アルゴリズムの届かない場所
第四章:アルゴリズムの届かない場所
金曜日の夜。恵比寿の隠れ家風イタリアンは、香水の匂いと計算された笑い声で満ちていた。
「今日は紗良のために最高の席を用意したからね」
マイの宣言通り、紗良はテーブルの真ん中、佐藤の正面に座らされていた。
【紗良の視点:査定の檻の中で】
目の前の佐藤さんは、私のグラスが空くたびに手慣れた手つきでワインを注ぎ、こちらの反応を窺うように微笑む。
「紗良さんって、本当に落ち着いてるよね。事務職の子って、やっぱりこういう安心感があるんだよな」
「安心感」という言葉が、まるで値札のように私に貼り付けられる。
隣ではマイたちが、「紗良は本当に家庭的で、職場のデスクもいつも綺麗なんですよ」「お酒もそんなに飲まないし、清楚なんです」と、私の取扱説明書を読み上げるように盛り立てている。
私は、ただ微笑んで頷くことしかできない。
ここで「そんなことありません」と否定すれば、せっかく場を作ってくれたマイの顔を潰すことになる。けれど、語られる「紗良」という虚像が完璧であればあるほど、本当の私が透明になって消えていくような気がした。
(日曜日まで、あと二日……)
テーブルの下で、私は無意識に自分の指を弄っていた。
あの日、冷たい雨の中で瀬尾さんが差し出してくれた傘。あの時、私はただの「ずぶ濡れの女」で、彼もただの「通りすがりの人」だった。条件なんて何一つ介在しない場所で、私たちは出会ったはずだ。
それに比べて、この場所はどうだろう。
照明の明るさも、選ばれたワインも、会話のネタも、すべてが「正解」に向かって調整されている。
佐藤さんの瞳に映っているのは私ではなく、彼が望む「理想的な彼女候補」というフィルター越しの残像に過ぎなかった。
【佐藤の視点:原石を見つけた高揚】
(当たりだ。今夜は、間違いなく当たりだ)
佐藤は、ワイングラスを回しながら内心で舌を巻いていた。
広告代理店の営業として、これまで数え切れないほどの合コンをこなしてきた。華やかに着飾り、自分を高く売ろうと必死な女性たちにはもう飽き飽きしている。
だが、目の前の紗良は違った。
派手な自己主張をせず、時折困ったように眉を下げる。その「合コン慣れしていない」初々しさが、かえって佐藤の独占欲を刺激した。
真面目で、少し涙もろそうで、自分の価値に気づいていない原石。
こういうタイプこそ、自分のような「分かっている男」が導いてやるべきだ。
「紗良さん、週末は何してるの? もしよかったら、今度美味しい和食屋に連れて行きたいんだけど」
彼女は一瞬、戸惑ったように視線を泳がせた。
「週末は……少し、予定がありまして」
その控えめな拒絶すら、佐藤には「駆け引き」ではなく「純粋な謙虚さ」に見えた。
(落としがいがある。こういう子を、俺色に染めるのが一番楽しいんだ)
宴も終盤に差し掛かった頃、佐藤は逃げ道を塞ぐように身を乗り出した。
「紗良さん、仕事の連絡でもいいから、LINE教えてよ。マイさんからも、紗良さんとは気が合うって聞いてるし、断らないよね?」
マイが隣から「ほら、紗良! 佐藤さんからの指名だよ!」と背中を押す。
拒否権のない空気。
紗良は、重い鉛を飲み込むような気持ちで、スマートフォンのQRコードを表示した。
それは、彼女にとって「降伏」の合図だった。
【日常への浸食】
翌朝から、紗良のスマートフォンは静寂を失った。
『おはよう。昨日は楽しかったよ。紗良さん、今頃起きたかな?』
『ランチは何食べた? 俺はクライアントと会食。早く紗良さんの手料理が食べたいな』
『仕事お疲れ様。無理しすぎちゃダメだよ。明日、会えないかな?』
朝、昼、晩。
佐藤からのLINEは、一方的で、それでいて確信に満ちていた。
未読のままにしていても、彼は「忙しいんだね、健気だな」と勝手に解釈を上書きしてくる。
(怖い……)
それは、ストーカーのような恐怖ではない。
自分のペースを完全に無視され、相手の描く「幸せの物語」の中に強引に組み込まれていくことへの、魂の拒絶反応だった。
日曜日を目前にして、紗良の心はすり減っていた。
憧れの瀬尾さんとの再会を、純粋に楽しみにしたいだけなのに。
佐藤という現実の圧力が、彼女の「本当の気持ち」を押し潰そうとしている。
紗良は、クローゼットに掛かったあの黒い傘を見つめた。
あの日、瀬尾さんは「気が向いたらでいいですよ」と言ってくれた。
その、相手を尊重する「距離感」が、どれほど貴く、愛おしいものだったか。
「……日曜日、早く来て」
誰にも聞こえない声で呟きながら、紗良は佐藤からの通知が鳴り止まないスマートフォンを、深い引き出しの奥へと隠した。
日曜日の朝、カーテンの隙間から差し込む陽光は、昨夜までのどんよりとした不安を焼き払うように眩しかった。
紗良は、丁寧にアイロンをかけた淡いベージュのワンピースに袖を通す。鏡の前の自分は、合コンの時の「盛り立てられた」姿よりもずっと、自分らしい顔をしている気がした。
引き出しの奥で震え続けているスマートフォン――佐藤からの「今日は何してるの?」「どこか出かけない?」という無数の通知――には一度も目を向けなかった。
約束の十分前。
紗良は、恵比寿駅の改札前に立っていた。
手には、あの日借りた、黒い折り畳み傘。
(……ドキドキする)
胸の鼓動が、駅の喧騒に混じって刻まれる。
雨の日、暗がりの中で出会った彼。
もし、晴れた日の光の下で会って、あの日感じた「体温」が幻だったらどうしよう。そんな不安が頭をかすめる。
「紗良さん」
不意に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を上げる。
そこには、あの日と同じ、穏やかな凪のような空気を纏った男性が立っていた。
グレーのサマーニットに、形の良いデニム。
傘に隠れていなかった彼の顔は、想像していたよりもずっと優しく、それでいて知的な光を宿した瞳をしていた。
「……瀬尾さん」
「お待たせしました。今日も、雨じゃなくて良かった」
彼は少しだけ照れくさそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、紗良の心の中にあった強張りが、春の雪解けのようにスッと消えていくのを感じた。
「これ、ありがとうございました。……ちゃんとお返しできて、良かったです」
差し出した傘を、彼が受け取る。その際、指先が微かに触れ合った。
合コンで佐藤に強引に腕を引かれた時のような不快感は、微塵もなかった。ただ、柔らかな温かさが、指先から心臓へと真っ直ぐに流れ込んでくる感覚。
「せっかくの日曜日ですし、少し歩きませんか? 近くに、静かな公園があるんです」
「はい。ぜひ」
二人は並んで歩き出した。
どちらかが必死に話題を探すわけでもない。
「何か面白いこと言ってよ」という無言のプレッシャーも、自分を高く売るためのプレゼンも、ここには存在しない。
ただ、歩調を合わせ、初夏の風を感じながら進む。
その「沈黙」が、驚くほど心地よかった。
スペックや条件で繋がっているのではない、魂の波長が共鳴している証拠のような、密やかな安心感。
「……瀬尾さんは、いつもこの辺りにいらっしゃるんですか?」
公園のベンチに座り、紗良は静かに尋ねた。
木漏れ日が、瀬尾さんの横顔にダンスのような影を落としている。
「いえ、仕事場がこの近くなんです。普段は……公園や緑地の設計をする仕事をしています。だから、つい仕事の癖で、こういう場所に来てしまうんですよ」
「公園の設計……。素敵ですね。だからあの日、あんなに優しくしてくださったんでしょうか」
「どうでしょう。でも、人がどうすれば心地よくいられるか、そればかり考えているのは確かかもしれません」
少しずつ、彼の輪郭が明らかになっていく。
瀬尾さんは二十九歳。紗良より三つ年上だった。
出身は石川県の金沢だという。
「雨が多い街なんです。だから、雨の日の景色には、昔から思い入れがあって」
そう語る彼の言葉の一つひとつが、紗良の心に静かに染み渡る。
「私の実家も、少し田舎の方なんです。……東京に来てから、雨の日が怖くなることがありました。自分が透明になって、消えてしまいそうな気がして」
紗良がポツリとこぼした本音に、瀬尾さんは真っ直ぐに向き合ってくれた。
「消えたりしませんよ。……あの日、僕はちゃんと見つけましたから。自分の傘を差し出して、誰かのために濡れていた、一番温かい色をした人を」
その言葉に、紗良の目元が不意に熱くなった。
自分を「売り時」や「事務職というスペック」でしか見ていなかった世界の中で、彼は、紗良自身も気づかなかった彼女の「色」を、肯定してくれたのだ。
「……瀬尾さんの前だと、私、すぐ泣きそうになっちゃいますね」
「いいんじゃないですか。……涙もろいのは、それだけ心が動いている証拠ですから。僕は、そういう紗良さんのままでいてほしいと思います」
瀬尾さんは、無理に励ますでもなく、ただそこにいて、紗良の感情を全肯定してくれた。
合コンという「市場」では欠点とされる涙もろさも、真面目さも、彼の手にかかれば、愛おしい個性へと変わっていく。
気がつけば、時間はあっという間に過ぎていた。
何を話したか、という情報の集積よりも、どんな気持ちで隣にいたか、という手触りだけが心に残っている。
帰り際、駅の改札。
「また、お会いできますか?」
瀬尾さんが、少しだけ緊張した面持ちで言った。
「はい。……私も、お会いしたいです」
今度は、スマートフォンの通知ではない。
目の前の人の瞳を真っ直ぐに見て、自分の声で伝えた。
二十六歳の、眩しい日曜日。
紗良は、もう「効率」や「アルゴリズム」を怖がらなくていいのだと知った。
運命は、検索窓の中にではなく、自分の心が震えた瞬間の先に、確かに待っていたのだから。




