです。

 お嬢様は子どもならではの天真爛漫な笑みを張り付け、熱々のスコーンとお茶を引っ提げて、聞くに堪えない罵詈雑言の雨が降るなかへ何度でも出向いて行かれました。


 お茶を一杯飲んでいる、その時間だけは誰も誰かを罵倒したりしないから。


 たったそれだけの短い時間を作るために、お嬢様は僕にお茶を頼まれていたのです。勢いで言ったお嬢様のために魔法使いになるという言葉を本当にしようと決意したのは、この事実に気付いたときでした。


 一杯だけでなく、二杯三杯と飲みたくなるようなお茶を淹れるため、僕は実家の両親を拝み倒して茶葉の研究を始めました。


 しばらくは、とても平和に時間が過ぎました。お嬢様はふざけてよく僕を私の魔法使いさんとお呼びになり、そのたびに誇らしいような恥ずかしいような、いろんな気持ちで胸が一杯になります。少しずつお嬢様に楽しげな笑顔が増えていき、僕はそれだけで幸せになりました。


 いつまでもこんな時間が続いたらいい。僕もお嬢様も、きっとそう願っていました。けれど、叶わない願いだと知っていました。

 お嬢様は公爵令嬢、僕はしがない使用人です。お嬢様が年頃になられれば、お嬢様に似合いの貴族の男性が幾人も現れて求婚するようになるでしょう。僕の出る幕ではないことは、お互いによく分かっていました。


 お嬢様はいつの日か皺ひとつない手袋をした男性の手を取られてこの屋敷を去り、僕は残ってお嬢様の代わりに言い争いの場に出すためのお茶の準備をして、ほんの僅かな沈黙の時間を得るため奮闘し続ける。公爵がお嬢様のお父上ではなく城で騎士をしていらっしゃる兄上に代替わりされたとしても、きっと同じことをやり続けでしょう。

 そんな未来が来ることを、きちんと納得していました。実際そうなっていたはずなのです、このまま何もなかったならば。


 やがて月日は流れてお嬢様は社交界へも出るようになられ、縁談も持ち上がりだします。公爵は数々の求婚者のなかから、公爵家にとって一番よいお相手を選ぶとお嬢様にその方と婚約するようおっしゃり、お嬢様も二つ返事で承諾なさいました。

 そうです、それがあなたですよ。


 お嬢様は、相手の方は私を熱烈に望んでくださっているそうよと僕に話してくださいました。望まれて結婚するのだもの、きっと女にとってこれ以上幸せなことってないわね、と。会ってみても嫌な感じはしなかっただとか、優しくて思慮深い方らしいだとか、その後もぽつぽつと経過報告をするように聞かせてくださいました。

 そうですね、まるでだからもう心配しないでとおっしゃられているかのようでした。


 そんなときのことです。今までにない大問題をご親戚が引き起こし、折悪く奥様までもがひどく体調を崩されました。亡くなるかもしれない、医者がそう告げるほどです。

 奥様は、流石に今回ばかりは公爵も自分を見舞ってくれるだろうとお考えになりました。けれど公爵は、問題の後始末でとても奥様のことを気遣われる余裕をお持ちではなかったのです。


 お嬢様は奥様を手厚く看病なさり、公爵の心労を和らげるため心を砕かれました。お嬢様がどれほどの献身を捧げたのか、僕は知っています。


 そうして奥様がなんとか死の淵から生還されたころ、公爵もなんとか落ち着きを取り戻しました。お互いにお互いと話す時間をようやく持てるようになられ、お二人は今までになく激しく言い争われました。


 お嬢様はまた、お茶に誘うために公爵と奥様に声をお掛けになりました。ここまでは普段通りだったと、のちにお嬢様がお話になりました。けれどいつもならばお茶を飲むはずのお二人が、そのときばかりは違う反応を示されたのです。


 うるさい。いつもいつもこちらが言い争っているときにばかりお茶の誘いをしてくるが、一体どういうつもりなのか。能天気にへらへらされて目障りだ。本当はずっと鬱陶しく思っていたのだ、と。


 奥様は金切り声を上げられ、公爵はティーカップを叩き割られたということです。これ以上ないというぐらい最悪の形での、お嬢様の全否定でした。


 お嬢様は零れたお茶で染みの付いたドレスを着たまま、逃げるように僕のところへといらっしゃいました。初めてお会いしたときにとても似たご様子でしたので、僕はすぐに何かあったのだと分かりました。ですから、人目を避けてゆっくり話ができる場所にお連れして何があったのか尋ねました。


 お嬢様は堰を切ったように泣きながら、全てを話してくださいました。そして、ごめんなさいと何度も僕に謝られたのです。

 何をおっしゃっているのか、僕には最初分かりませんでした。お嬢様が謝らなくてならないようなことなど、何ひとつないのですから。

 それでもお嬢様は嗚咽を交えながら、必死で僕に謝られました。自分のせいで僕のかけた魔法が解けてしまった、と。


 お嬢様は僕がお茶を淹れるようになる以前から、お茶の誘いを続けていらしたそうなのです。ですが、そのころはお嬢様がその場にいることにも気付かずに、公爵やほかの方はただ自らの主張を押し通そうと白熱するばかりだったと聞きました。

 それが僕のお茶を持って行かれたときだけ、違ったらしいのです。あらいい香りね、来客のおひとりがそうおっしゃって、お茶を飲むことになったと。


 魔法だと思ったの。


 そう、お嬢様はおっしゃいました。


 魔法だと思った。私があれほど手を尽くしてもできなかったことを、たった一杯のお茶で見事にやり遂げてしまったんですもの。悔しかったし、情けなかったわ。あなたが私と同い年だって分かったときは、もっと情けなかった。同い年の男の子があっさりこなしたことが、私にはできなかった。私、駄目だなあって。


 そして、ごめんなさいと繰り返しました。折角あなたがかけてくれた魔法を、自分が解いてしまった。きっともう、この魔法は使えない。お嬢様のせいではないという僕の言葉にも耳を貸さず、全てはお茶に誘う方法を間違えたせいなのだと自らを責め続けるお嬢様は、ぼろぼろでした。


 女の身では五つ年上の兄上のように自由に外へ出ることも叶わず、幼いころから不仲なご両親やご親戚に囲われるようにして暮らされていたのです。どんなお気持ちで日々を過ごされたのか、僕には想像もつきません。

 繊細な刺繍の施された豪奢なドレスばかり着て、香辛料や砂糖をふんだんに使われた贅沢なものを好きなだけ食べ、一流の教師の指導で礼儀作法やダンス、教養を身に着けた華やかな貴族の姫君。ひとはお嬢様をそう噂するでしょうし、噂の全てが間違っているわけではありません。生き馬の目を抜く社交界でも、高みに咲く麗しの花、淑女のなかの淑女との異名をとるほどの評判だったそうですから。

 ですが、お嬢様の内実は周囲の予想する明るさや軽やかさとはかけ離れていました。


 それでも、僕がお嬢様の涙を見たのはこれが初めてだったのです。弱音ひとつ、零されたことはありませんでした。


 もう、いや。


 泣いて泣いて泣き続け、やがてを気力を全て使い切ってしまったように泣き止んだお嬢様はそう呟かれました。樅の葉の色をした瞳は虚ろで、いつもはなめらかな白い頬も赤くなって荒れていたのを覚えています。


 ここじゃないどこかに行きたい。あなたと、今すぐに。


 そうおっしゃるお嬢様に僕は申し上げました。


 では、行きましょうか。ここを出て、どこかへ。僕はお嬢様の魔法使いですから、どこへなりとも連れて行って差し上げますよ。


 美味しいお茶を淹れるぐらいしか能のない使用人には似合わない、気障な台詞です。こんな台詞は、社交界を優雅に泳ぐ貴族にこそ相応しいでしょう。けれどお嬢様が笑って下さったから、僕は構わないことにしました。


 準備は密かに、そして速やかに進めました。実家に里帰りして姉のドレスを何枚か拝借し、帰りに列車の切符を取りました。金はいただいていた給金がほとんど手付かずで残っていましたから、特に困ることはありません。


 数日後、夜闇に紛れてお嬢様と僕は公爵邸を抜け出し、朝一番の列車に乗りこみました。海辺へと行く列車です。お嬢様が、海に行ってみたいとおっしゃったので。


 公爵邸を出てから、お嬢様はずっとはしゃいでいらっしゃいました。着慣れない簡素なドレスにも、初めてご覧になった地平線から昇る朝日にも、窓を開ければ風が頬を叩く汽車という乗り物にも。そして恐らく、敬語を使わない僕にも。


 もちろんそうですよ。折角ドレスを着替えていただいたのですから、半端なことをしてお嬢様の高貴な身分を周りに悟らせるわけには参りません。

 新婚旅行で海辺を訪れた若い夫婦という設定を、あらかじめ練っておきました。お嬢様はどんなにお願いしても絶対に敬語を崩しくれなかったのにと頬を膨らませて拗ねてらしたのですが、とても楽しんで帝都の小さな商会の跡取りに嫁いだ取引先の娘を演じてくださったので、僕も助かりました。


 はい、お嬢様は演技も嘘もとてもお上手ですよ。そうでなくては、公爵邸でご自身の心をもたせることはおできにならなかったでしょう。


 けれど、列車の窓から外の景色を眺めて嬉しそうにしていらっしゃる姿は、嘘でも演技でもありませんでした。その日は夏の盛りの暑い日でしたから、波打ち際で水遊びがしたいとおっしゃっていました。流行りの恋愛小説にそんな場面があるそうで、実際にやってみたくてうずうずしていらしたようです。


 列車が目的地に着くと、お嬢様は一目散に駆け出して海岸を目指されました。いつも楚々とした振る舞いをなさるお嬢様らしくないと言えばそうなのですが、僕はそんなふうには思いませんでした。お嬢様は、意外と悪戯もお転婆も大好きでいらしたので。


 成長なさるにつれて、淑女の仮面の下に活発なご自分を押し込めていらしたのだなあと、なんだか感傷的になってしまいました。昔はお嬢様にお願いされて、夜の公爵邸を探検したこともあったぐらいです。

 お嬢様には日の光がお似合いですから、海辺を走るお嬢様が僕はとても嬉しかった。昔は夜にしか、今となってはいつだろうとできないことを、誰を憚ることなくできていることが。


 お嬢様は水遊びをなさり、ボートに乗られ、近くの店で売っていたよく冷えた果汁や素朴なサンドウィッチを美味しそうにお食べになって、一日中よく笑っていらっしゃいました。もちろん、公爵邸や社交の場でよく浮かべられる作り笑いではありません。


 朝が早かったので、お嬢様は日が暮れかけるころには今にも眠ってしまわれそうに何度も首を倒していました。当然、僕は今夜の宿は取ったからもう部屋に行った方がいいと申し上げたのですが、お嬢様はまだ浜にいたいと執拗におっしゃり、結局そこで眠り込んでしまわれました。

 ですから、僕はお嬢様を抱き上げて昼間のうちに部屋を取っておいた宿屋に向かいました。


 当たり前です。これでも商人の息子ですから、変な宿屋とまともな宿屋の区別くらいつきます。父は仕入れのたびにわざわざちょっと怪しい宿屋に泊まっては掘り出しものの宿屋を探し出すのが趣味だそうで、その手の話は耳にたこができるほど聞かされましたから。


 とにかく、平民が少しばかり奮発して選ぶ宿屋という雰囲気の小奇麗な部屋にお嬢様を運び込みました。ええ、はい。同じ部屋です。夫婦だという建前上ふた部屋も取ることはできませんし、なんと言ってもお嬢様は公爵令嬢でいらっしゃいます。おひとりでお眠りくださいと申し上げるわけには参りません。

 ベッドはお嬢様にだけ使っていただけばいい話ですし、そもそも僕は起きて見張りをしなくてはなりませんから、特に問題はないと判断しました。そう、問題など起こるはずがない。そんなふうに思ったのです。


 夜も更けたころ、お嬢様はふいに目を覚まされました。どうも、そばに僕がいなかったことを気にされたようです。近くへ来るようおっしゃるので、取りあえずベッドの脇まで行きました。


 ねえ、お父様はやお母様は今どうしてると思う?


 ベッドに横になられたまま、お嬢様はそう問いかけられました。


 きっともう、とっくの昔にあなたと私がいなくなったことに気付いてるわ。いったいどんなふうに思われてるのかしら。単純なところでは駆け落ちよね。それが一番分かり易いもの。


 でも、これは駆け落ちではありませんから。


 僕が答えると、お嬢様は悲しげに眼尻を下げられました。


 また、敬語。人目があってもなくてもそう、いつだってあなたは私に線を引いてる。


 僕は、不敬と自覚しながらも思わずお嬢様のお言葉を遮りました。


 線を引いたつもりなどございません。線は引いたのではなく、最初からそこにあったものです。


 そうね、そうだったわね。分かってるけど、でも。駆け落ちに、してくれない?


 お嬢様は弱々しく腕を伸ばして綺麗な指を僕の指へと絡ませながら、微笑まれました。


 好きよ。ずっと好きで好きで好きで好きで、仕方ないの。世界中であなただけ、私が好きなのはあなたひとり。


 熱烈な告白に、息ができなくなりました。心臓が、動きを止めた気がしました。

 正直なところ、告白は意外なことではありませんでした。誰よりもそばにいたお嬢様のお気持ちに気付かないほど、僕は鈍いわけでもぼんくらなわけでもなかったので。それでも、何も言えずに固まるしかなかった理由はひとつしかありません。


 ねえ、あなたもそうでしょう? じゃなきゃ、仕えている家の令嬢と海に逃避行なんてしないわ。仕事も住むところも失くす。場合によっては、命までとられかねないのよ。


 お嬢様のおっしゃる通りの気持ちのせいで、僕はそのとき黙り込み、これほどなんの得にもならないことをしていたのです。ここまで来て、中途半端に踏みとどまる理由がどこにあるのかと思いました。どうせ、戻れはしないのですから。


 好きです、と掠れた声で囁いている自分を、どこか夢のなかのように感じていました。けれど、現実でした。現実感のない、現実でした。


 お嬢様が敬語はやめてとおっしゃるので、熱に浮かされたまま言い直しました。君が好きだ、と。一度箍が外れてしまえば、もう元には戻りません。今まで断固として口にしないでいた分、何度も何度も言いました。そして、口付けました。


 すみません、正直に言って僕の理性も限界だったのです。そもそもお嬢様をベッドに寝かすとき、ドレスを脱がせて下着にするという作業をこなしたあとだったので、その日の理性への挑戦はもう上限いっぱいまでしていたんですよ。


 お嬢様の唇に口付けて、それ以外のところにも口付けました。けれど、やはり決定的なところは避けていましたし、お嬢様の下着を多少着崩れさせることがあっても、自分の着衣は乱れさせもしませんでした。

 理性的な判断ではなく、ただのためらいです。高嶺の花を手折ってしまうことに、躊躇を覚えた。それだけのことです。

 お嬢様も、そのあたりを見抜かれたのでしょう。焦れて、おっしゃいました。


 私に傷を付けて、どこへも出て行かれなくなるように。


 そして、ようやく頭が冷えました。二人とも自棄になっている、やっとそのことに気付いたのです。ええ、確かに遅すぎました。もっと早くに自覚すべきだったでしょう。でもきっと、盲目になっていたかったのだと思います。

 僕は身体を起こし、お嬢様の目を真っ直ぐに見つめました。


 これ以上はしない。どうやったって、君を傷付けることはできないから。


 何か言いたげに口を開かれたお嬢様を遮って、僕は続けました。


 誰も、君を傷付けられやしない。大丈夫だ。これから先、何があっても君は傷付いたりしない。


 それが、答えなの?


 尋ねるお嬢様のお声は震えていらっしゃました。僕は、頷きました。


 魔法使いのかける最後の魔法だ。絶対に解けない魔法。だから、心配しなくていいんだ。あの家に、君は帰っていい。


 お嬢様は、目を見開いて僕を見つめられました。そっかと呟き、次の瞬間には泣き出していらっしゃいました。親の腕の中で安心した子どものように、僕の胸に顔をうずめて。


 翌朝、いつの間にか眠っていたらしい僕よりも先にお嬢様は起きていらして、少しだけ焦りました。

 一方のお嬢様は、すっかり身支度をお済ませになって平然となさっていました。まるで昨日のことなどなかったかのようなご様子だったので、全ては夢だったようにも思いましたが、自分がベッドで寝こけていたのが何よりの証拠です。

 慌てて跳ね起きた僕に、お嬢様は最後のお願いがあるのとおっしゃいました。


 あなたのお茶が飲みたいわ。飲み終わったら、お互いのあるべき場所に帰りましょう。


 そうして、僕は最後のお茶を飲んでいたただくべくお嬢様を部屋から連れ出しました。外の風を感じながら、飲んでいただきたかったのです。

 浜辺の近くにある林で、僕はお茶の準備をしました。予感のようなものがして、お茶の道具は一式持ってきていたので不自由はありません。今までで一番美味しいお茶を淹れて、お嬢様にお出ししました。


 お嬢様は夏の日差しに眩しそうに眼を細められながら木陰に裸足で座り込まれ、公爵邸ではできないことを満喫なさっておいででした。

 一口、お茶を飲んでから、お嬢様はおっしゃいました。


 私たちに未来はないから、これはただのごっこ遊びなのね。駆け落ちも、恋も、私たちの間にあったことは全部。きっとただのごっこ遊び。周りに、そう言われても構わない。私は、本当のことを知ってるわ。


 その遠くの未来まで見つめる横顔は眩しくて、僕には直視できませんでした。寂しがり屋で、気持ちのやさしい、誰より強い心を持ったお嬢様。僕の恋したお嬢様でした。


 それから、うっかりお嬢様の太腿を見てしまって昨夜を思いだした僕が赤面し、お嬢様は軽やかな笑い声を上げられました。そのときお嬢様の目尻が光って見えたのは、きっと目の錯覚でしょう。


 お嬢様と僕は、帰りの列車に乗りました。



              ********************



「これが、お嬢様と僕との間にあった全てです。お聞きの通り、お嬢様の純潔は死守されました」


 公爵邸の元使用人は、ふてぶてしささえ感じる態度で長い独白の最後を締めくくった。喉が渇いたのか、呑気に茶など啜ってなかなかいいお茶ですねと嘯く。

 とても他人の婚約者との駆け落ち騒動を引き起こしたようには見えない。本来ならば、その婚約者の前ではもっと良心の呵責に苛まれてしかるべきではないかと男は思うのだが。

 しかし話の最中、多少面白くないものを感じはしたものの、全ての話が終わった今ではそんな振る舞いをする元使用人に苛立ちや憎しみも生まれはしなかった。


 男がかの公爵令嬢に懸想し、妻にと望んだのは一年以上も前のことになる。彼女の容姿の美しさもさることながら、誰にも本物の笑みを見せないところに惹きつけられた。心の内を暴きたい、そう思わせる女だと男は思う。彼女の心を望んでから、一途に彼女だけを想ってきた。


 それでも、目の前の元使用人の青年をどうこうしてやりたいとは微塵も感じなかった。彼女は青年のものにはならないから? いや違う、と男は思う。


「なぜ戻って来た? そのまま攫ってしまうことも、できなかったわけではないだろう?」

「できませんよ」

「だから、なぜだ?」

「それはですね。お嬢様が、公爵令嬢でいらっしゃるからです」


 男は一瞬、身分違いだと言いたいのかと思ったが、青年の目を見て考えを改めた。その理知的な瞳は、自らの身分に卑屈になっている者のそれではない。


「お嬢様はきっと、どこへ行かれても公爵令嬢であることをお辞めにならない。公爵と奥様の娘であり、多額の税金を使って作り上げられた淑女である自分を、放り出せる方ではありません。そんなことがおできなら、とっくにご自分で実家に見切りをつけて飛び出していらっしゃるでしょう」


 本来、お嬢様は行動力に溢れた方ですから。青年はどこか遠くを見つめて、言葉を続ける。


「お嬢様は、僕と一緒にいらして能天気に幸せになれる方ではないでしょう。苦しまれるのはお嬢様です」


 男は黙り込んだ。彼女が公爵邸に戻って来てやったことは、青年は自分の家出に付き添ってくれただけだと主張すること、そして男への謝罪だった。


 気の迷いで愚かなことをしたとは言え、自分は疚しいことなど何もない生娘である。もう二度とこのような真似をしでかすことはしないから、どうかこの縁談を破談にしないでほしい。王族を除けば最も高貴な人間として生まれついた彼女が頭を下げて頼み込んだのは、自らに課された責任ゆえだろう。彼女もまた、公爵家を背負って立っている。


 公爵の徹底した緘口令により、今のところ彼女の家出は表沙汰になっていない。社交界でいくらか噂が立つこともあるかもしれないが、男はこの元使用人の青年に事情を聞くことを条件に彼女を許した。

 そのとき彼女は崩れ落ちるようにして安堵し、ぎりぎりで踏みとどまり再び青年の身の潔白を主張していた。恋人を庇うのかと尋ねた男に、彼女はこう答えている。


 彼は公爵家の使用人でした。私は公爵家に連なる者として、彼を守らねばなりません。


 彼女が守らなくてはならないと感じているのは、何も男の眼前にいる青年ひとりではなかろう。素直に納得させられてしまうほど、彼女の言葉には責任感以外のものは存在しなかった。


 おそらく、青年の言っていることは正しい。その正確な観察眼が、男には悲しく映った。そんな沈黙をどうとったのか、青年は皮肉げに微笑む。


「愚かだとお思いですか? もう二度と会うことも叶わぬ女にそこまで入れあげる僕が」

「いや、そんなわけではない」

「いいのです。きっと、僕以外の誰にも分かってはもらえないと自覚しています」

「何か誤解しているようだが、私はお前が愚かだなどとは思っていない。ただ、そうだな。どうしてそこまで尽くせるのかと疑問に感じているだけだ」


 青年は意外なことを言われたとでも思っているように、片眉を上げた。


「尽くしているつもりはないですよ」

「だが、私にはそう見える。理由が知りたい」


 青年はしばらく困ったように黙り込んでから、決して視線を逸らそうとしない男に観念したらしく口を開いた。


「お嬢様と初めてお会いしたとき、僕はひどく心細かったのです。男女合わせて十一人もいるきょうだいたちのなかで、外に出されたのは僕でした。一番要領がいいのはお前だから、きっと外でもやっていける。両親は言いましたが、僕は見捨てられたと思った。正直腹も立ちましたが、実家の商売がか上手くいっていないことも分かっていので、どうにもこうにも。結局は文句のひとつも言えず、家を出ました」


 言葉を切り、青年は苦笑した。


「これは公爵邸に来てから気付いたのですが、両親はきょうだいたちのなかで物分かりが一番いいから僕を選んだのでしょう。慣れない場所で大人たちに囲まれて、一人前であることを子どもの体力で求められるのはきつかった。その辛い毎日のなかでそんな事実にふと思い当たってしまって、僕は何もかも嫌になっていました」


 男とて、貴族の端くれだ。それも名門と言われる貴族の嫡男として、厳しく育てられた。子どもだてらに大人の振る舞いを求められることなど、青年と同じく日常茶飯事だった。

 それでも男のそばには、いつも誰かしら男自身を案じてくれる他者がいたように思う。あのころは、それがどんなに幸運なことだったのか分からなかったが。


「そんなとき、お嬢様は両親のくれた僕の唯一の特技を魔法だとおっしゃいました。あの言葉にどれほど慰められたか、あの笑顔にどれほど勇気づけられたか、実家に里帰りするきっかけを下さったことに僕がどれほど感謝しているか、きっとほかの誰にも分からないでしょう」

「そのことを、彼女には言ったことがあるのか?」

「ありません。魔法使いの裏事情なんて、知っても興醒めするだけですから」


 平然と答える青年に、男は呆気にとられた。おおかた青年は、むやみに彼女を煩わせたくないなどと考えたのだろう。このことを話そうとするならば、青年の弱音に触れずには済ませられない。


「なんと言うか、お前はとても頑固だな」


 男は、どうしても青年に尋ねたくなった。


「後悔しないのか?」

「そんなもの、するわけがありません。お嬢様が笑って下さるのなら、僕はなんだって構わないのですから」


 ふと、男は考えた。全身で寂しいと叫んでいたくせに、決して言葉にはしなかったという彼女。もしかしたら、その当時の彼女は目の前の青年のような表情をしているのかもしれない。

 強烈に思う。そのときそばにいるのは、自分でありたかった。けれど、現実にいたのはこの青年だ。彼女を支え続けたのは、青年だった。

 だから、自分は青年のことを憎めない。


「……公爵殿からは、彼女の視界に入るなとしか言われていないのだろう。これからどうするか、もう決まっているのか?」

「いえ、まだ。何しろ、これほど罰が軽いとは思っていなかったもので。公爵や奥様も家出のきっかけはご自分たちだという自覚がおありのようでしたから、僕を手酷く罰するのは気が咎めたのかもしれませんが、そんなことは想定しておりませんでしたし」

「それなら提案がある。私のもとで働かないか?」


 青年はしばし黙りこくっていた。それから、胡乱な目つきで男を見やる。


「何を考えていらっしゃるのですか?」

「何も企んではいないぞ。お前みたいな人間は嫌いじゃないし、むしろ好みだ」

「……おかしな方ですね、こんなのを見込まれるだなんて。きっと、お嬢様と似合いの夫婦になられますよ」


 男は淡く微笑んだ。似合いの夫婦。それは、男へのはなむけの言葉にほかならない。


「で、どうするんだ? うちで働く気になったか?」

「考えておきます」

「その気はない、ということか」


 青年は首を竦めてみせるばかりで、何も言わない。それが答えなのだろう。男は青年に退出の許可を出した。青年の後ろ姿に、最後に一言だけ声をかける。


「このまま自棄を起こして自殺したりするなよ」


 青年はぴたりと足を止め、呆れた顔で振り返る。


「……しませんよ。そんなことをするぐらいなら、あなたのもとで働きます」


 言い放つと、今ではもう魔法使いではなくなった青年は、今度こそ振り向かずに去って行った。

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