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運命は、まだ検索結果に載っていない  作者: 久遠 睦


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硝子(ガラス)越しの喧騒

第一章:硝子ガラス越しの喧騒(一部)


金曜日の午後三時。オフィスの空気は、週末へ向かう微かな高揚感と、週明けのタスクを押し付け合うような殺伐とした熱気が混ざり合っていた。

東京都内にある中堅の広告代理店。紗良さらは、事務職としてデスクに向かっている。彼女の仕事は正確で、フォントのわずかなズレや、資料の端の折れ目すら見逃さない。その真面目さは重宝されていたが、時として「損な性格」だとも言われた。

「ねえ、紗良。今日の夜、本当に無理?」

隣のデスクに座る同期のマイが、モニターの陰から小声で囁いてくる。彼女の手元では、最新のスマートフォンが絶え間なく通知を弾かせていた。

「ごめんね、今日は溜まってる伝票を整理しちゃいたいから」

「またそんなこと言って。伝票なんて月曜の朝でいいじゃん。今日の合コン、相手はIT系の若手経営者だって。紗良みたいな『癒やし系』は絶対需要あるってば」

マイはそう言いながら、手慣れた手つきで画面を横に弾いた。マッチングアプリの画面。そこには、高学歴、高収入、そしてどこか似通った清潔感のある男性たちの写真が、まるでカタログのように並んでいる。

「ほら、この人なんてどう? 年収一千万超えで趣味はサウナ。条件、完璧じゃない?」

紗良は、差し出された画面を薄く笑って見つめた。確かに、写真の中の男性は眩しいほどに整っている。けれど、その瞳の奥にあるはずの「体温」が、液晶越しにはどうしても感じられなかった。

「……すごいね。でも、私には少し眩しすぎるかも」

「もう、そればっかり。紗良はさ、理想が高いんじゃなくて、臆病すぎるんだよ。恋愛なんて、まずは『条件』でフィルタリングして、効率よく会わなきゃ。二十六歳だよ? 自然な出会いなんて、絶滅危惧種なんだから」

マイの言葉は鋭い刃物のように、紗良の胸の奥をちくりと刺した。

「自然な出会い」

それは今の時代、贅沢品どころか、非現実的なファンタジーだと笑われる対象なのだ。

窓の外に目をやると、どんよりとした灰色の雲が、低く垂れ込めていた。天気予報では「晴れ」と言っていたはずなのに、どうやら空も、紗良の心と同じように気まぐれならしい。

紗良は、デスクの引き出しに忍ばせている目薬をさした。

彼女は、少しだけ涙もろい。悲しい時だけでなく、誰かの優しい言葉に触れた時や、映画の些細なワンシーン、あるいは、今のように「自分だけが時代に取り残されている」という漠然とした不安に襲われた時、すぐに視界が潤んでしまう。

(私がおかしいのかな)

キーボードを叩く指先が、少しだけ冷えるのを感じた。

彼氏が欲しくないわけではない。誰かと手を繋ぎ、寒い夜に温かいスープを分け合い、今日あった些細な出来事を報告し合えるような、そんな相手がいたらどんなにいいだろうと思う。

けれど、スマートフォンの画面をスワイプして、相手を品定めし、選別し、効率よく「攻略」していくようなやり方には、どうしても心がついていかなかった。

「……お疲れ様です、紗良さん。これ、昨日の分の報告書です」

不意に声をかけられ、紗良は小さく肩を揺らした。顔を上げると、営業部の後輩が、申し訳なさそうな顔で立っていた。

「あ、ありがとう。……あれ、ここ、少し汚れてるね」

報告書の角に、小さなコーヒーの染みがついていた。後輩は「あ、すみません! 慌ててて……すぐ作り直します」と顔を赤くしたが、紗良は首を振って微笑んだ。

「いいよ、私が修正液で直しておくから。次は気をつけてね」

「すみません、ありがとうございます……。紗良さんって、本当に優しいですよね」

後輩が去った後、紗良は丁寧に染みを消した。

そんな些細なことで「優しい」と言われるたびに、彼女は自分の居心地の悪さを感じる。自分はただ、汚れたままの紙をそのままにするのが、その紙に書かれた仕事に対して失礼な気がして、放っておけないだけなのだ。

定時のチャイムが鳴ると、オフィスは一気に騒がしくなった。

「お疲れ様!」

「頑張ってね、合コン!」

そんな声が飛び交う中、紗良は一人、デスクに残った。山積みの伝票を前にして、彼女はようやく、本当の意味で息ができたような気がした。

外はいつの間にか、本格的な雨が降り始めていた。

窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、紗良は思う。

(私は、何を待っているんだろう)

検索結果には決して載らない、けれど、確かにそこに存在するはずの「何か」。

それを待ち続けることが、この街ではどれほど愚かなことか分かっていても。

紗良は、重い腰を上げて帰り支度を始めた。

雨用のパンプスに履き替え、お気に入りの、少し落ち着いたブルーの傘を手に取る。

この夜、駅のホームで、彼女の人生を静かに変える出来事が待っているとは、まだ知る由もなかった。


硝子ガラス越しの喧騒(二部)


週末は、予報通りのしとしととした雨になった。

紗良は、この「何もしない時間」を愛している。

お気に入りのリネンのシーツを洗い、お湯を沸かして、少しだけ高い茶葉で淹れたアールグレイを啜る。読みかけの小説に目を落とすと、物語の世界が部屋の湿った空気と混ざり合い、自分の境界線が溶けていくような感覚になる。

友人のSNSには、キラキラとしたパンケーキや、お洒落なワイングラス、そして「#最高の週末」というハッシュタグが並んでいる。それを見るたびに、紗良の胸には小さなさざ波が立つ。

(私は、このままでいいんだろうか)

孤独が嫌いなわけではない。ただ、世間が定義する「幸せ」のレールから、自分だけが静かに脱線しているような、そんな心細さが拭えないのだ。

月曜日の朝。

オフィスに足を踏み入れた瞬間、紗良はため息を飲み込んだ。

給湯室から聞こえてくるのは、案の定、週末の「戦果報告」だった。

「信じられる? 相手、写真と全然違ったんだよ。速攻で『次、仕事入ったんで』って逃げてきた」

「私は当たりだったかな。商社マンで、車も持ってるし。でも、ちょっと服のセンスが……。まあ、そこは私が改造すればいいか」

マイたちが、品評会さながらに声を弾ませている。彼女たちにとって、恋愛はもはや「ときめき」ではなく、いかに効率よく高価値の物件を競り落とすかという「取引」に近い。

紗良が静かにコーヒーを淹れていると、マイがこちらに気づいて駆け寄ってきた。

「あ、紗良! ちょうどいいところに。今週の金曜日、予定空けといてね」

「えっ、金曜日? 急にどうしたの」

「合コンの数合わせ。一人が急に来られなくなっちゃって。相手は大手広告代理店。紗良みたいな『聞き上手』がいれば、場の空気が和むからさ」

「でも、私そういうの苦手だし……」と断ろうとする紗良の言葉を、マイは強引に遮った。

「いいから! 紗良、このままじゃ本当に干物になっちゃうよ? 運命の王子様なんて、家で本読んでても降ってこないんだから。二十六歳なんて、今動かなきゃ一生後悔するよ」

「一生後悔する」

その言葉が、呪文のように紗良の頭にこびりついた。

断りきれず、結局、金曜日の夜は恵比寿の洒落たダイニングバーに連れて行かれることになった。

金曜日の夜八時。

薄暗い照明、重厚なジャズ。テーブルの上には、食べるためではなく「映えるため」に盛り付けられた前菜が並んでいる。

向かいに座る男性たちは、自信に満ちた笑顔で名刺を差し出してきた。

「へえ、紗良さんは事務職なんですね。落ち着いてていいなあ。やっぱり家庭的な子がいいよね、俺たちの仕事、激務だからさ」

男性の一人が、値踏みするような視線を紗良に投げた。

それは、まるでお店で商品のスペックを確認する時の目つきと同じだった。年収、職業、趣味、そして「どれだけ自分に都合がいいか」。

隣では、マイたちが完璧な「合コンの作法」を披露していた。

「すごーい!」「そうなんですかぁ?」「知らなかったー!」

さしすせその相槌を使い分け、首を傾けて上目遣いで笑う。その姿は、まるで精巧な操り人形のようで、紗良は見ていて苦しくなった。

「紗良さんは? どんなタイプが好きなの?」

振られた質問に、紗良は詰まった。

「……えっと。一緒にいて、沈黙が怖くない人、でしょうか」

一瞬、テーブルの空気が凍った。

男性たちは顔を見合わせ、苦笑いした。

「それ、一番難しいやつじゃん。要は『雰囲気イケメン』ってことでしょ?」

「もっと分かりやすく言おうよ。年収とかさ、身長とか」

ドッと笑いが起きる。

紗良は、自分の大切な価値観が土足で踏み荒らされたような気がして、視線を落とした。

グラスの中のシャンパンが、照明を反射して残酷にキラキラと輝いている。

(ここには、私の居場所はない)

お手洗いに立つと言って席を外すと、鏡の中に映った自分の顔は、驚くほど疲れていた。

一生懸命メイクをして、不慣れなヒールを履いて。

けれど、心の真ん中には、ぽっかりと冷たい穴が開いている。

本当は、誰でもいいわけじゃない。

条件の羅列で選んだ誰かと、マニュアル通りの会話を交わして、何を知ったことになるのだろう。

私が知りたいのは、その人の好きな本のタイトルや、雨の日の過ごし方や、何に涙を流すのか、ということなのに。

店に戻ると、男性たちはすでにマイたちと二次会の場所を相談していた。

「あ、紗良ちゃん。次、カラオケ行くけど来るよね?」

「すみません。少し、体調が良くなくて」

嘘をつくのは心苦しかったが、これ以上ここにいたら、心がバラバラになってしまいそうだった。

強引に引き留めるマイの声を背に、紗良は店を飛び出した。

外は、冷たい夜風が吹いていた。

恵比寿の喧騒の中、足早に駅へ向かう。

すれ違うカップル、楽しげに笑い合うグループ。

そのどれもが、自分とは違う世界に住んでいる住人のように思えた。

(やっぱり、私は、おかしいのかもしれない)

駅の改札を抜けた瞬間、堪えていたものが溢れそうになった。

悲しいわけではない。ただ、自分が守ろうとしている「純粋な気持ち」が、この世界ではあまりに無価値で、時代遅れなものだと突きつけられた気がして。

そんな時だった。

空から、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきたのは。

予報にはなかった、突然の雨。

駅前の広場では、傘を持っていない人々が慌てて軒下へ駆け込んでいく。

紗良は、バッグの中から自分の傘を取り出そうとして、ふと足を止めた。

目の前で、小さな女の子を連れたおばあさんが、途方に暮れたように雨空を見上げていたからだ。


第一章:硝子ガラス越しの喧騒(三部)


恵比寿駅の駒沢通り側。

駅のひさしの下には、予報外れの雨を避ける人々が、まるで見えない壁に阻まれたように立ち往生していた。

紗良はバッグの中から、愛用のブルーの傘を取り出す。

合コンという名の「査定会場」で冷え切った心には、この雨の冷たさの方が、まだ誠実であるような気がした。

(早く帰って、お風呂に入ろう……)

傘を開こうとした、その時だった。

少し離れたところで、小さく、けれど切実な泣き声が聞こえた。

視線を向けると、そこには六歳くらいだろうか、小さな女の子の手を引いたおばあさんが、途方に暮れたように立っていた。

おばあさんの背中には、大きな買い物袋が二つ。女の子は、自分の背負ったランドセルを濡らさないように必死で丸まっているが、跳ね返った雨水がすでにその小さな靴を濡らしていた。

「困ったねぇ……。タクシーも、なかなか捕まらなさそうだね」

おばあさんが困り果てたように呟く。

駅前のタクシー乗り場には、すでに長い列ができていた。雨脚は強くなる一方で、夜の街灯がアスファルトを冷たく光らせている。

紗良は、無意識に一歩踏み出していた。

「あの、もしよろしければ……」

自分の声が、周囲の雨音にかき消されないよう、少しだけ声を張る。

おばあさんが驚いたように顔を上げた。

「これ、使ってください。私は駅の中を歩いて帰れるので」

嘘だった。

紗良の住むアパートは、駅から歩いて十分はかかる。

けれど、今この瞬間、自分を濡らす雨よりも、目の前の小さな肩が震えていることの方が、ずっと耐えられなかった。

「でも、お嬢さん。あなたが濡れてしまうじゃない」

「大丈夫です。私、雨、嫌いじゃないんです」

紗良は無理に微笑んで、おばあさんの手に傘を握らせた。

「お気をつけて。……お嬢ちゃん、風邪ひかないでね」

女の子が「おねえちゃん、ありがとう」と、涙の溜まった瞳で小さく手を振る。

二人が傘を差してゆっくりと歩き出すのを見届けてから、紗良は大きく息を吐いた。

手元には、もう何もない。

代わりに、冷たい雨が容赦なく彼女の肩を、髪を、頬を濡らしていく。

(……あ、本当に濡れると冷たいな)

自嘲気味に笑い、少しだけ視界を潤ませる。

合コンで「条件」や「スペック」を語り合っていた人々から見れば、今の自分は「ただの馬鹿な女」に映るだろう。一本しかない傘を他人に譲り、自分はびしょ濡れになって帰る。効率もへったくれもない、あまりに不器用な生き方だ。

けれど、不思議と心は軽かった。

誰かの役に立てたという確かな手応え。それは、アプリの「マッチ」という通知よりも、ずっと温かく紗良の胸を震わせた。

雨に濡れるのも構わず、駆け足で駅へ向かおうとした。

その時、頭上の雨音が、ふっと止んだ。

「……?」

空を見上げたのではない。

そこには、黒いナイロンの生地が、自分を守るように差し出されていた。

「これ、使ってください」

耳に届いたのは、低く、けれど柔らかな落ち着いた声。

驚いて隣を向くと、一人の男性が立っていた。

グレーのコートを着た、自分と同じくらいの年齢だろうか。

彼は自分の右肩が雨に濡れるのも厭わず、紗良の方に大きな折り畳み傘を差し出していた。

「えっ……でも、悪いですよ。私は大丈夫です」

慌てて断ろうとした紗良を、彼の穏やかな視線が制した。

「見ていました。あの……さっきのおばあさんに傘を貸してあげたところ」

彼は少しだけ照れくさそうに、けれど真剣な眼差しで続けた。

「あんなに綺麗なものを見たのは、久しぶりだったので。……自分ばかり濡れて帰るのは、フェアじゃないでしょう?」

彼の言葉に、紗良は言葉を失った。

「綺麗なもの」

そんな風に言われたのは、生まれて初めてだった。

合コンで男性たちが欲しがっていた「癒やし系」や「家庭的」というラベルではなく、自分の心のありようそのものを、誰かに肯定された気がした。

「……ありがとうございます」

紗良の目元が、熱くなった。

今度は悲しいからではない。

冷え切っていた世界に、ぽつりと火が灯ったような、そんな温かさのせいだった。

「駅まで、お送りしますよ」

「……はい」

大きな傘の下、わずかな距離を、二人は並んで歩き出す。

そこには、アプリの条件検索では決して導き出せない、あまりにも偶然で、けれど必然のような体温があった。

雨音は、もう孤独を煽るものではなくなっていた。

紗良の長い、そして静かな「本当の恋」が、ここから始まろうとしていた。


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