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運命は、まだ検索結果に載っていない  作者: 久遠 睦


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スワイプできない記憶

第七章:スワイプできない記憶


青い泡の向こう側(一部)


送信ボタンを押した後の部屋は、それまでよりもいっそう静まり返ったように感じられた。

スマートフォンの画面に浮かぶ、自分の送った青い吹き出し。それは今の紗良にとって、暗い海へ投げ入れた最後の一本の命綱だった。

(……迷惑だったよね。こんな時間に、まだ一度しか会ったことがない相手に)

送ってから数分。既読はつかない。

当然だ。時計の針は、すでに日付を越えて一時間を刻もうとしている。普通の社会人なら、明日の日曜日に備えて深く眠っている時間だろう。

紗良はスマートフォンをシーツの上に置き、一度大きく息を吐いてから、再び画面を覗き込んだ。

佐藤からのLINEは、今日も一日中、絶え間なく届いていた。彼はいつも「今何してる?」「明日は楽しみだね」と、自分のペースを押し付けてくる。けれど、自分が勇気を出して送ったこの一通の重みは、佐藤から届いた数百通の言葉よりも、ずっと切実に紗良の指先を熱くさせていた。

「もう、寝なきゃ……」

自分に言い聞かせ、画面を伏せる。

けれど、まぶたを閉じると、あの日曜日の公園での瀬尾さんの声が蘇る。

「雨の日も、悪くないですね」

その声が、今の自分の混乱した心を、優しくなだめてくれるような気がした。

その時だった。

枕元で、スマートフォンが短く、けれど力強く震えた。

信号、そして温度

心臓が跳ねた。

慌てて画面を点けると、そこには、ずっと待ち望んでいた名前が表示されていた。

『瀬尾』

既読がつくと同時に、メッセージが届く。

『起きていました。……明日ですね。もちろん、お会いしたいです』

その一文だけでも、紗良は涙が出そうになるほど安堵した。けれど、続いて届いた二通目のメッセージが、彼女の胸の奥をぎゅっと締め付けた。

『何か、ありましたか? こんな時間に連絡をくれるなんて、少し心配です。……何か僕にできることがあれば、いいのですが』

(……ああ)

紗良は唇を噛み締めた。

瀬尾さんは気づいている。彼女が、ただ「会いたい」という軽やかな気持ちだけでこの連絡をしたのではないことを。深夜という時間の不自然さから、彼女の心の揺れを、正確に、そして優しく掬い取ってくれたのだ。

佐藤は、紗良が無理に作った笑顔を「おしとやかな君」と定義して喜んでいた。

けれど瀬尾さんは、言葉の隙間に隠れた、彼女の小さなSOSを感じ取ってくれる。

会った回数でも、スペックでもない。

ただ「心が通じ合っている」という感覚が、液晶画面を越えて、確かな体温を持って伝わってきた。

明日、お昼に

紗良は、震える指で返信を打つ。

『すみません、夜遅くに心配させてしまって。……何かあったわけではないんです。ただ、どうしても、瀬尾さんの顔が見たいと思ってしまって。……本当に、わがままを言ってごめんなさい』

『わがままなんて、思っていません。……じゃあ、明日のお昼、一緒にランチでもいかがですか? 落ち着いてお話しできる、静かな場所を知っています』

瀬尾さんの提案は、いつも押し付けがましくない。

「どこに行きたい?」と彼女に委ねすぎることも、「ここに行くぞ」と強引に決めることもない。ただ、今の彼女が必要としている「静寂」を見越したような、完璧な配慮。

『はい。ありがとうございます。楽しみにしています』

『ええ。おやすみなさい、紗良さん。……ゆっくり、休んでくださいね』

最後のメッセージを見届け、紗良は今度こそ、スマートフォンの電源を落とした。

佐藤と過ごした湘南の海よりも、高級レストランのフルコースよりも。

瀬尾さんの「ゆっくり、休んで」という短い言葉の方が、今の彼女を深く、優しく包み込んでくれた。

窓の外では、月が静かに街を照らしている。

明日は日曜日。

スペックも、効率も、周囲の期待も。

そんな「外側の音」が届かない場所で、彼女は初めて、自分の心に従った時間を過ごそうとしていた。

二十六歳の、嵐の前の静かな夜。

紗良は久しぶりに、一度も目を覚ますことなく、深く穏やかな眠りに落ちていった。


硝子越しの慈雨(二部)


約束の日曜日、窓の外は昨日までの突き抜けるような青空が嘘のように、しっとりとした灰色の雲に覆われていた。

激しい嵐ではない。ただ、世界全体の輪郭を優しくぼかすような、静かで柔らかな雨。

目黒川沿いの路地裏にある、小さなイタリアン・ビストロ。蔦の絡まるレンガ造りの建物の窓は、雨露を含んで宝石のように光っている。

「紗良さん、こちらです」

店の奥から声をかけてきた瀬尾さんは、雨の色に溶け込むような、落ち着いたネイビーのカーディガンを羽織っていた。その姿を見た瞬間、紗良の胸の奥を締め付けていた見えない糸が、ふっと緩むのを感じた。

「……瀬尾さん。急なわがままを聞いてくださって、本当にありがとうございます」

席に着くなり、紗良は深く頭を下げた。

雨音は、硝子一枚を隔てて心地よいリズムを刻んでいる。外の喧騒を遮断し、この小さなテーブルだけを一艘の小舟のように孤立させてくれる。この静寂があるからこそ、普段は臆病な紗良の心も、少しだけ素直になれる気がした。

「昨夜、あんな時間に連絡してしまったこと……驚かれましたよね。本当に、ごめんなさい」

「驚いたというよりは、心配でした。……何か、僕にできることがあればいいなと思って」

運ばれてきた温かなハーブティー。立ち上る湯気の向こうで、瀬尾さんの瞳はどこまでも穏やかだった。

隠した名前と、語り合う哲学

「実は……最近、少しだけ、自分の居場所を見失いそうになっていて」

紗良は、言葉を選びながらポツリポツリと話し始めた。佐藤の強引な誘いや、マイからの「ハイスペックな彼を選べ」という無言の圧力。その具体的な「泥」をこの場所へ持ち込むことはまだできなかったが、それによって削り取られた心の痛みを、彼女は正直に打ち明けた。

「周りからは『これが幸せの形だよ』って、完成された図面を押し付けられているような気がして。……でも、私の心はその図面の上を上手く歩けなくて。自分が不器用なだけなんじゃないかって、ずっと自分を責めていたんです」

瀬尾さんは、窓を叩く雨脚を見つめながら、静かに頷いた。

「正解、なんていうものは、誰かが勝手に引いた境界線に過ぎませんよ。……特に、効率を求めるこの街では、心の震えよりも、目に見える数字の方が信じられやすいですから」

彼は少しだけ自身の過去を語ってくれた。金沢の雨の多い街で育ったこと。煌びやかなランドマークを作る建築よりも、誰もがふと立ち寄って雨宿りができる、名もなき公園の設計を選んだこと。

「僕が作りたいのは、完璧な建築物じゃないんです。誰かが寂しい時に、ただそこにいてもいいんだと思える『余白』を作りたい。……紗良さんも、今はその『余白』が必要なのかもしれませんね」

彼の言葉の一つひとつが、雨音と共に紗良の心に染み渡っていく。

佐藤が語っていた「プロジェクトの規模」や「自分の市場価値」という言葉とは、対極にある思想。

瀬尾さんの視線は、常に「そこにいる人」の孤独や呼吸に向いている。

その誠実な哲学に触れれば触れるほど、紗良の心の中の天秤は、もう元には戻れないほど大きく、彼の方へと傾いていった。

勇気の雨滴

(……もっと知りたい。この人のことを、もっと)

雨が、二人の間の空気をさらに濃密にしていく。

外を歩く人々は傘をすぼめて急ぎ足で過ぎ去っていくが、この店の中だけは、時間が凪のように止まっている。

紗良は、喉の奥に溜まっていた、けれどずっと怖くて聞けなかった問いを、震える指先で手繰り寄せた。

「瀬尾さん……あの、一つだけ、お聞きしてもいいですか?」

「ええ、何でも」

「瀬尾さんには……その、どなたか。……大切にされている女性は、いらっしゃいますか?」

言い終えた瞬間、自分の心臓の音が雨音よりも大きく響いた気がした。

真面目すぎて、自分から誰かのプライベートに踏み込むことなど、これまでの彼女にはできなかった。けれど、佐藤という「外側の正解」に飲み込まれそうになっている今、自分の心が求めているこの人の「真実」を、どうしても確かめたかったのだ。

瀬尾さんは、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。

そして、雨音に混じるような、少しだけ寂しげで、けれど確かな響きを帯びた声で答えた。

「……今は、誰もいません。……というか、ずっと一人でした。自分の理想とする『居場所』を探しているうちに、誰かと歩幅を合わせることを忘れていたのかもしれません」

彼は少しだけ自嘲気味に笑って、それから真っ直ぐに紗良の瞳を見つめた。

「でも。……最近、雨の日が待ち遠しいと思うようになりました。ある、不思議な女性に出会ってから」

その言葉に、紗良の視界が不意に熱くなった。

彼が誰のことを言っているのか、自惚れてもいいのだろうか。

雨音に包まれたこの小さなビストロで、二十六歳の紗良は、初めて「条件」や「正解」のない、剥き出しの恋の入り口に立っていた。

けれど、その幸せな震えを打ち消すように、バッグの中でスマートフォンが冷たく振動した。

液晶に浮かんだのは、佐藤からの『来週のデートのプラン、決まったよ。楽しみだね』という、無邪気で残酷な一文だった。


静寂の選択(三部)


バッグの底で震え続けるスマートフォン。画面を見ずとも、それが佐藤からの「次の予定」を一方的に告げる言葉であることは分かっていた。

これまでの紗良なら、申し訳なさに急かされるように、すぐに返信をしていただろう。あるいは、せっかくの瀬尾さんとの時間に水を差されたことに、一人で勝手に傷ついていただろう。

けれど、今の彼女は違った。

目の前に座る瀬尾さんは、彼女の動揺を責めることも、その理由を問い詰めることもせず、ただ温かいお茶を口に運んでいる。その所作の一つひとつ、言葉の端々に宿る誠実さが、あの雨の日の出会いから今日まで、何一つブレていない。

(この人の言葉には、嘘がない……)

佐藤の言葉が、自分を美しく見せるための「装飾」だとしたら、瀬尾さんの言葉は、心の奥に静かに置かれる「一輪の花」のようだった。

紗良はそっとバッグの口を閉じた。今は、通知の光よりも、目の前の人の瞳に映る自分を信じたかった。

「……瀬尾さん、すみません。もう、大丈夫です」

「ええ。……行きましょうか。雨、上がったみたいですよ」

瀬尾さんの言葉に導かれるように外へ出ると、そこには驚くほど清らかな世界が広がっていた。

境界線のない散歩道

路地を抜け、目黒川沿いの遊歩道に出る。

ついさっきまで世界を濡らしていた雨は、アスファルトの上に空を映す鏡を残して消え去っていた。雨上がりの土の匂いと、洗われたばかりの緑の香りが、肺の奥まで清々しく満たしていく。

二人は、どちらからともなくゆっくりと歩き出した。

「雨上がりの川沿いは、空気が澄んでいて好きなんです」

瀬尾さんが、手すりに残る雫を眺めながら言った。

「景色に境界線がなくなって、全部がつながっているような気がしませんか?」

「境界線……」

紗良はその言葉を、心の中で反芻した。

仕事とプライベート。本音と建前。そして、今の自分が抱えている、瀬尾さんと佐藤という二つの世界。

彼女は今、その境界線の上で、必死にバランスを取ろうとしている。

「私は……いつも、誰かが引いた線の中を歩くことばかり考えていました。でも、瀬尾さんとお話ししていると、その線がどこにあったのか、忘れてしまいそうになります」

「それでいいんだと思いますよ、紗良さん」

瀬尾さんは歩みを止め、穏やかに彼女を見つめた。

「誰かの引いた線の上を歩くのは、迷わなくて済むけれど、自分の足音までは聞こえなくなってしまいますから」

その言葉は、紗良の胸の最も深い場所に、すとんと落ちた。

佐藤の隣で感じていたのは、彼の引いた豪華な線の上を、必死に、けれど虚しく歩かされている自分だった。

けれど今、瀬尾さんの隣で歩くこの道には、線なんてどこにもない。ただ、自分の足音が、心地よく耳に届いている。

秘めた覚悟、つなぐ約束

佐藤の存在を、今ここで打ち明けるべきだろうか。

その思いが、一瞬だけ唇まで上がってきた。けれど、紗良はそれを飲み込んだ。

この清らかな空気、瀬尾さんと共有しているこの「純粋な時間」を、佐藤という名前で汚したくない。それは彼女のわがままかもしれないが、今の彼女にとっては、自分自身を守るための最後の聖域だった。

「……瀬尾さん。私、次に瀬尾さんにお会いする時には、もっと、胸を張って笑えるようになっていたいです」

「今でも、十分に素敵な笑顔ですよ」

「いいえ。……自分に嘘をつかないで、真っ直ぐに瀬尾さんのことを見られるように。……そうなりたいんです」

瀬尾さんは、彼女の言葉の裏にある「決意」を悟ったように、優しく目を細めた。

「分かりました。……じゃあ、その『新しい笑顔』を見せてもらえる日を、楽しみにしていますね」

駅の改札。

人の流れが二人を隔てようとする中で、二人は次の約束を交わした。

来週の、日曜日。

それは、佐藤と約束してしまった「ギャラリー巡り」と同じ日だった。

「楽しみにしています、紗良さん」

「はい。……私も」

走り去る電車の音を聞きながら、紗良は心の中で、静かに、けれど鋼のように強い誓いを立てた。

(次に彼に会うまでに、全てを終わらせよう)

佐藤さんへの、曖昧な「はい」。マイへの、臆病な「沈黙」。

自分を殺してまで守ろうとした、偽りの平穏。

それら全てに別れを告げなければ、瀬尾さんの隣を歩く資格はない。

二十六歳の、雨上がりの日曜日。

紗良のスマートフォンには、まだ佐藤からの通知が溜まり続けている。

けれど、もう彼女の心は震えていなかった。

本当の恋を知った人は、自分を愛するための勇気さえも、同時に手に入れるのだから。


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