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婚約破棄のその場に居合わせただけの私が、なぜか隣国最強貴公子に執着されています

掲載日:2026/01/27

第1章 奪われる役の私


 ――また、リリーの声がした。


「ねえバイオレット、まだ終わってないの? それ、昨日までって言ったよね」


 私は手を止め、顔を上げる。

 視線の先では、淡い色のドレスを纏ったリリーが、困ったように首を傾げていた。困っているふり、だ。彼女が本当に困っているところなんて、私は一度も見たことがない。


「ごめんなさい、もう少しで……」


「もう少し、もう少しって、いつもそればっかり」


 くすくす、と周囲が笑う。

 その笑いの輪の中に、私はいない。


 ――そうだ。私は、ここではいつもこういう役。


 真面目で、地味で、誰かの後ろに立って、誰かの尻拭いをする役。

 リリーが華やかに振る舞うための、影。


「リリー、そんな言い方しなくてもいいだろ」


 そう言って間に入ったのは、ジョージだった。

 穏やかな声。でも、その視線は私を見ていない。


「だって事実だもの。ね、バイオレット?」


 同意を求められて、私は小さく頷くしかなかった。


「……はい」


 言い返せばいい?

 違うと主張すればいい?

 そんなこと、とっくに考えた。でも、そのたびに思い出す。


――誰も、私の味方なんてしなかった。


「ほら、バイオレットもそう言ってるし。ジョージ、あなたは優しすぎるのよ」


 リリーはにこやかに笑って、ジョージの腕にそっと触れた。

 その仕草が自然すぎて、胸の奥がちくりと痛む。


 私は二人から目を逸らし、再び手元の作業に戻った。


 ……別に、期待なんてしてない。

 私はただ、ここで与えられた役目を果たすだけ。


「ねえ、聞いた?」


 背後からひそひそ声が聞こえる。


「レオナルド様、今日いらっしゃるらしいわよ」


 その名前に、指が一瞬止まった。


 レオナルド。

 この場の誰もが意識せずにはいられない人物。

 私は直接話したことはない。ただ、遠くから何度か見かけただけだ。


――どうせ、私には関係ない。


「リリー、ちゃんと挨拶しなきゃね。あなた、期待されてるもの」


「やだ、そんなこと……」


 そう言いながら、リリーは明らかに嬉しそうだった。


 私は俯いたまま、心の中でそっと呟く。


(私は、選ばれる側じゃない)


 それが当たり前で、それが私の日常。

 このときはまだ――

 それが、壊れる前触れだなんて、思いもしなかった。





第2章 信じた私が、馬鹿だった


 レオナルドが来る――

 その噂は、私の想像以上に早く広がっていた。


「ねえバイオレット、今日の段取り、もう一度確認しておきたいんだけど」


 リリーが、珍しく柔らかい声で話しかけてきた。

 その瞬間、胸の奥で小さく警鐘が鳴ったけれど、私は無視した。


「はい。資料はこちらにまとめてあります」


「助かるわ。さすがね」


 ……褒められた?

 一瞬だけ、気が緩んだ自分が嫌になる。


 会場は慌ただしく、人の出入りも増えていた。

 私は指示された通りに動き、足りないものを補い、問題が起きないように気を配る。それが私の役割だから。


「バイオレット」


 低い声で呼ばれて振り返ると、ジョージが立っていた。


「ちょっと、話がある」


「今ですか?」


「すぐ終わる」


 有無を言わせない調子で、彼は私を人目の少ない場所へ連れて行った。

 嫌な予感が、はっきりと形になる。


「……何か、問題がありましたか?」


 そう聞いた私に、ジョージは眉をひそめた。


「それはこっちの台詞だ」


「え?」


「どうして、あんなことをした」


 あんなこと?

 意味がわからず、言葉を失う私に、ジョージは続ける。


「リリーが困ってた。君が勝手に話を進めて、彼女を外そうとしたって」


「……そんなこと、していません」


 即座に否定した。

 心臓が早鐘を打つ。


「私は、そんな……」


「じゃあ、どうしてリリーが泣いてる」


 その一言で、頭が真っ白になった。


「泣いて……?」


「君はいつもそうだな。自分では無自覚でも、人を傷つける」


 違う。

 違う、違う、違う。


「待ってください。私は、リリーに確認を取って――」


「もういい」


 ぴしゃりと遮られる。


「言い訳は聞きたくない」


 その瞬間、何かが音を立てて崩れた。


 私は、説明する機会すら与えられない。

 最初から、信じてもらう気なんてなかったんだ。


「……わかりました」


 そう答えた自分の声が、やけに冷静で、逆に怖かった。


 会場に戻ると、リリーが赤くなった目で立っていた。


「あ、バイオレット……」


 その表情は、完璧だった。

 守ってあげたくなる顔。


「ごめんなさい。私、あなたがそんなつもりじゃないって、言ったんだけど……」


 ――嘘。


 でも、誰もそれを疑わない。


「もういいわ。今日はリリー中心で進めましょう」


 誰かの一言で、空気が決まる。


 私の存在は、あっさりと端に追いやられた。


 そのとき。


「……君が、バイオレット?」


 初めて聞く声だった。


 振り向くと、そこに立っていたのは――レオナルド。


 落ち着いた視線が、真っ直ぐ私を見ている。


「はい、そうです」


 短く答えた瞬間、背後からリリーが一歩前に出た。


「レオナルド様、こちらが――」


「いい。今は彼女に用がある」


 その言葉に、周囲がざわめく。


 でも、次に続いた言葉は、私の期待とは違った。


「君が、今回の件で問題を起こしたと聞いた」


 ……ああ。


 もう、そういう話になってるんだ。


「事実ですか?」


 試すような視線。

 私は一瞬、迷った。


 でも。


「いいえ」


 はっきりと言った。


「私は、何もしていません」


 それが、私が初めて選んだ言葉だった。






第3章 黙る役は、もう終わり


 結局、その日は私の居場所なんてどこにもなかった。


「今日はもう下がっていいわ」


 そう言ったのは、責任者でもなんでもないリリーだった。

 なのに、誰も異を唱えない。


 私は何も言わずに頭を下げ、その場を離れた。

 背中に突き刺さる視線が、痛い。


(……慣れてる、はずだったのに)


 部屋に戻ると、張り詰めていたものが一気に切れた。


「っ……」


 椅子に腰を下ろした瞬間、涙が溢れた。

 悔しい。悲しい。腹が立つ。

 でも一番強いのは――自分への嫌悪だった。


(どうして、また何も言えなかったの)


 いつもそうだ。

 波風を立てないように、空気を読んで、黙って。

 その結果がこれ。


 ――悪者は、いつも私。


 ノックの音がして、びくりと肩が跳ねた。


「……誰ですか」


「レオナルドだ」


 心臓が跳ね上がる。


「少し、話せるか」


 断る理由なんてなかった。

 私は扉を開けた。


「座っても?」


「……どうぞ」


 沈黙が落ちる。

 先に口を開いたのは、彼だった。


「さっきの件だが」


 私は無意識に身構えた。


「君の話を、誰も聞こうとしていなかった」


 その言葉に、顔を上げる。


「……それが、普通ですから」


「普通?」


 レオナルドは眉を寄せた。


「君は、それでいいと思っているのか」


 胸を突かれた。


「思ってません。でも……」


「でも?」


「私が何を言っても、信じてもらえないんです」


 声が震えた。


「リリーの方が、好かれているから。ジョージも、みんなも」


 言葉にしてしまった途端、止まらなくなった。


「私は、便利なんです。使いやすくて、文句を言わなくて。だから――」


「だから、黙る?」


 遮られて、言葉が詰まる。


 レオナルドは、静かに、でもはっきりと言った。


「それは美徳じゃない。ただの損だ」


 ……そんなふうに言われたの、初めてだった。


「君は、自分を安く扱いすぎている」


 その一言が、胸の奥に深く沈んだ。


「私は……」


 何かを言おうとして、でも言葉が出ない。


「今すぐ強くなれとは言わない」


 レオナルドは立ち上がり、扉に手をかけて振り返った。


「だが、君が黙らないと決めたなら、俺は話を聞く」


 扉が閉まる。


 部屋に残された私は、しばらく動けなかった。


(黙らない……)


 その言葉を、何度も心の中で反芻する。


 怖い。

 でも――このままじゃ、何も変わらない。


 私は拳を握りしめた。


(もう、奪われるだけの役は終わり)


 たとえ誰にも信じてもらえなくても。

 私は、私の言葉を捨てない。


 それが、私の選んだ一歩だった。





第4章 あなたは、私の話を聞いてくれる


 翌朝。

 私は少しだけ早く会場に来ていた。


(逃げないって決めたんだから)


 そう思わないと、足がすくみそうだったから。


「……おはようございます」


 挨拶をしても、返ってくる声はまばら。

 昨日の件で、私は完全に「触れにくい存在」になっていた。


「バイオレット」


 呼ばれて振り向くと、レオナルドが立っていた。


「昨日は、眠れたか」


「……少しだけ」


 正直に答えると、彼は小さく息を吐いた。


「無理もない」


 その一言だけで、胸がじんとする。


「今日の進行、俺も確認する」


 周囲が、はっとしたようにこちらを見る。


「え……?」


「問題が起きた以上、第三者の目が必要だろう」


 淡々とした口調。

 でも、それは明らかに――私の側に立つ宣言だった。


「ありがとうございます」


 そう言った私に、レオナルドは一瞬だけ目を細めた。


「礼を言われるようなことはしていない」


「でも……」


「君の話を聞くのは、当然だ」


 その言葉が、昨日よりもずっと重く響いた。


 そこへ、リリーがやって来た。


「レオナルド様、おはようございます」


 完璧な笑顔。

 私を一瞥して、すぐに視線を戻す。


「今日もお忙しい中……」


「その前に」


 レオナルドが遮った。


「昨日の件について、確認したい」


 空気が、一気に張り詰める。


「バイオレットが勝手に進めたという話だが、具体的に何を指している?」


 リリーは一瞬だけ言葉に詰まった。


「えっと……その、細かい段取りを……」


「彼女は補助役だろう。最終決定権は君にある」


 淡々とした指摘。

 逃げ場を塞ぐ言い方。


「つまり、進めたのは君だ」


 周囲がざわつく。


「それとも、責任を押し付けたのか?」


「そ、そんなつもりは……」


 リリーの声が震えた。


 私は、初めて彼女の焦りを見た。


「リリー」


 思い切って、口を開く。


「確認は、ちゃんと取りました。あなたは『いいわ』って言った」


 一斉に、視線が私に集まる。


 喉が締め付けられる。でも――逃げない。


「その後で問題が出たからって、全部私のせいにするのは違うと思います」


 静寂。


 レオナルドが、私の方を見た。


「それが、君の言い分だな」


「はい」


 はっきりと答えた。


「……わかった」


 彼は頷き、場を見渡す。


「では、後ほど正式に話を聞こう。関係者全員でだ」


 その言葉は、宣告だった。


 リリーの顔が、わずかに歪む。


 人が散っていったあと、私とレオナルドだけが残った。


「怖かったか」


「……はい。でも」


 私は息を吸う。


「誰かが聞いてくれるなら、言えます」


 レオナルドは、少しだけ微笑んだ。


「なら、大丈夫だ」


 その距離が、昨日より近い。


(この人の前なら……)


 胸の奥で、温かいものが芽生えたのを感じた。


 それが恋だと気づくのは、もう少し先の話。




第5章 あなたが選ばれなかった理由


「……正直、困ってるんだ」


 ジョージは、私を人気のない廊下に呼び止めると、そう切り出した。


「何がですか」


「レオナルド様の件だよ。君、あの人に何を言った?」


 胸の奥が、すっと冷える。


「何も。事実を話しただけです」


「それが問題なんだ」


 ジョージは苛立ったように髪をかいた。


「君が余計なことを言うせいで、リリーが疑われてる」


 ……ああ、やっぱり。


「余計、ですか」


「そうだ。君は目立たなくしていればよかった」


 その言葉を聞いた瞬間、不思議と怒りは湧かなかった。

 代わりに、はっきり理解した。


(この人は、最初から私を守る気なんてなかった)


「私は、嘘をつく気はありません」


「だから、そういうところが――」


「ジョージ」


 私は遮った。


「あなたは、一度でも私の話を聞こうとしましたか?」


 彼は、言葉に詰まった。


「それは……」


「リリーが泣けば信じて、私が説明しても疑う」


 淡々と、事実を並べる。


「それで今さら『困る』って言われても、困るのは私です」


 ジョージの表情が、露骨に歪んだ。


「君、変わったな」


「はい」


 私は頷いた。


「黙らないことにしたので」


 彼は、私を睨みつける。


「君は、リリーほど好かれてない。それを忘れるな」


 ――昔なら、ここで黙っていた。


 でも、今は違う。


「好かれているかどうかと、正しいかどうかは別です」


 言い切った瞬間、ジョージは何も言えなくなった。


 その日の午後。

 関係者を集めた確認の場が設けられた。


 資料は、すべて私がまとめたもの。

 指示の流れも、記録も、残っている。


「……確かに、確認は取られているな」


「責任の所在は……」


 空気が、完全に変わった。


 リリーは何度も言葉を詰まらせ、ついに俯いた。


「私は……悪気はなかったの」


 その一言が、逆効果だった。


「悪気がなければ、責任が消えるわけではない」


 レオナルドの声は冷静だった。


「今回の混乱は、君の判断ミスだ」


 周囲がざわめく。


「バイオレット」


 名前を呼ばれて、顔を上げる。


「君の補助は正確だった。評価を改める必要がある」


 胸が、熱くなった。


 一方で、ジョージは完全に立場を失っていた。

 彼が庇おうとしたリリーは、もう誰にも守られていない。


(……終わりじゃない)


 これは、始まり。


 会議後、レオナルドが私に言った。


「君は、選ばれなかったんじゃない」


 私は首を傾げる。


「あなたが、選ぶ側じゃなかっただけだ」


 その言葉が、胸に深く刺さった。


――私はもう、誰かの影じゃない。





第6章 奪う女は、もう奪えない


 最近、リリーの様子が明らかにおかしかった。


「……バイオレット、ちょっといい?」


 声をかけられただけで、周囲の空気が張りつめる。

 少し前まで、こんなことはなかった。


「何でしょう」


 私は立ち止まって答えた。

 逃げない。目も逸らさない。


「あなた、最近……調子に乗ってない?」


 出た、と内心で思う。


「調子に乗っている、とは?」


「だって、レオナルド様に気に入られてるからって……」


 リリーは唇を噛んだ。


「あなたの立場、わかってる?」


 ――まだ、そんなことを言うんだ。


「わかっています」


 静かに返す。


「私の仕事の評価が、正当に見直されただけです」


 リリーの顔が、はっきりと歪んだ。


「そんなの、納得できない!」


 思わず、声が大きくなる。


「今まで、私がどれだけ大変だったと思ってるの?」


「それは、あなたが選んだやり方です」


 言った瞬間、胸がすっとした。


「私は、あなたの代わりに責任を取る係じゃない」


 リリーは一歩後ずさる。


 ――効いてる。


「あなたは、奪うのが上手だった」


 私は続けた。


「でも、それは私が黙っていたからです」


「……っ」


「もう、譲りません」


 その日の夕方。

 私は資料室で、ひとり作業をしていた。


「まだ残っていたのか」


 レオナルドの声に、顔を上げる。


「少しだけ」


「無理をするな」


 そう言いながら、彼は自然に隣に立った。


 距離が近い。

 心臓が、うるさい。


「今日の対応、よかった」


「……怖かったです」


 正直に言う。


「でも、逃げたら後悔すると思って」


 レオナルドは、私をまっすぐ見た。


「君は、もう一人で戦っていない」


 その言葉に、喉が詰まる。


「俺がいる」


 ――反則だ。


「どうして、そこまで……」


 問いかけると、彼は少し考えてから答えた。


「君が、ちゃんと自分の言葉で話すからだ」


「……それだけ?」


「それだけで、十分だろう」


 沈黙。

 でも、気まずくない。


「バイオレット」


 名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなる。


「君を、尊重したい」


 その一言で、すべてが揺れた。


(あ……)


 これが、恋なんだと、はっきりわかった。


 一方で――

 リリーは、完全に追い詰められていた。


 噂は、もう彼女を守らない。

 焦りは、必ず――次の失敗を呼ぶ。


 私は、確信していた。


(もう、あなたは奪えない)





第7章 自分で壊した玉座


 噂というのは、不思議なものだ。


 最初は小さく、曖昧で、誰かの耳元をくすぐる程度だったのに――

 一度流れが変わると、止まらない。


「聞いた? リリー、また揉めてるらしいわよ」


「え、今度は何?」


「自分は悪くないって、ずっと言ってるみたい」


 私は通りすがりに、その会話を聞いた。


(……来たな)


 リリーは、焦っていた。

 取り戻そうとして、全部を失うタイプだ。


 そして案の定、その日はやってきた。


「レオナルド様!」


 甲高い声が、会場に響いた。


 振り向くと、リリーが人目もはばからず駆け寄ってくる。


「私、もう限界なんです!」


 周囲が一斉に注目する。


「バイオレットに、ずっと邪魔されて……!」


 ……は?


 私は、思わず瞬きをした。


「彼女が、私の評価を下げているんです。わざと、私が悪く見えるように――」


 言えば言うほど、空気が冷えていくのがわかる。


「リリー」


 レオナルドの声は、低かった。


「それは、正式な場で話す内容か?」


「だって……!」


 彼女は縋るように続ける。


「私は、ずっと頑張ってきたんです。なのに、後から来た人に――」


「後から?」


 静かな疑問。


「君の方が、後だ」


 その一言で、完全に止まった。


「……え?」


「バイオレットは、最初から記録を残し、責任を果たしていた」


 淡々と、事実だけが並べられる。


「評価が変わったのは、彼女の行動の結果だ」


 リリーの顔が、青ざめる。


「そんな……」


「それとも」


 レオナルドは、視線を逸らさない。


「君は、誰かを貶めなければ立てないのか?」


 沈黙。

 重く、逃げ場のない沈黙。


 私は、一歩前に出た。


 ……震えてる。でも、逃げない。


「リリー」


 名前を呼ぶと、彼女はびくっとした。


「私は、あなたの座を奪ったつもりはありません」


「……っ」


「ただ、自分の仕事をしただけです」


 それだけのこと。


「あなたが失ったのは、信用です」


 はっきりと言った瞬間、周囲が息を呑む。


 リリーは、唇を噛みしめ、何も言えなくなった。


 ――その日を境に、彼女は表舞台から外された。


 静かで、残酷な処置。


 騒がず、罵らず、でも確実な――ざまぁ。


 その夜。


「強かったな」


 レオナルドが、私に言った。


「強がってました」


 正直に答える。


「でも……逃げませんでした」


「それでいい」


 彼は、私と同じ目線に立った。


「君は、もう守られる側じゃない」


 胸が、熱くなる。


「並べる?」


 冗談めかして言うと、彼は少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。


「ああ」


「俺は、そう思っている」


 その距離が、自然で。


(ああ……)


 私はもう、奪われない。

 自分で、立っている。




第8章 手を取る理由


 嵐が過ぎたあとの空気は、驚くほど静かだった。


 リリーの姿は、もうほとんど見かけない。

 話題に出す人も、いなくなった。


(終わったんだ……)


 胸の奥に、安堵と、少しの寂しさ。

 長く続いた緊張が、ようやく解けた証拠だった。


「バイオレット」


 夕方、レオナルドに呼び止められる。


「少し、歩かないか」


「はい」


 並んで歩く。

 不思議と、もう周囲の視線は気にならなかった。


「君がここに来た頃」


 彼が、ぽつりと言う。


「正直、印象に残らなかった」


 ……正直すぎる。


「ですよね」


「だが」


 言葉が続く。


「仕事の跡は、必ず残っていた」


 足を止め、私を見る。


「誰かの手柄にされても、崩れない形で」


 胸が、きゅっとした。


「評価されなくても、続けていたのはなぜだ」


 少し考えてから、答える。


「……やめたら、私が私じゃなくなる気がしたからです」


 彼は、静かに頷いた。


「君は、強い」


「いいえ」


 首を振る。


「怖がりです」


「それでも、立つ」


 その一言が、すべてだった。


 沈黙が落ちる。

 でも、気まずくない。


 ふいに、彼の手が私のすぐそばにあることに気づく。


(近い……)


 触れそうで、触れない距離。


「……レオナルド」


「なんだ」


「もし、あの時」


 言葉を選ぶ。


「あなたが話を聞いてくれなかったら、私は、今ここにいませんでした」


 彼は、ゆっくりと手を伸ばした。


 ――指先が、触れる。


「君が手を伸ばしたからだ」


 ぎゅっと、握られた。


 力強くて、でも優しい。


「俺は、それを取っただけだ」


 胸が、いっぱいになる。


(ああ……)


 好きだ。

 もう、疑いようもなく。


 でも、言葉にはしない。


 今は、この温度でいい。


 私たちは、手を繋いだまま歩いた。


 ――もう、誰にも奪われない距離で。





第9章 選ぶ言葉は、ひとつだけ


 その日、私は呼び出された。


「正式な評価の場だ」


 レオナルドの言葉は簡潔だった。


 集められたのは、これまで関わってきた人たち。

 逃げ場のない、でも公正な場。


 ――私は、もう逃げない。


「今回の件について、最終的な整理をする」


 レオナルドが口を開く。


「混乱の原因、責任の所在、そして評価」


 淡々とした進行。

 感情は挟まれない。だからこそ、残酷だった。


「バイオレット」


 名前を呼ばれ、背筋が伸びる。


「君は、一貫して記録を残し、確認を取り、責務を果たしていた」


 頷く人が、何人もいる。


「一方で」


 空気が、さらに張り詰める。


「虚偽の訴え、責任転嫁、感情による判断が見られた者がいる」


 誰のことか、言わなくてもわかる。


「よって、評価を改める」


 その一言で、すべてが決まった。


 拍子抜けするほど、静かだった。

 でも、それが――完全な決着。


 場が解散したあと、私は少しだけその場に残った。


「……終わりましたね」


「ああ」


 レオナルドが隣に立つ。


「怖かったか」


「少し。でも」


 私は、彼を見る。


「もう、自分を疑わなくていいんだって思えました」


 彼は、少しだけ笑った。


「それなら、聞かせてほしい」


 胸が跳ねる。


「俺は、君を尊重している」


 真っ直ぐな視線。


「共に立ちたいと思っている」


 ――逃げ場、なし。


「それが、どういう意味かわかるか」


 私は、深く息を吸った。


「……恋愛の、告白ですよね」


 小さく笑う。


「遠回しすぎます」


 一瞬、驚いた顔。

 それから、はっきりと言われた。


「バイオレット」


「君が好きだ」


 胸が、ぎゅっと締めつけられる。


 私は、迷わなかった。


「私もです」


 言葉は、もう用意されていた。


「あなたが、私の話を聞いてくれた瞬間から」


 沈黙のあと、彼はそっと手を取った。


「これからは、選ばれる側じゃない」


 その声は、確信に満ちていた。


「一緒に、選ぶ側でいよう」


 私は、強く頷いた。


「はい」


 もう、奪われない。

 もう、譲らない。


 ――私は、私の人生を選んだ。






第10章 そして私は、幸せを選ぶ


 それから少し時間が経った。


 私の日常は、驚くほど静かだった。


 あれほど私を縛っていた視線も、噂も、疑いもない。

 あるのは、ちゃんとした仕事と、正当な評価と――


「バイオレット、今日はここまででいい」


「え?」


 書類から顔を上げると、レオナルドが立っていた。


「今日は君の時間を確保してある」


 その言い方が、もうずるい。


「……もしかして、デートですか」


「そのつもりだが?」


 即答。

 顔が熱くなる。


 外に出ると、街は穏やかで、空が高かった。


「不思議ですね」


「何がだ」


「全部終わったら、もっと虚しくなると思ってました」


 彼は少し考えてから言った。


「君は奪われていたものを、取り戻しただけだ」


「だから、空っぽにならない」


 その言葉に、胸がじんとする。


 歩いている途中、かつて私を貶めた人物を見かけた。

 目が合う。向こうは、気まずそうに逸らした。


 もう、何も言われない。

 何も奪われない。


「……ざまぁ、ですね」


 ぽつりと漏らすと、レオナルドが吹き出した。


「君が言うと、妙に爽やかだな」


「だって」


 私は、彼の腕にそっと触れる。


「もう、怒る必要がないですから」


 それが、最大のざまぁだ。


 しばらくして、静かな場所で立ち止まる。


「バイオレット」


「はい」


「改めて言わせてくれ」


 真剣な目。


「君は、強い」


「……昔は、その言葉が嫌いでした」


「今は?」


 私は、笑った。


「好きです」


 胸を張って言える。


「私は、私を守れましたから」


 彼は、私の手を取る。


「これからは、俺もいる」


 その一言で、すべてが報われた気がした。


 誰かに選ばれるためじゃない。

 誰かの期待に応えるためでもない。


 私は、私の人生を生きる。


 そして――


「一緒に生きましょう」


 私の言葉に、彼は迷わず答えた。


「ああ」


 夕陽が、私たちを包む。


 もう、何も怖くない。


 恋も、未来も、幸せも。

 全部、自分で掴んだ。


 ――これは、奪われかけた私が、

 愛と誇りと居場所を手に入れるまでの物語。


 そして、これから続く

 私たちの物語の、始まり。






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― 新着の感想 ―
なぜ、タイトルと粗筋は合っているのに、本文が違うのでしょうか。こういう事がなんの為になされているのかわかりません。作者様のほかの作品もこの様な形だった様に記憶しています。
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