涙の理由を知る人
第六章:涙の理由を知る人
完璧なサタデー・ブルー(一部)
土曜日の朝、紗良のマンションの前に停まった白の輸入車は、五月の陽光を跳ね返して眩しく輝いていた。
「お待たせ、紗良さん。今日もいい天気で良かった」
運転席から降りてきた佐藤は、仕立てのいいネイビーのポロシャツに、真っ白なチノパンという、絵に描いたような清潔感を纏っていた。マイが「超優良物件」と評するのも頷ける。彼は、二十六歳の女性が「こうあってほしい」と願う理想の休日を、物質的にも視覚的にも完璧に用意してくれていた。
車内には、微かに高級なルームフレグランスの香りが漂っている。
湘南へと向かう高速道路。佐藤は淀みのない口調で、最近手掛けた大きなプロジェクトの成功談や、学生時代の華やかなエピソードを披露した。
「紗良さん、お腹空いてない? 今日予約した店、テラス席から江ノ島が一望できるんだ。あそこのリゾット、絶対に気に入ると思うよ」
「……ありがとうございます。すごく、楽しみです」
紗良は助手席で、精一杯の微笑みを作った。
彼の話は面白いし、気遣いも完璧だ。自分を喜ばせよう、楽しませようという彼の真っ直ぐな熱意が伝わってくる。だからこそ、その熱意に対して「心が動かない」自分に、紗良は言いようのない申し訳なさを感じていた。
彼がハンドルを叩きながら笑うたび、紗良はそれに合わせて相槌を打ち、笑顔を返す。それは、真面目すぎる彼女なりの、彼に対する「誠実さ」のつもりだった。けれど、その笑顔を作れば作るほど、心の中には冷たい澱のようなものが溜まっていく。
(……私は今、何を演じているんだろう)
窓の外に広がる湘南の海は、刺すように青かった。
レストランに着くと、佐藤の宣言通り、そこには息を呑むような絶景が広がっていた。行き届いたサービス、宝石のように盛り付けられた前菜。佐藤はスマートにワインをオーダーし、紗良のグラスが空くのを決して見逃さない。
「美味しい?」と覗き込む彼の瞳には、純粋な好意が宿っている。
「はい、すごく」
紗良はまた、嘘ではないけれど、本当でもない笑顔を浮かべた。
周囲のテーブルを見渡せば、自分たちと同じような、着飾った男女が幸せそうに談笑している。その光景の中に、今の自分も完璧に溶け込んでいるはずだ。マイが見れば「ほら、言った通りでしょ?」と満足げに頷くだろう。
けれど、心の最深部にある、あの涙もろくて不器用な紗良が、ずっと膝を抱えて震えている。
あの日、雨の中で瀬尾さんが差し出してくれた、あの安っぽい黒い傘。
あの時、濡れた肩の冷たさと引き換えに感じた、震えるような心の高鳴り。
その、名前のない感情の欠片を、今の彼女はこの豪華なランチコースのどこにも見つけることができなかった。
佐藤がデザートの皿を指して、「ここのシェフ、本場イタリアで修行しててさ」と解説を始める。紗良はそれを聞きながら、自分の中の「本当の声」に、これ以上気づかないふりをするのが、耐えがたくなっていた。
眩しすぎる太陽、完璧なエスコート、そして自分の意志を置き去りにしたまま進んでいく「正しい恋愛」の形。
海沿いの国道を走る車の振動を感じながら、紗良はただ、この青すぎる景色が早く夜に溶けてしまえばいいのにと、不謹慎なことを願っていた。
遮光された密室
陽が落ち、湘南の街灯が途切れ途切れに車内を照らし出す。帰りの高速道路、佐藤の輸入車は静寂そのものだった。高性能なエンジン音は遠く、遮音性の高い空間は、今の紗良には逃げ場のない檻のように感じられた。
佐藤がふと、オーディオのボリュームを下げた。
「ねえ、紗良さん。……紗良さんって、本当はどういう人がタイプなの?」
不意の質問に、紗良は心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。
嘘をつくべきか、それとも当たり障りのない正解を答えるべきか。頭の中には、あの雨の日の瀬尾さんの横顔が浮かんでいた。けれど、それを口にすることは、今、自信満々にハンドルを握るこの男性を、根底から否定することになる。
「……えっと。優しくて、穏やかな人、でしょうか」
「それ、俺も当てはまってるかな?」
佐藤が冗談めかして笑う。その無邪気な自信が、今の紗良には痛かった。彼は自分が「選ばれる側」にいることを、微塵も疑っていない。
紗良は逃げるように、逆に問い返した。
「佐藤さんは……今まで、どんな方を好きになってきたんですか?」
「俺? そうだな。今までは、もっとこう……華やかで、自分の意志がはっきりした子が多かったかな」
佐藤は少し懐かしむように目を細めた。
「バリバリ働いてて、週末は一緒にスカッシュしたり、キャンプに行ったりするような。常に刺激を与えてくれるタイプっていうのかな」
その答えは、紗良の予想通りであり、同時に彼女を絶望させるに十分だった。
佐藤がこれまで愛してきたのは、自分とは正反対の、能動的で光り輝く女性たち。
ならば、なぜ私を選んだのか。
その答えは、続く彼の言葉の中にあった。
「でも、最近気づいたんだよね。外で戦って帰ってきた時に、そういう子だと疲れることもあるんだ。紗良さんといると、自分がすごく『いい男』になったような気がする。君のその、少し自信なさげで、おしとやかなところ。俺が守ってあげなきゃって、本気で思わせてくれるんだ」
「守ってあげなきゃ」
その言葉は、救いではなく、呪縛だった。
彼は紗良自身を愛しているのではない。自分を「有能な保護者」として引き立ててくれる、無力で美しい置物としての彼女を求めているのだ。
マンションの前に車が止まる。
「来週の日曜日、また空けておいて。今度は都内のギャラリーにでも行こう。またLINEするよ」
「……あ、はい」
断りたかった。けれど、一日の労を労ってくれた彼に、その場で拒絶を突きつける勇気は、今の紗良にはなかった。真面目すぎる性格が、波風を立てることを禁じてしまう。
「じゃあ、またね」
佐藤の白い車が、夜の街に溶けていく。
一人残された紗良は、自分の意志が、まるでアスファルトに落ちた雨水のように、跡形もなく消えていくような感覚に襲われていた。
震える月光と、解けない魔法(二部)
玄関の鍵を閉め、暗い部屋の中に滑り込む。バッグを床に置き、着ていたワンピースを脱ぎ捨ててシャワーを浴びたが、佐藤が選んだ香水の残り香が、まだ肌に張り付いているような気がしてならなかった。
パジャマに着替え、吸い込まれるようにベッドに横たわる。
窓から差し込む月光が、シーツの上に青白い境界線を描いていた。
(……このまま、流されていくのかな)
天井を見つめると、今日一日の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎる。佐藤の完璧なエスコート、江ノ島の眩しすぎる青、そして「守ってあげたい」という、あの息の詰まるような宣告。
彼は悪い人ではない。むしろ、世間が定義する「最高に素敵な彼氏」そのものだ。マイが言う通り、彼を選べば、私の人生の不安定な余白はすべて埋まり、安心という名の額縁に収まるのだろう。
けれど、心の奥にある小さな疼きが、どうしても消えてくれない。
(どうして……まだ、一度しか会っていないのに)
瀬尾さんのことを思う。
あの日、雨の中で傘を差し出してくれた、名前も知らなかった彼。
日曜日に再会して、少しだけ言葉を交わした彼。
彼の仕事、趣味、家族、年収――スペックと呼ばれる情報の断片は、佐藤のそれに比べれば、霧のように心もとない。
それでも、彼と目が合った瞬間の、あの魂が震えるような感覚は何だったのだろう。
アプリのアルゴリズムでは決して導き出せない、あのお互いの「欠けた部分」が共鳴し合ったような、静かな確信。
(彼は、私が本当に求めている人なの?……それとも、ただ一度の優しさに、私が夢を見ているだけ?)
二十六歳の現実は、あまりにも冷酷だ。
「たった一度会っただけの人」に心を奪われるなんて、十代の少女の夢物語だと、分かっている。合理的に考えれば、目の前にいる佐藤の手を取るのが、正解に決まっている。
けれど、真面目すぎるがゆえに自分を殺して生きてきた紗良にとって、初めて「自分の心が動いた」という事実は、何物にも代えがたい宝物だった。
彼がどんな人なのか、もっと知りたい。
彼が何に笑い、何に傷つき、どんな未来を見ているのか。
スペックという名のカタログをめくるのではなく、一冊の、まだ誰も読んでいない物語を、彼と一緒に紐解いていきたい。
「……もう、嘘はつけない」
暗闇の中で、紗良はサイドテーブルの上のスマートフォンを手に取った。
指先が微かに震えている。
佐藤への返信はいつも、義務感という重石がついて回った。けれど、今から送ろうとしているメッセージには、彼女の剥き出しの「祈り」が乗っていた。
LINEの画面を開く。「瀬尾」という名前に触れる。
あの日曜日の後、短く交わした「おやすみなさい」の文字を一度だけなぞってから、彼女は文字を打ち込んだ。
『夜分にすみません。紗良です。……急なお願いで本当に申し訳ないのですが、もし、もし明日、少しだけでもお会いすることはできませんか?』
打ち込みながら、心臓が耳元で鳴っているのではないかと思うほど激しく脈打つ。
明日。日曜日。
佐藤には、来週の約束を「はい」と言ってしまった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
今の彼女にとって、明日という日は、自分という人間を取り戻せるかどうかの、瀬尾さんに自分を見つけてもらえるかどうかの、最後の一日であるような気がしていた。
「送信」
青い吹き出しが画面に浮かぶ。
紗良はスマートフォンを胸に抱きしめ、毛布を深く被った。
窓の外では、静かな夜が更けていく。
明日の天気は分からない。
けれど、もう、誰かの用意した傘の下に入るのは、終わりにしようと思った。
ずぶ濡れになってもいい。冷たい雨に打たれてもいい。
私は、私が本当に「好きだ」と感じる温度に向かって、この足で歩いていきたい。
二十六歳の夜。
一人の臆病な女性が、自分の心を守るために、初めて世界へ向かって、静かな反逆の声を上げた。




