ビニール傘の領収書
第三章:ビニール傘の領収書(一部)
月曜日の朝。オフィスの空気は、週末の湿り気を帯びたまま、週明け特有の重たさで満ちていた。
紗良はいつもより少しだけ早くデスクに着き、丁寧に淹れたコーヒーを一口含んだ。デスクの隅には、綺麗に拭いて畳んだ「あの黒い傘」が、持ち主の帰りを待つように静かに置かれている。
それを見るだけで、心臓の奥がトクンと跳ねる。合コンでの虚しさを洗い流してくれた、あの雨の夜の体温。
けれど、その静かな幸福感は、始業直後の喧騒によってあっけなく掻き乱された。
「紗良! おはよう! 途中で帰っちゃうんだもん、びっくりしたよ」
背後から声をかけてきたのは、金曜日の合コンの仕掛け人であるマイだった。彼女は週末の疲れを微塵も感じさせない完璧なメイクで、紗良のデスクの端に腰を下ろした。
「ごめんね、本当に体調が……」
「いいよいいよ、それより聞いた!? あの後、広告代理店の佐藤さんが紗良のこと、すごく気にしてたんだよ」
マイの声がオフィスに響き、数人の同僚が好奇の視線を向けてくる。紗良は慌てて「しっ、声が大きいよ」と指を口に当てた。
「だって本当なんだもん。『あの子、大人しくて真面目そうで、最近のキラキラした子よりずっといい』って。彼、次も紗良が来るならセッティングしてほしいって言ってるよ」
マイは得意げにスマートフォンの画面を見せてきた。そこには、合コンのグループチャットが動いている様子が見える。
「真面目そう」「需要ある」
また、ラベルだ。
佐藤さんという人がどんな顔をしていたか、紗良はもうはっきりとは思い出せない。ただ、グラスを回しながら「事務職って楽でしょ?」と笑っていた、あの無神経な手元だけが記憶の隅にこびりついている。
「……ありがとう。でも、私、やっぱりああいう場所は向いてないと思う」
「何言ってるの! 紗良はもっと自分を売り込まなきゃダメだよ。謙虚なのはいいけど、現代の恋愛はプレゼンなんだから」
マイは呆れたように肩をすくめ、さらに畳み掛けてきた。
「今週の金曜日、また別ルートで合コン組んだから。今度はもっと商社系。佐藤さんも呼ぶし、私たちが全力で紗良を盛り立ててあげるから! 『実はこんなに気遣いができる子なんです』って、周りから固めてあげるから大丈夫」
「盛り立てる」という言葉が、紗良の胸を重く沈ませた。
まるで、性能の低い商品を広告の力で売り捌くような、そんな歪な感覚。
ありのままの自分では価値がないと言われているようで、悲しさが込み上げてくる。
「ねえ、紗良。次は絶対だよ? 二十六歳なんて、あと半年もすれば『二十代後半』っていう括りになっちゃうんだから。今が一番の売り時なんだよ」
売り時。
その言葉に、紗良はコーヒーを飲み込むのが苦しくなった。
「……考えておくね」
そう答えるのが精一杯だった。
マイは満足げに自分の席に戻っていったが、紗良の心の中には、泥のような重たい感情が澱のように溜まっていく。
(私の「好きになる人」は、そんな風に盛り立てられて、条件を並べ立てて出会う人なのかな……)
ふと、デスクの下に置いた黒い傘に目を向ける。
瀬尾さんは、私のことを「売り時」なんて思わなかった。
ずぶ濡れになった私を、「綺麗なものを見た」と言って傘に入れてくれた。
そこには、盛り立ても、プレゼンも、条件のフィルタリングもなかった。
ただ、雨の音と、二人の呼吸と、切実な優しさだけがあった。
「……でも、次はいつ会えるのかな」
バッグの奥に忍ばせた、一枚の領収書。
そこに書かれた番号にメッセージを送る勇気が、まだ半分だけ足りない。
けれど、オフィスに漂う「効率的な恋愛」の空気が強ければ強いほど、紗良の中で彼への想いは、静かに、けれど強く、純粋な色を帯びていくのだった。
第三章:ビニール傘の領収書(二部)
昼休み。オフィス中がランチの話題と、誰かが週末にマッチングアプリで会った相手の「査定」で騒がしくなる中、紗良は独り、給湯室の奥にある小さな休憩スペースへと逃げ込んだ。
手の中には、少し端が丸まったあの領収書がある。
何度も読み返したはずなのに、そこに書かれた瀬尾さんの名前と数字の羅列を見るだけで、指先が微かに震えた。
(傘のお礼を言わなきゃ。それだけ。変に期待してるって思われないように……)
スマートフォンの画面に、何度も文章を打っては消す。
「先日はありがとうございました」は固すぎるだろうか。「傘をお返ししたいのですが」は図々しいだろうか。
結局、事務職の彼女らしい、簡潔で、けれど精一杯の誠実さを込めたメッセージを送った。
『先日は、雨の中ありがとうございました。お借りした傘をぜひお返ししたいのですが、ご都合の良い場所や日時を教えていただけますでしょうか。 ――広告代理店の、紗良です』
「送信」のボタンを押した瞬間、心臓が耳元で鳴っているのではないかと思うほど激しく脈打った。
スマートフォンをデスクに置き、画面を下にする。通知が来るのが怖いような、待ち遠しいような、落ち着かない時間が始まった。
しかし、午後になっても、夕方になっても、画面が光ることはなかった。
(やっぱり、あの夜だけの親切だったのかな)
仕事を進めながら、時折視線を落とすスマートフォンは静まり返ったままだ。
マイたちが話していた「二十六歳の市場価値」や「効率的な恋愛」という言葉が、呪いのように頭をかすめる。
彼にとって、私はただの「傘を持たずに濡れていた、見ず知らずの通行人」でしかないのかもしれない。そう思うと、胸の奥がツンと痛み、視界がわずかにぼやけた。
「お疲れ様。紗良さん、顔色悪いけど大丈夫?」
「あ、はい……大丈夫です。お先に失礼します」
定時を過ぎ、逃げるようにオフィスを出た。
恵比寿駅へ向かう道すがら、街は金曜日の夜に向けてまた色づき始めている。けれど今の紗良には、その華やかさがひどく遠いものに感じられた。
駅の改札を抜けようとして、バッグの中でスマートフォンが微かに震えた。
どうせマイからの「次の合コンの念押し」だろう。そう思いながら、諦め半分で画面を覗き込む。
そこには、LINEの通知ではなく、一件の「不在着信」の表示があった。
登録のない番号。けれど、末尾の四桁には見覚えがあった。
領収書に書かれていた、あの数字だ。
(……電話?)
メッセージへの返信ではなく、直接、声で。
その事実に、紗良の足は止まった。
メッセージを送ってから数時間、彼がどんな思いでこの番号をダイヤルしたのか。そう想像するだけで、冷え切っていた指先が急激に熱くなる。
人混みを避けるように駅のホームの端へ移動し、震える指で着信履歴をタップした。
コール音が二回、三回。
周囲の電車の入線音や人々の足音が、遠くへ消えていく。
『……もしもし? 紗良さんですか?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、あの雨の夜と同じ、低く落ち着いた、けれど少しだけ緊張を含んだような声だった。
「あ……はい、紗良です。先ほどは、メッセージをありがとうございました」
『いえ、こちらこそ。仕事中だったので、すぐにお返事できなくて。……あの、メッセージを見て、お返しいただくのはもちろんなんですが、それよりも先に、お礼を言いたくて電話してしまいました』
「お礼、ですか?」
『はい。あの後、僕もずっと考えていたんです。あんな風に、迷わず自分の傘を誰かに差し出せる人に会えたことが、なんだか、その……僕の方こそ、救われたような気がして』
彼の言葉は、マニュアル通りの合コンの台詞とは正反対の、不器用で、真っ直ぐな響きを持っていた。
「条件」や「需要」なんて言葉はこの二人には必要なかった。
ただ、雨の日に交わした、小さな、けれど確かな善意。それを彼も大切に抱えていてくれた。
紗良の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
今度は、孤独な涙ではない。
世界から弾き出されたと思っていた自分の「真面目さ」を、誰かが同じ温度で受け止めてくれたことへの、震えるような喜びだった。
『……紗良さん? もしかして、また雨、降ってますか?』
「え……?」
『声が、少し震えていたので。……もし雨なら、今度は僕が、ちゃんとした大きな傘を持って、すぐに駆けつけますけど』
受話器越しに、彼が小さく笑う気配がした。
紗良は涙を拭い、夜空を見上げた。雲の間から、小さな星が一つだけ、恥ずかしそうに顔をのぞかせている。
「いえ、雨は……降っていません。でも……」
「でも?」
「……お会いしたいです。傘を、お返ししに」
勇気を振り絞ったその言葉に、彼が『はい。僕も、お会いしたいです』と答える。
二十六歳の、静かな夜。
スマートフォンの画面を消した後も、耳の奥には彼の声が、雨上がりの街を優しく包む慈雨のように、いつまでも響き続けていた。




