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運命は、まだ検索結果に載っていない  作者: 久遠 睦


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名前のない温度

第五章:名前のない温度


残像と体温(一部)


日曜日の夜。自室のカーテンを閉め切っても、瞳を閉じれば、そこにはまだ昼間の鮮やかな光景が焼き付いていた。

公園のベンチで隣り合った時の、瀬尾さんの穏やかな横顔。

彼が語る金沢の雨の美しさ。

そして、私のとりとめもない話を、遮ることなく最後まで聞き届けてくれたあの「静寂」の優しさ。

(……不思議な人)

シーツに顔を埋めると、洗いたての柔軟剤の香りに混じって、どこか彼が纏っていた「外の空気」の匂いが残っているような錯覚に陥る。

これまでの人生で、男性と「知り合う」ということは、常に履歴書を交換するような作業を伴っていた。大学はどこか、仕事は何をしているのか、将来の展望はどうなっているのか。

けれど、瀬尾さんと過ごした数時間、私たちはそんな「検索条件」には一度も触れなかった。

彼が何を大切にし、何に心を痛め、どんな風に世界を見ているのか。

そんな、言葉にするのが難しい、けれど人間の核となる部分に、そっと指先を触れ合わせたような時間だった。

迷いと、指先の熱

枕元で、スマートフォンが一度だけ短く震えた。

また、佐藤さんからだろうか。そう思うと、胸の奥が冷たく強張る。合コン以来、彼から届くLINEは、いつも「僕を選べば間違いないよ」という無言の圧力に満ちていて、読むたびに自分の心が薄く削られるような気がしていた。

けれど、通知センターに表示された名前は、違った。

『瀬尾』

たった二文字の漢字が、暗い部屋の中で宝石のように光って見えた。

(あ……)

あの日、駅前で交換した連絡先。

私から送るべきか、彼からの連絡を待つべきか。そんな駆け引きのような悩みさえ、彼という存在の前では、ひどく卑小なものに思えた。

紗良は震える指で、メッセージを開く。

『今日はありがとうございました。紗良さんの「雨の日のお話」、僕も忘れません。無事に家に着きましたか?』

ただ、それだけの短い文章。

けれど、そこには佐藤さんのような強引な自己主張も、マイが推奨するような「男を落とすテクニック」も、欠片も存在しなかった。

ただ純粋に、私の安否と、共有した時間を慈しむ想いだけがそこにあった。

何度でも、君の名前を

紗良はスマートフォンの画面を胸に抱きしめるようにして、深く息を吐いた。

心臓の音が、静かな部屋の中でトク、トクと、確かなリズムを刻んでいる。

返信を打つ。

一文字打っては消し、また打つ。事務職で鍛えた正確なタイピングが、今夜ばかりは言うことを聞かない。

『無事着きました。こちらこそ、本当にありがとうございました。瀬尾さんとお話ししていると、自分が自分でいていいんだって、そう思えます。金沢のお話、もっとお聞きしたかったです。』

「送信」

青い吹き出しが画面に浮かび上がった瞬間、紗良は顔を赤らめて両手で覆った。

「自分が自分でいていい」だなんて。重すぎただろうか。変だと思われなかっただろうか。

真面目すぎる性格が、すぐに後悔と不安を連れてくる。

けれど、一分も経たないうちに、返信が届いた。

『僕も同じです、紗良さん。……次は、雨の日でも、晴れの日でも、紗良さんの好きな場所へ行きましょう。おやすみなさい。いい夢を。』

「紗良さん」

画面に並ぶその文字を、紗良は指先で何度も、何度もなぞった。

「癒やし系」というラベルでもなく、「事務職の女性」という枠組みでもなく、私というたった一人の人間を呼んでくれる、温かな名前。

紗良の目元が、不意にじわりと熱くなった。

悲しい時だけでなく、嬉しすぎる時も、彼女の涙腺はあまりに脆い。

けれど、今こぼれ落ちた一滴は、これまでの孤独や不安をすべて洗い流してくれるような、清らかな慈雨だった。

(……嬉しいな)

彼がくれた言葉を何度も読み返し、そのたびに心の中で音読してみる。

「おやすみなさい」の一言が、まるで魔法のように彼女を包み込み、深い眠りへと誘っていく。

明日からまた、現実に引き戻されるとしても。

今夜だけは、この「名前のない温度」に守られながら、穏やかな夢を見られる気がした。

眩しすぎる月曜日

月曜日の朝、カーテンを開けると、昨日瀬尾さんと見上げたのと同じ、抜けるような青空が広がっていた。

(……今日も、いい天気だ)

駅へ向かう足取りは、いつもの数倍も軽い。初夏の風がワンピースの裾を優しく揺らし、街路樹の緑が朝日に透けて輝いている。

もう、あの黒い傘は手元にない。日曜日に彼の手へと戻り、紗良の指先に残っていた確かな重みは消えてしまった。けれど、バッグの中にあるスマートフォンを開けば、そこには昨日交わしたばかりのメッセージが、静かに息づいている。

『おやすみなさい。いい夢を。』

その一文を画面越しに見つめるだけで、昨日の公園での穏やかな沈黙や、彼の少し照れたような笑顔が鮮明に蘇る。スペックも、年収も、将来の保証も。そんな「外側の言葉」が入り込む余地のなかった、たった数時間の魔法。

オフィスに入り、「おはようございます」と声をかける紗良の表情は、自分でも気づかないほど明るかった。いつもなら憂鬱な月曜日のルーチンも、心の奥に瀬尾さんという「秘密の灯火」があるだけで、すべてが愛おしい日常に見えた。

しかし、その幸福なバリアは、あまりにもあっけなく破られることになる。

「……紗良、ちょっといい?」

背後からかかった声は、低く、どこか叱責のような響きを孕んでいた。

振り返ると、そこには腕を組み、険しい表情で立ちふさがる同期のマイがいた。

現実という名の「査定」

「マイ、おはよう。どうしたの、そんな顔して」

「おはよう、じゃないよ。あんた、佐藤さんからのLINE、ずっと無視してるでしょ」

マイは周囲に聞こえないよう声を潜めながらも、その言葉の鋭さは隠しようがなかった。彼女は紗良のデスクの端に腰を下ろし、まるで見放した子供を諭すような口調で続けた。

「佐藤さん、私にまで連絡してきたよ。『紗良さんに何か失礼なことしちゃったかな』って。彼、あんなにハイスペックで、性格も良くて、しかも紗良のことをあんなに気に入ってくれてるんだよ? これから先、あんたの人生で佐藤さん以上の条件の人に出会える確率がどれだけあると思ってるの?」

「条件」

また、その言葉だ。紗良はコーヒーカップを持つ指先に、冷たい感覚が戻ってくるのを感じた。

「……マイ、ありがとう。でも、私、どうしても彼とは心の距離が縮まらなくて」

「心の距離? 紗良、あんた二十六歳なんだよ? 夢見てる場合じゃないって。恋愛なんて、最初はみんな条件から入るの。そこから時間をかけて家族になっていくんでしょ。佐藤さんみたいな『超優良物件』、他の子が放っておくわけないじゃん。もったいない、っていうレベルじゃないよ。これはもう、一生の損失だよ」

損失。

人生をビジネスのように語るマイの言葉は、真面目すぎる紗良の胸に、じわじわと毒のように回っていく。

マイは決して意地悪で言っているのではない。彼女なりに、紗良の将来を本気で心配しているのだ。それが分かっているからこそ、不器用な紗良は強く言い返せない。

「今夜も、彼から誘いがあるんでしょ? ちゃんと返しなよ。一回、二人でゆっくり会ってみなよ。彼の良さは、一対一にならないと分からないって」

マイは最後に「あんたのためを思って言ってるんだからね」と念を押し、自分のデスクへと戻っていった。

残された紗良の耳元には、瀬尾さんの穏やかな声ではなく、マイの放った「市場価値」という言葉が、不快な耳鳴りのように残り続けた。


侵食する通知(二部)


追い打ちをかけるように、デスクに置いたスマートフォンが震えた。

表示された名前は、案の定、佐藤だった。

『紗良さん、お疲れ様。先日はゆっくり話せなかったから、今度は二人で静かなお店に行きたいなと思ってるんだ。俺のことをもっと知ってほしいし、紗良さんのことももっと教えてほしい。水曜日の夜、空けておいてくれないかな』

「俺のことを知ってほしい」

その言葉の裏側にある、揺るぎない自信。

彼は、自分が選ばれる側の人間だと疑っていない。そして、紗良のような「控えめで真面目な女性」は、熱心に誘えばいつかは首を振るはずだと、どこかで高を括っている。

(どうしよう……)

断り方のマニュアルを検索しても、そこにあるのは「相手を傷つけない方法」ばかりだ。

けれど、今の紗良が直面しているのは、相手の善意という名の暴力だった。

マイからのプレッシャー。佐藤からの逃げ場のない誘い。

それは、蜘蛛の巣のように紗良の自由を奪い、じわじわと中心へと追い詰めていく。

ふと、画面を切り替えて瀬尾さんの名前に触れる。

このことを相談できたら。

いや、無理だ。あんなに清らかな時間の後に、こんな泥臭い人間関係の悩みなんて、口にするのも汚らわしい気がした。

瀬尾さんの前では、いつも「綺麗な自分」でいたい。そんな小さなプライドが、紗良をさらに孤立させる。

陥落

夕方、オフィスの窓から見える空は、あんなに晴れていたのが嘘のように、どんよりとした鉛色に変わっていた。

紗良の心も、同じ色に染まっていた。

(……一回だけ。一回だけ会って、ちゃんとお断りしよう)

それは、これまでの人生で何度も繰り返してきた、彼女の「悪い癖」だった。

優柔不断。波風を立てるのが怖い。誰かに嫌われるのが耐えられない。

結局、自分を犠牲にすることでその場の平穏を買ってしまう。

震える指で、佐藤への返信を打ち込む。

『お誘いありがとうございます。水曜日ですね。……はい、伺います。よろしくお願いいたします』

「送信」のボタンを押した瞬間、心臓が泥を飲み込んだように重くなった。

すぐに佐藤から『やった! 楽しみにしてるよ! 最高の店を予約しておくね』という、弾むような返信が届く。

その通知の明るさが、今の紗良には残酷な皮肉にしか見えなかった。

窓ガラスに、ぽつ、と小さな雫が当たった。

また、雨が降り始めていた。

もう、彼女を守ってくれるあの黒い傘は、ここにはない。

自分の心に嘘をつき、誰かの正解に身を任せてしまった代償として、紗良はただ、暗くなっていく街を見つめることしかできなかった。

瀬尾さんとのあの日曜日は、もう遠い夢の彼方へ消えてしまいそうなほど、現実の冷たさが彼女を支配していた。

第五章:名前のない温度(3/3)

水曜日の夜。恵比寿駅から少し離れた、看板のない隠れ家風のイタリアン。

重厚な扉を開けた瞬間、オリーブオイルと熟成したワインの香りが、紗良を追い詰めるように押し寄せた。

「ここのリゾット、どうしても紗良さんに食べてほしかったんだ」

テーブルの向かい側で、佐藤が満足げに微笑む。彼のジャケットはシワ一つなく、選ぶ言葉もエスコートも、すべてがスマートで無駄がない。

合コンという喧騒の中ではなく、一対一で向き合う彼は、確かにマイが言う通り「非の打ち所のないハイスペックな男性」に見えた。

「……ありがとうございます。すごく、素敵なお店ですね」

紗良は精一杯の微笑みを返す。けれど、運ばれてくる色鮮やかな料理を口に運んでも、砂を噛んでいるような味気なさを感じていた。

希少価値という名の視線

佐藤の視線は、終始、紗良の表情を熱心に追っていた。

けれどそれは、彼女の心の機微を探るためのものではなく、自分が選んだ「希少なコレクション」の品質を確認するような、傲慢な熱を帯びていた。

「紗良さんって、本当に不思議だよね。最近の女性はみんな、もっと自分を強く見せようとしたり、駆け引きをしたりするのに。……君みたいな、おしとやかで、少し危うい感じのする人は初めてだよ」

(……危うい?)

紗良は、グラスを持つ手がわずかに震えるのを感じた。

「おしとやか」という言葉は、彼にとっては褒め言葉なのだろう。けれど紗良にとっては、それは彼女の不器用さや、自信のなさを都合よく解釈されただけのラベルに聞こえた。

「俺さ、本気で思ってるんだ。紗良さんと付き合えたら、すごくバランスがいい気がする。俺は外でバリバリ働いて、紗良さんはこうして、いつも穏やかに俺を待っていてくれる……そんな関係、理想的じゃない?」

佐藤の語る「理想」の中に、紗良の意志はどこにも存在しなかった。

彼は、紗良を本気で好きなのではない。ただ、自分という完璧なキャリアに添える「稀少なパーツ」として、彼女に強い興味を抱いているだけではないか。そんな疑念が、冷たい水のように胸に広がっていく。

悪い人ではない、という地獄

(でも、彼は悪い人じゃない……)

紗良は自分に言い聞かせるように、ワインを一口飲んだ。

彼は今日の日のために、わざわざ予約の取りにくい店を調べ、仕事の合間を縫って何度も連絡をくれた。私を喜ばせようと、一生懸命に自分の話を披露している。

世間一般から見れば、これほど誠実で情熱的なアプローチはないだろう。

「……佐藤さんは、すごく真っ直ぐな方なんですね」

「そうかな? 好きなものには、全力で行くタイプなんだよね」

そう言って笑う彼の横顔を見て、紗良はますます混乱した。

彼を拒絶することは、彼の「善意」を無下むげにすることだ。マイの顔を潰し、佐藤のプライドを傷つけ、安定した将来という選択肢を自ら捨てること。

真面目すぎる紗良にとって、それは「悪」であるように思えた。

けれど、心の最深部にある魂が、悲鳴を上げている。

佐藤が語れば語るほど、彼女の心はどんどん閉ざされていく。

あの日、公園で瀬尾さんと過ごした、あの「名前のない時間」が恋しくてたまらなくなる。

奪われる呼吸

瀬尾さんは、私に「何を待っていてほしい」とも、「どういう役割でいてほしい」とも言わなかった。

ただ、同じ歩幅で歩き、同じ景色を見つめ、私の沈黙を丸ごと受け入れてくれた。

佐藤の言葉が熱を帯びれば帯びるほど、紗良はあの日、瀬尾さんと共有したあの「清らかな静寂」が、どれほど奇跡に近いものだったかを痛感していた。

「……紗良さん、次は土曜日、空いてる? 湘南の方までドライブに行こうよ」

佐藤の手が、テーブルの上で紗良の指先に触れた。

びくり、と肩が揺れる。

瀬尾さんと傘を返した時に触れた、あの瞬間の熱とは、あまりにも違う。

佐藤の指からは、所有欲に似た重苦しい温度しか伝わってこない。

「あの、土曜日は……」

「大丈夫、俺が全部プラン立てておくから。紗良さんは、ただそこにいて笑っててくれるだけでいいんだ」

遮られた言葉。

逃げ場のない好意。

紗良は、自分が深い水底に沈んでいくような感覚に陥った。

目の前の男性は、確かに「いい人」で、条件も完璧で、自分を必要としてくれている。

でも、なぜだろう。

今、この場所で、猛烈に涙を流して叫びたい衝動に駆られているのは。

(……誰か、助けて)

心の中で呟いたその声は、高級レストランのBGMにかき消され、誰にも届かなかった。

デザートが運ばれてくる頃、紗良はただ、人形のように頷き続けることしかできなかった。

二十六歳の夜。

一人の「いい人」を傷つけないために、彼女は自分の心に、冷たい鍵をかけてしまった。

店を出ると、夜風はもう初夏の温かさを失っていた。

佐藤が呼んだタクシーを見送りながら、紗良は独り、暗い夜空を見上げた。

雲に隠れた月が、まるで自分の迷いを見透かしているようで。

「……瀬尾さん」

声に出せない名前が、喉の奥で熱く、苦しく、渦を巻いていた。


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