僕は愛を知らない
僕の名前は、ベン・ケイポン。普通の会社員だ。
不思議な名前だって? あぁよく言われるよ。
いきなりなんだけど……実は最近、少し困りごとがあってね。
どうやら僕は……『愛』を知らないみたいなんだ。
おぉ~~っとおっと、まだ行かないでくれよ?
これは決してふざけているワケじゃなくて、重要なこと、なんだ。
っというのもだね……。
僕は今、とんでもなくモテている。
いやいや、それはそれは良いことだよ??
確かに、間違いなく嬉しいことなんだけど……みんながみんな、その熱量が異常でさ?
まぁ同じ熱量の人で分かり合える人もたまにはいるんだけど……残念ながら、いつの間にかその人も熱狂的なファンになっちゃうんだ。
自惚れてるだけなんじゃないかって?
いやいや、そんなわけないじゃないか!
現に今だってほら!
廊下を歩けば、誰かが僕を見つけて熱狂的な声を出しながら追いかけてくるし、窓の外を眺めていれば、じっと熱い視線を注がれる。
部屋のドアを開けた瞬間、まるで飢えた獣のような勢いで飛びかかってこられることだって、日常茶飯事なんだ。
本当にみんな、僕のことが欲しくてたまらないらしい。
けれど……申し訳ないことに、今の僕にはその情熱を受け止める資格がないんだ。
最初に言った通り、僕は『愛』という感情が欠落してるみたいでさ? その基準がよく分からない。
それに、実をいうと僕の記憶はどこか曖昧でね?
自分の過去すらまともに思い出せない男に、彼らの愛情を受け止めることなんて出来ないのさ。
おっと、そんなことを話していたら、さっそく彼女に見つかったみたいだ。
「おいおい、待ってくれって! 前にも言っただろう? そんなに急に詰め寄られても困るって」
彼女は、毎日廊下の曲がり角で僕のことを待っている同僚の女の子!
汚れた白衣姿に髪もボサボサ。
きっと何日も家に帰れてないんだろうね……。
まったく、ここは酷いブラック企業だったみたいだ。
さて、そんな彼女だけど、彼女は僕がここを通ると、必ずと言っていいほど熱烈なハグを要求してくる。
とはいえ僕も毎日こう待ち伏せされていては手慣れたもんさ。
僕は、強引にハグをしようとする彼女の突進を、ひょいと躱す。
あぁ……彼女は今日も生気を失ったうつろな瞳で僕を見上げて、見れば顔色も青白い。
まったく、僕に愛を示すより先に君は早く家に帰るべきだ!
「ヘイ! キューティーガール? 落ち着きなって! 僕はこれから仕事でね! 君はゆっくり休んでてくれよ!」
僕がそう優しく声をかけてあげるんだけど、彼女は結構肉食系みたい!
ハグがダメならキスをと言わんばかりに彼女はぐっと顔を近づけて、僕の顔に強引にキスを迫る。
いやはや、何度見てもすごい熱量だ!
日に日に力が増しているような気もするし……これは僕に対する愛情が増しているのだろうか?
これもきっと彼女なりの愛の表現なのだろうけれど……どうやら僕は今日も『愛』を知らないみたいだ。
「ちょっと強引で悪いけど! 仕事に遅れちゃうんでね! それじゃまた!」
そう言って僕は苦笑しながら彼女の手を外し、その場を足早に立ち去る。
――僕が唯一覚えているのは、自分の名前と、割り当てられた仕事部屋の場所だけ。
といっても、仕事しているかどうかを周囲に確認させるっていうブラック企業の体質だったのか、どの部屋も壁一面がガラス張りになっているのは少し気になるけれど……どうやら彼らも礼節をわきまえているのか、僕が部屋の中にいると、意外と静かなもんだ。
だから、僕は自分の仕事部屋に戻るこの瞬間だけは、ホッと息をつくことができる空間ってわけ!
トイレや食堂に行くと、息をつく暇もないからね……はは。
部屋の中は、熱狂的なファンがいる外と違って静かなもんさ。
机の上にはいくつものガラス瓶が置いてあって……ここはなんていうか……そう! 化学室みたいな場所だね!
「さて、仕事をするか~」
な~んて言いながら椅子に腰かけてみるけれど……。
「……うん! 全然思い出せないや!」
記憶が戻るかもしれないと思って何度も椅子に座ってみるけれど、仕事内容がぜ~んぜん思い出せないんだよね!
そうやって僕が椅子をクルクルと回しながら何かを思い出そうとしていると、コン、コンと、窓を叩く音がした。
う~ん、いや、コンコンというには少し強く叩きすぎかな?
「まったくもう……仕事部屋にまで押しかけるなんて、厄介なファンもいたもんだ」
音の出どころを見てみれば、そこにはガラス窓を強く叩く男がいた。
どこかで見たような気もする顔なんだけど……シャツがビリビリに引き千切られて、上半身が露わになってまで働く同僚なんて……うん、思い出さなくてよさそうだね!
いやぁしかし、男性ながらに周囲の目も気にせずに僕に会いに来るなんて、多様性の社会というのは随分進んだみたいだね!
……なんて、呑気に感心していた矢先のことだった。
バキッ、と。
彼が叩くガラス窓に、痛々しい亀裂が走った。
よくよく見ればそこには既に小さなひびが入っていて、どうやら強度が弱っていたみたいだ。
「おいおい、待ってくれよ!」
そう驚く間もなく、男は全体重を預けるように再び窓をたたくと、ガシャーンッ、と盛大な音を立てて窓ガラスを突き破って部屋に入ってきた。
飛び散る破片なんて、彼は当然お構いなし!
「ちょっ、待って待って! アプローチの熱量がとんでもないね君!? 僕と付き合いたいなら、ガラスの弁償代は君が全部払ってくれよ!?」
そう言いつつも僕は慌てて椅子から飛び起き、背後へと下がる。
しかし、男はそんな僕の言葉など耳に入っていないかのように息遣いを荒げてハグを迫る。
男性にしては珍しく赤い口紅を塗りたくった唇が眼前に迫る……けど!
多方面に喧嘩売って申し訳ないけど、僕はファーストキスは女性のが嬉しいかな!
「っ、悪いね! 代わりに僕の仕事をしててくれ!」
僕は彼を先ほどまで座っていた椅子へと押し返し、文字通り逃げるように部屋を飛び出した。
けれど、あまりにも音が大きすぎたんだろうね。
僕がここにいるって聞きつけてきた熱烈なファンたちが、沢山やってきたみたいだ!
「まったく! 今日はファンの数も多いから、早帰りでもしようかな!」
廊下の角を曲がれば、同僚のキャサリーン。
食堂で駄弁っているのは、太っちょボブに、おちゃらけマイク。
トイレから飛び出してきたのは、親友のザックじゃないか!
「っ、もう! みんなして、僕のどこがいいっていうんだよ~~!」
どれだけ逃げても追ってくるファンたちに息を切らしながら廊下を駆け抜け、僕は一刻も早くここから逃げ出すため出口に続くエレベーターに向かう。
エレベーター前にファンがいたらどうしようもなかったけれど……僕は運がいい!
どうやらエレベーターは誰も使ってないみたいだ!
あれを使えば、一気にエントランスまで逃げ切れるはず。
外に出ちゃえばもう家に帰るだけさ!
そうして僕は一目散にエレベーターのボタンへと駆け寄り、上下の矢印ボタンを狂ったように連打した。
けれど――。
「あれ? こんな時に故障かな……?」
いくら押しても、ボタンのランプは冷たく沈んだままで、一向に反応する気配がない。
もう一度強く押し直してみるが、機械が動く音すらない。
非常用電源すら落ちているのか、それともシステムエラーなのだろうか。
全く、このままじゃ家に帰れないじゃないか!!
この、ブラック企業め~~~!
何度も何度もエレベーターのボタンを押していると、その音を聞きつけたのか、背後からガリガリと床を引っかくような、彼らが近づいてくる音が聞こえた。
振り返って見てみれば、そこには、同僚にして、同じ部屋で働いていた女性――アイシャがいた。
彼女は赤いコートを翻しながら、僕に向かって手を伸ばして迫ってきていた。
すると、その両脇からも、さらに数人の社員たちが熱烈な声援を上げながら群がってきた。
逃げ場のない行き止まり。
迫り来る無数の手が僕の服を掴もうと伸びてくるその瞬間、僕は小さく息を吐いて呟いた。
「はぁ~~~あ、まっ、たまにはファンへの感謝祭、ってのも、あっていいか~……」
これだけ沢山のファンがいれば、誰かひとりぐらいは僕に『愛』を教えてくれるだろう!
そう思いながら、僕はアイシャの接吻を首元に受け入れて―――――。
――――『僕』を思い出した。
激しい頭の痛みから目を覚まして立ち上がると、研究室の分厚い強化ガラスの向こう側に、おぞましい光景が広がっていた。
血まみれの白衣を引き裂いた同僚たちが、生気を失ったうつろな目でフロアをさまよい、床に倒れた別の職員の肉を生々しく引き裂いて貪り食っている。
壁やガラスにはおぞましい血の手形が無数にこすりつけられ、あちこちから獣のようなうめき声と骨が砕ける音が響き渡る。
そしてそれは、僕が開発した化学兵器の効能と全く同じものだった。
思わず後ずさった僕は、足元に転がる割れたガラス瓶を見つける。
これは、僕が気絶する前に兵器の共同研究をしていたアイシャが……。
いや……僕の恋人でもあったアイシャのミスにより割ってしまった成れの果てだ。
彼女は、自分がその効力の餌食になるのを恐れ、ドアの近くにいた僕を突き飛ばし……ガラス窓へ叩きつけた。
幸運だったのは、その衝撃で窓が割れて穴ができ、そこから室内のガスがすべて排出されたことと、そのまま転倒して床に這いつくばっていたおかげで、僕はそのガスの直撃から免れることができたこと。
不運だったのは、モルモットでの実験をもとに開発した抗ウイルス剤が、人間には効果を発揮しなかったこと。
一応、空気中に浮かぶウイルスは死滅させたものの……。
しかし、このガスがもたらした被害は甚大だった。
このガスの効力は、人間の脳神経を破壊し、肉欲と破壊衝動の塊である感染者へと変え果てさせるというものがメインだが、もう一つの特徴として、一度感染すれば、感染者の体内でもそのウイルスを培養し続けるという特徴がある。
これにより、当初、感染者は数人程度だったものの、口内感染や接触感染などにより彼らはあっという間に数を増やし、僕が目覚めたときには既に数百人の研究員や職員たちがその姿へと変貌していた。
ガラス窓の外から僕に群がる数十人のゾンビたちは、愛の告白をしているのではない。
彼らはただ、生きた人間の匂いに狂い、目の前で動く唯一の"食材"を喰らい尽くすために、牙をむき出しにして窓を叩き続けているのだ。
そんな状況において、生き残ってしまった人間は、果たしてどのような行動を取るのか。
そうして生き残った彼が……自ら、記憶を改竄し、自身に都合の良い妄想で塗り固めるのも……仕方のないことだろう。
「あれ? みんな、そんなに僕に向かってアピールしてどうしたんだい? まったく、困ったファンだなぁ?」
――――彼は『愛』を知らない。
しかしそれは、彼自身が『僕』を忘れたからだとは……もはや、本人も思い出すことはないだろう。
静まり返った施設内に、ガシャリ、と音が響く――。
かつての仕事場の廊下に男が一人。
血走った目を剥き出しにしながら歩くその男の両手は、まるで愛しいファンたちを迎えるかのように無気力に前へと突き出されている。
彼は……。
いや……彼らは、『自分』を知らず、ただ、歩き続けるのだ―――――。




