予報外れの慈雨
第二章:予報外れの慈雨(一部)
黒い傘の屋根の下に招き入れられた瞬間、世界から音が消えたような気がした。
激しくアスファルトを叩く雨音は、厚いナイロンの布一枚を隔てて、どこか遠い国の出来事のようにこもって聞こえる。
「……すみません、ありがとうございます」
紗良は、隣を歩く男性に届くよう、少しだけ顔を上げて言った。
「いえ。僕も、あのまま見過ごして後で後悔するよりは、強引にでも傘に入れる方が自分のためだと思っただけですから」
彼は前を見据えたまま、穏やかに笑った。
その横顔は、街灯の光を浴びて淡く縁取られている。合コンにいた男性たちのような、計算された自信や、相手を値踏みするような鋭さはない。ただ、雨の日の景色に溶け込むような、静かな誠実さがそこにはあった。
二人の距離は、お互いの肩が触れ合わない程度の、けれど息遣いが感じられるほどに近い。
大きな傘は、二人を包む小さなシェルターのようだった。恵比寿の喧騒が雨に煙り、すれ違う人々の傘が色とりどりの花のように流れていく。
「さっきの……」
彼が、ふと口を開いた。
「おばあさんに傘を貸した時、なんて言ったんですか? 遠目だったので、声までは聞こえなくて」
「えっ……あ、大したことじゃないんです。『雨、嫌いじゃないから』って、嘘をついただけです」
紗良は恥ずかしくなって、うつむいた。
「嘘、ですか」
「はい。本当は、服が濡れるのも、靴が汚れるのも、あんまり好きじゃなくて。でも、あのおばあちゃんとお孫さんが濡れていくのを見ている方が、もっと嫌だったから……」
自分の口から出た言葉が、ひどく子供っぽく思えて、紗良は頬が熱くなるのを感じた。
論理的でもないし、効率的でもない。自分を犠牲にして、見ず知らずの人に親切にするなんて、今の時代、美談というよりは「世間知らず」の証明のようなものだ。
けれど、彼は笑わなかった。
「……そうですね。雨が嫌いなことよりも、誰かが困っていることの方が嫌だと思えるのは、すごく素敵なことだと思います」
彼の声は、雨の冷たさを打ち消すほどに優しかった。
合コンの席で、「沈黙が怖くない人がいい」と言って笑われた自分。
「条件でフィルタリングしなきゃダメだよ」と諭された自分。
そんな「出来損ない」の自分を、この人はたった一言で、丸ごと救い上げてくれたような気がした。
「……あなたは、雨、お好きなんですか?」
紗良は、勇気を出して尋ねてみた。
名前も、仕事も、年齢も知らない。けれど、今一番知りたいのは、彼のそういう部分だった。
「僕ですか? そうですね……嫌いではないです。街の輪郭がぼやけて、みんなが少しだけ急ぎ足になる。そんな中で、こうして誰かと傘を分け合う時間も、悪くないなと思いますし」
駅の改札が見えてきた。
この時間が終わってしまう。
そう思った瞬間、紗良の胸に、ちくりとした小さな痛みが走った。
アプリなら、ここで「マッチング成功」という通知が来るだろう。
けれど、これは現実の、名前のない出会いだ。
改札を抜けてしまえば、二人はまた、ただの「見知らぬ誰か」に戻ってしまう。
「……あの」
駅の入り口に差し掛かったところで、紗良は足を止めた。
「駅まで、本当にありがとうございました。傘、もう大丈夫です。ここからは屋根がありますから」
「そうですか」
彼は傘を少し傾け、紗良が濡れないように気遣いながら、足を止めた。
「……まだ、降りそうですね」
空を見上げる彼の横顔を見て、紗良は心臓が跳ねるのを感じた。
このまま、名前も聞かずに別れていいのだろうか。
けれど、自分から連絡先を聞くなんて、そんなことしたことがないし、何より彼を困らせてしまうかもしれない。
「……あの、お名前、聞いてもいいですか?」
喉元まで出かかった言葉を、紗良は飲み込んだ。
代わりに、彼女の「真面目すぎる性格」が、別の言葉を選ばせた。
「あの、もしよろしければ……この傘、借りてもいいでしょうか。……私、アパートまで少し距離があって。……明日、必ずお返ししますから」
それは、明らかな口実だった。
自分の家には、予備の傘なんていくらでもある。
けれど、彼との「繋がり」を、物理的な何かとして繋ぎ止めておきたかった。
彼は、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
そして、すぐに理解したように、柔らかく目を細めた。
「いいですよ。……でも、これは僕のじゃなくて、さっきのコンビニで買ったばかりの安物ですから、返すなんて気にしないでください」
「いえ、そういうわけには……」
「じゃあ」
彼は、バッグの中から一枚の紙切れを取り出した。
それは、さっき傘を買った時のものだろうか、小さく折り畳まれた領収書だった。
「ここに、僕の連絡先を書いておきます。……気が向いたら、でいいですよ。『傘、無事に返せました』って、心の中で思う代わりに、メッセージをくれるだけでも」
彼はペンを取り出し、領収書の裏にさらさらと文字を書いた。
それを手渡された時、紗良の指先が、彼の体温に触れた。
ほんの一瞬。けれど、凍えていた心に火が灯るには、十分すぎるほどの熱量だった。
「……ありがとうございます。必ず、ご連絡します」
「ええ。……お気をつけて、紗良さん」
「えっ」
自分の名前を呼ばれ、紗良は目を見開いた。
どうして、教えてもいない名前を。
彼は悪戯っぽく笑って、自分の社員証を指差した。
合コンのために着飾ったジャケットの胸元に、付けっぱなしにしていた社内用の名札。
「……あ」
紗良は顔を真っ赤にして、両手で顔を覆った。
なんてマヌケなんだろう。
プロフィールの書き方を悩むまでもなく、自分は最初から、さらけ出していたのだ。
「……おやすみなさい、紗良さん。風邪、ひかないように」
彼はそう言うと、自分は上着を頭から被り、雨の中へと駆け出していった。
黒い傘だけが、紗良の手元に残された。
一人、駅の構内に残された紗良は、彼から渡された領収書を、宝物のように胸に抱きしめた。
そこには、丁寧な字で名前と電話番号、そして一言だけ、添えられていた。
『雨の日も、悪くないですね。 ――瀬尾』
紗良の頬を、一筋の涙が伝った。
それは、孤独からくる涙ではなかった。
世界はまだ、自分が信じているほど、冷たくも不毛でもないのかもしれない。
二十六歳の金曜日。
合コンの帰り道、びしょ濡れの体。
けれど紗良の心は、これまでの人生のどの瞬間よりも、温かく、鮮やかに色づいていた。
第二章:予報外れの慈雨(二部)
アパートに帰り着き、温かいシャワーを浴びてようやく一息つくと、紗良は吸い込まれるようにベッドに潜り込んだ。
シーツの清潔な匂いと、微かに残る雨の匂いが混ざり合う。
部屋の明かりを消すと、雨音だけがより鮮明に部屋を満たした。
暗闇の中、紗良は今日起きた出来事を、一つひとつ丁寧に紐解いていく。
数時間前、恵比寿の洒落たダイニングバーにいた自分。
あの場所にいた男性たちは、皆一様に「正解」を探しているようだった。
年収、学歴、趣味、そして相手が自分をどれだけ引き立ててくれるかという「スペック」。
彼らの目は、まるでスマートフォンの画面をスワイプするように、紗良の表面だけをなぞっていた。
「二十六歳なら、今動かなきゃ」
マイの言葉が頭をよぎる。
効率的に、戦略的に、失敗しないように。
世の中の恋愛がそんな「取引」で成り立っているのだとしたら、私はやっぱり、この街のシステムから弾き出されてしまったエラー品なのだろう。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと窄まり、いつものように視界が熱くなった。
けれど。
暗闇の中、サイドテーブルの上に置いた一枚の領収書を指先でなぞる。
コンビニで買った傘の、なんの変哲もない、けれど今は世界で一番大切な紙切れ。
彼――瀬尾さんは、あの喧騒の中で、誰も見ていなかった私の「不器用な正義」を見ていてくれた。
「あんなに綺麗なものを見たのは、久しぶりだった」
その言葉を思い出すたびに、心の奥の、一番柔らかい場所が震える。
合コンにいた男性たちが「効率」を求めていたのに対し、彼は「温度」をくれた。
彼が差し出してくれた黒い傘は、冷たい雨から私を守るためだけのものではなく、世間の「正しく、効率的な恋愛観」からも私を匿ってくれたような気がする。
紗良にとって、雨の日はいつも、自分の「弱さ」と向き合う日だった。
洗濯物が乾かないとか、靴が汚れるとか、そんな理由じゃない。
雨が降ると、街の輪郭が曖昧になり、人々の足早な喧騒が雨音にかき消される。
その静寂の中で、一人取り残されたような孤独が、いつもより強く胸に迫ってくるからだ。
だから、つい涙もろくなってしまう。
でも、今日知った。
雨の日は、誰かの優しさが一番鮮明に見える日でもあるのだと。
「瀬尾、さん……」
口の中で、その名前をそっと転がしてみる。
まだ彼の声の余韻が耳に残っている。
アプリの通知音よりもずっと深く、優しく響く声。
明日は、この傘を返さなきゃいけない。
いや、返したい。
それが、どんなに効率が悪くて、遠回りなことだとしても。
紗良は領収書を枕元に引き寄せると、そっと瞳を閉じた。
窓を叩く雨音は、もう彼女を孤独にさせるものではなかった。
それはまるで、明日という日への期待を刻む、静かなリズムのように聞こえていた。




