おまけの召喚者ですが、筆頭魔術師様に保護されています(自覚なし)
光が満ちた。そこにいるのは三人。
召喚は成功した。
予定から外れたノイズ。
それがミオリだった。
光は祈りの形をしていた。
だから残酷だ。
足元の感触が、現実だった。
石の冷たさが、靴越しに伝わってくる。
ミオリは息を吸い、ゆっくりと吐いた。
周囲は静まり返っている。
高い天井。円形の空間。床に描かれた魔法陣。
——知らない場所だ。
正面に立つ人々は、誰一人として慌てていなかった。
物語に出てくるような服を纏った人々。
まるで、こうなることを知っていたかのような表情をしている。
「……成功です」
低い声が、淡々と告げる。
ミオリは、その言葉に首を傾げた。
成功。
それは、誰に向けられた言葉なのだろう。
視線が自然と、自分の両隣へ向かう。
白い衣を纏った少女。
剣を神官に捧げられる青年。
二人とも、ミオリよりも少し若く見えた。
戸惑いながらも、必死に状況を理解しようとしている。
その二人に向かって、神官の一人が進み出る。
「聖女ヒカリ様。勇者レン様。
ようこそ、我が世界へ」
言葉は整い、小さな興奮を伴って。
歓迎の儀礼。用意された役割。
少女——ヒカリは、目を見開いたまま、小さく息を呑む。
青年——レンは、眉をひそめながらも、黙って話を聞いていた。
ミオリは、その様子を一歩引いた位置から見ていた。
——ああ。
——私は、違う。
その感覚は、説明される前から分かっていた。
誰も、最初からこちらを見ていなかったのだ。
「……?」
無意識に一歩下がろうとして、ミオリは止まる。
魔法陣の縁に、足先がかかった。
踏み出せば、外に出られる気がした。
けれど、なぜか動けなかった。
そのとき、ようやく視線が集まった。
困惑。
確認。
そして、短い沈黙。
神官たちの間に、わずかなざわめきが走る。
「第三……?」
「対象外では?」
「いや、記録上は……」
言葉は、ミオリの頭上を通り過ぎていく。
誰も彼女に問いかけない。
やがて、年嵩の神官が一歩前に出た。
「……想定通りです」
その声には、諦めに似た安定があった。
「余剰ですね」
余剰。
その言葉は、ひどく静かに胸に落ちた。
「お名前を」
形式的に、そう問われる。
「……ミオリ、です」
声は震えなかった。
なぜか、泣きたいとも思わなかった。
なぜ、と思わないのが不思議で。
……やっぱり、と思った。
「ミオリ様。あなたには、特別な力は確認されていません」
はっきりと、そう告げられる。
否定ではない。
評価でもない。
ただの事実。
「ですが、召喚には意味があります。
勇者様と聖女様が来てくださったのですから」
意味は、よく分からない。
ただ、期待されていないということだけは、はっきりと分かった。
「処遇は……」
神官の視線が、神殿の端へ向かう。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒に近い外套。
整えられた所作。
祈りの場にあっても、祈らない人間の立ち姿。
男は少し考えるように黙り込み、やがて口を開いた。
「私が引き取ろう」
淡々とした声だった。
神官たちが、一瞬ざわめく。
「筆頭魔術師殿……?」
「制度上、問題はない」
男は静かに続ける。
「余剰は管理下に置くべきだ。この者には器としての価値がありそうだ」
合理的な判断。
感情の入り込む余地は、ない。
男の視線が、ミオリに向く。
初めて、真正面から目が合った。
「名前は?」
「……ミオリ、です」
「そうか」
それだけだった。
「私はエルディン。
君は当面、私の管理下に入る」
管理。
その言葉を、ミオリはゆっくりと受け取った。
拒む理由は、なかった。
歓迎されていない場所で、拒む勇気もなかった。
「……分かりました」
そう答えたとき、
エルディンはほんの一瞬だけ、目を細めた。
それは安堵でも、同情でもない。
余剰が、正しく配置されたことへの確認。
ミオリは、まだ知らない。
この合理的な判断が、
いずれ彼自身を縛る選択になることを。
そして、いつしかミオリの救いになることを。
ミオリが与えられた部屋は、簡素だった。
寝台と机、椅子が一脚。
窓はあるが、外には遠くに神殿が見えるだけ。
「不便はないか」
淡々とした声が、背後からかかる。
振り返ると、エルディンが立っていた。
召喚の場で見たときと同じ外套。
同じ、感情の見えない表情。
「大丈夫です」
ミオリは正直に答えた。
不便というほどのものは、何もない。
エルディンは頷き、部屋の中を一瞥する。
「説明しておく」
そう前置いて、彼は机の脇に立った。
「この世界では、召喚は制度だ。
勇者と聖女は、必ず対で呼ばれる」
ミオリは黙って聞く。
「だが、制度には必ず誤差が出る。
それが余剰だ」
余剰。
またその言葉だ。
「君は、魔力を持たない」
断定だった。
「だが、魔力を拒まない。
流れを通す適性がある」
「……器、ですか」
エルディンは一瞬だけ目を向ける。
「理解が早いな」
褒める調子ではない。
事実確認に近い。
「魔力を受け入れた場合、害はない。
むしろ、体調は安定するはずだ。具体的に言うと、少しなら魔法が使えるようになる」
「エルディンさんは、魔術師なんですよね?」
ミオリは、少し迷ってから尋ねた。
「私か」
彼は、わずかに言葉を選ぶ。
「私は魔力に余剰を抱えている。
移さなくても生活に支障はない」
けれど、と続ける。
「移した方が、体調が良くなる」
無いよりはマシ。
そういうことだろう。
「……どうやって、移すんですか?」
エルディンは即答しなかった。
「接触だ」
簡潔な答え。
「最も簡単なのは、手を取ること。
効率がいいのは、密着すること」
ミオリは、少しだけ瞬きをした。
「……抱きしめる、とか?」
「そうだ」
否定も、照れもない。
「キスが最も効率的だが、
初回から行う必要はない」
事務的な説明だった。
ミオリは、自分の手を見下ろす。
「……拒否したら?」
エルディンは、少しだけ考えた。
「制度上、強制はできない。
だが、その場合、君は別の管理先に回される」
別の管理先。
それが、どういう場所かは聞かなくても分かった。
ミオリは、ゆっくりと息を吸う。
「……やります」
声は、落ち着いていた。
「役に立てるなら、その方がいい」
エルディンは、ほんの一瞬だけ眉を動かした。
「無理をする必要はない」
「無理ではありません」
ミオリは顔を上げる。
「……余剰、なんですよね。捨てられるよりは……」
その先の飲み込んだ言葉に、エルディンは何も返さなかった。
代わりに、一歩距離を詰める。
「では、試そう」
彼はそう言って、ミオリの前に立つ。
「手を」
大きくて繊細な手が差し出される。魔術師の手だ。思ったより、あたたかかった。
ミオリは、ためらいながらも、その手を取る。
次の瞬間。
胸の奥に、ふわりと何かが流れ込んできた。
重くはない。
熱くもない。
ただ、静かに満ちる感覚。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
エルディンが、わずかに息を吐く。
「……問題ないな」
彼の声が、少し低くなっていることに、ミオリは気づかなかった。
「大丈夫です」
ミオリは、手を離さずに言った。
「なんだか……落ち着きます」
エルディンは、視線を逸らす。
「それは、正常な反応だ」
けれど、彼の身体は確かに軽くなっていた。
それが、初めての魔力移譲だった。
このとき、二人ともまだ知らない。
この「習慣」が二人の運命を決めてしまうことを。
魔力移譲は、定期的に行われるようになった。
決まった時間も、厳密な手順もない。
エルディンの仕事が一区切りついたとき。
あるいは、ミオリが呼ばれたとき。
「今日も問題はないか」
それが、合図だった。
「はい」
ミオリは頷き、差し出された手を取る。
最初は緊張していたその動作も、今では迷いがない。
手を取る。
胸の奥に、ふわりと何かが満ちる。
重くはない。熱くもない。
ただ、静かに落ち着く。
「……安定してきている」
エルディンは短くそう言った。
評価ではない。経過報告だ。
「君の器としての適性は高い」
「それって褒めてるんですか?」
ミオリが言うと、エルディンは少しだけ眉を動かす。
「事実だ」
それで会話は終わった。
けれど、ある日。
手を離したあと、エルディンがふと動きを止めた。
「……今日は、少し重い」
独り言に近い声だった。
「体調、悪いんですか?」
「悪いというほどではない。
ただ、余剰が溜まっている」
ミオリは、自分の手のひらを見下ろす。
さっき確かに流れたはずなのに。
「足りなかったですか」
「微差だ。だが、効率は変えられる。君が受け入れるなら、だが」
エルディンは言う。
「密着した方が、移譲は安定する」
以前も聞いた説明だった。
けれど、今それが“必要”として差し出されると、少しだけ形が変わる。
ミオリは一拍おいて頷いた。
「……やります」
声は落ち着いていた。
断る理由がない、というより——
断ったら、自分がここにいる意味が薄れる気がした。
「無理はするな」
「無理じゃありません」
ミオリは顔を上げる。
「それで役に立てるなら、その方がいいです」
エルディンは小さく息を吐く。
それが了承なのか、確認なのかは分からない。
「では」
そう言って、彼は一歩近づいた。
近い。
距離が縮まると、目に入る情報が増える。
睫毛の長さ。呼吸の静かさ。
外套の布の匂い。
ミオリは自分の腕をどこに置けばいいのか分からず、少しだけ固まる。
「……抱きしめればいいんですよね」
確認するように言うと、
「そうだ」
あくまで事務的に返される。
エルディンの腕が、ミオリの背に回った。
次の瞬間。
胸の奥で、はっきりと流れが動いた。
手を取ったときよりも、深い。
身体の芯がゆっくり緩むような感覚。
「……あ」
声が漏れる。
恥ずかしさより先に、安心が来た。
エルディンが、わずかに息を吐く。
それは短い。けれど、軽くなる音だった。
「……確かに、安定する」
「よかったです」
ミオリは言ってから気づく。
自分の声が少し柔らかい。
「……落ち着きます」
正直に言うと、エルディンは返事をしなかった。
代わりに、ほんの少しだけ腕の力が強くなる。
抱擁というには足りない、そんな動き。
ミオリは嫌ではなかった。
「離してもいいか」
「はい」
言われて、ようやく腕が解かれる。
空気が冷たく感じた。
エルディンはいつも通り、距離を取り直す。
「今後は、手だけで足りないときはこれでいく」
「分かりました」
それで話は終わる。
終わるはずなのに、ミオリは部屋へ戻る途中も胸の奥が静かだった。
——役に立てるから。
そう言い聞かせる。
けれど、もう一つ分かってしまう。
抱きしめられるという行為は、
効率だけでは説明しきれないほど、身体に残る。
エルディンの歩調も、いつもより軽かった。
二人の距離が静かに形を変え始めていた。
魔力移譲は、生活の一部になっていた。
それは儀式でも、特別な行為でもなく。
朝や夜、あるいは仕事の合間に自然と行われるものになっている。
「……今日は、少し溜まっているな」
エルディンがそう言えば、
「じゃあ、あとで時間を取りますね」
ミオリがそう返す。
いつものやり取り。
理由を問う必要も、
意味を考える必要もなかった。
ミオリの思考は停止し、生活は、驚くほど安定していた。
食事は温かく、寝床は安全で、
誰も彼女を軽んじない。
役割は明確で、居場所もある。
——快適だ。
あまりにも。
「……このままじゃ、だめかも」
ぽつりと零した言葉は、誰にも聞かれなかった。
エルディンの執務室は、相変わらず静かだった。
魔術式が浮かぶ机の前で、彼は資料を閉じる。
「来てくれ」
短い呼びかけ。
ミオリは頷き、近づく。
「今日は、……抱擁では足りないかもしれない」
ためらったように告げられる。
「……え?」
「余剰が多い。効率を上げるには、わかるな? 出来るか?」
ミオリは、一拍だけ迷ってから頷いた。
「……キス、ですよね」
「そうだ」
事務的な肯定。
ミオリは喉を鳴らし、足を止める。
「……初めてです」
エルディンは、一瞬息を呑んだ。
ミオリに、一歩近づく。
いつもより、近い。
「嫌なら、やめる」
「……嫌じゃ、ありません」
その言葉が口をついて出たことに、ミオリ自身が驚いた。
「役に立てるなら……」
言いかけて、止まる。
それは、もう全部じゃない。
エルディンの指が、顎に触れた。
触れるだけで、支えるほどではない。
視線が合う。
距離が詰まる。
唇が、触れた。
深くはない。
長くもない。
ただ、確かにやわらかに触れた。
瞬間。
胸の奥で、はっきりとした流れが生まれた。
今までで、一番。
身体の芯が、ゆっくり溶ける。
安心と、落ち着きと、説明できない満足。
「……っ」
ミオリは、思わず目を閉じた。
エルディンが、わずかに息を詰める。
「……やはり、違うな」
声が、ほんの少し低い。
唇が離れる。
けれど、距離は残ったまま。
「大丈夫か」
「……はい」
ミオリは、すぐに答えられなかった。
胸が、静かに満ちている。
「……落ち着きます」
そう言うと、
エルディンは、少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
それ以上、言わない。
それが、逆に重かった。
部屋を出たあとも、
ミオリの身体は軽いままだった。
——快適だ。
それを、今度ははっきりと自覚する。
エルディンのそばにいると、
考えなくていい。
迷わなくていい。
役割があり、
必要とされ、
拒まれない。
「……依存、してるのかな」
そう思った瞬間、
胸の奥が、ひやりとした。
彼がいなかったら?
この生活がなかったら?
——考えたくない。
ミオリは立ち止まり、深く息を吸う。
「……このままじゃ、だめ」
快適すぎる日常は、人をダメにする。
もう、私は、そうなってる。
それが、怖かった。
一方、執務室に残されたエルディンは、
唇に指先を当てたまま、動かなかった。
魔力は、確かに軽くなっている。
だが——
それだけでは、説明がつかない。
「……効率、か?」
そう呟いた声は、
自分に言い聞かせるようだった。
彼はまだ気づいていない。
快適なのは、
魔力が減ったからではないことに。
そして、
その快適さを失うことに、
すでに耐えられなくなりつつあることに。
エルディンの家は、静かだった。
魔術師の私邸にしては質素で、無駄がない。
必要なものだけが、適切な位置にある。
ミオリは、その空間にすっかり馴染んでいた。
——馴染みすぎている、と気づいてしまうまでは。
その日は、外出の許可を求めた。
「村を見たい?」
エルディンは、魔導書から視線を上げる。
「……少しだけ」
理由は言わなかった。
彼も、理由を聞かなかった。
「日が暮れる前には戻れ」
それだけ。
ミオリは頷き、外套を羽織った。
引き留められないことに、ほっとしてしまう自分がいた。
半日ほど歩く。
村は、思ったよりも普通だった。
人がいて、声があって、生活がある。
魔法陣も、祈りも、制度も見えない。
市場の端で、ミオリは足を止めた。
パンを売る老婆。
荷を運ぶ少年。
子どもを叱る母親。
誰も、特別な力を使っていない。
「……あの」
思い切って、ミオリは声をかけた。
「ここで暮らしている方は、みなさん……魔法が使えるんですか?」
唐突な問いに、老婆は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「何言ってるんだい。使えるわけないだろ」
「じゃあ……おばあさんも?」
「そうさ」
当たり前のように言う。
「畑もあるし、仕事もある。楽じゃないけどね」
楽じゃない。
でも、生きている。
「神殿の庇護がなくても?」
「神殿? ああ、あそこね」
老婆は肩をすくめる。
「関わりたい人もいれば、そうじゃない人もいるよ。正直神様っていてくれればいいけど、それでご飯が食べられるわけでもないしねぇ」
——選べる。
その事実が、胸に落ちた。
村を歩くほど、
ミオリの中で、何かがずれていく。
能力がなくても、
保証人がいなくても、
不便でも、不安でも。
人は、ここで生きている。
「……できるんだ」
呟きは、風に消えた。
エルディンの家に戻る道すがら、
足取りは、行きよりも重かった。
快適さが、重い。
守られていることが、急に息苦しい。
家に戻ると、エルディンは執務机に向かっていた。
「戻ったか」
いつもの声。
「……村を見てきました」
「そうか」
関心がないわけではない。
ただ、彼にとっては“問題のない外出”だった。
「……村には、魔法を使えない人がたくさんいました」
エルディンは、手を止めない。
「当然だ」
「でも、みんな……普通に暮らしてました」
そこで、ようやく彼の手が止まる。
「何が言いたい」
問いは、静かだった。
ミオリは、言葉を選ぶ。
「……私、ずっと思ってました。ここを出たら、私みたいなのは生きていけないって」
エルディンは答えない。
「でも、違いました」
ミオリは顔を上げる。
「不便でも、不安でも……生きてる人は、いました」
沈黙。
重い、間。
「それと、君は違う」
エルディンは言う。
「君は、余剰だ。制度の外に出る前提で造られていない」
「……それでも」
ミオリは、小さく息を吸う。
「あなたに守られるだけじゃ、ダメなんです。あなたにとって私は絶対に必要なものじゃない」
ここに“置かれる”ことと、
ここに“望まれる”ことは、違う。
エルディンの視線が、ミオリを捉える。
今までと同じ。
けれど、どこか違う。
「……考える必要はない」
「あります」
即答だった。
「私、このままだと……」
言葉を止める。
依存、という単語を使うのが、怖かった。
「……エルディンがいないと、生きられなくなっちゃいます」
それは、告白に近かった。
エルディンは、初めて明確に表情を変えた。
「それは」
否定しかけて、止まる。
「……問題なのか?」
問い返し。
ミオリは、静かに頷いた。
「はい」
「……待て。もし、魔物に襲われたらどうするんだ?」
ミオリはきょとんとした。
「それは、仕方のないことなんじゃ」
「……だめだ。許可できない」
「ミオリが死ぬ可能性があるのに、黙って手を離すなんて、できない」
ミオリはびっくりした。
「私の代わりはいくらでもいますよ? 食費も浮きますし」
「駄目だ」
エルディンは、見たことないほどに険しい顔をしている。不安に瞳が揺れていた。
「……エルディン?」
「耐えられない」
エルディンは衝動的に、ミオリを抱きしめた。
「……それって、どんな感情?」
ミオリは静かに問いかけた。
エルディンの動きが止まる。
「……保護だ」
絞り出した言葉は、それだけで納得できないと苦悩が表情に載っていた。
ミオリは、静かにエルディンの腕から抜け出す。
「……じゃあ、行ってきますね」
エルディンは、俯き、自分の手を見つめている。
ミオリの体温が、その手から消えた時、エルディンは顔を上げた。
「……待ってくれ」
「保護じゃない」
彼の手がミオリの手を掴む。
その手は震えていた。
「……」
ミオリは首を傾げてエルディンを覗き込む。
「君のいない生活に耐えられない。消えないでくれ」
ミオリは息を呑んだ。
「愛してるんだ」
「……エルディン」
エルディンは、改めてミオリを引き寄せた。
「君といるのが自然だと思う。そう思うのは私だけか?」
「でも、私はあなたに依存して」
違う、と彼は言った。
「君は何も望まない。たった一人しかいないのに、代わりはいる、なんて言う」
残酷だ。と。
震える彼の背をミオリは抱いた。
鼻の奥がつんとしてくる。
「私を愛してくれるの?」
「もちろん」
腕の力が強くなった。
「私も……あなたが好き。……釣り合わないと思ってた」
「馬鹿だな……馬鹿だ」
二人は、抱きしめ合っていた。
お互いの体温が、溶けていくようだった。
朝の光が、窓から差し込んでいた。
エルディンの家は相変わらず静かで、必要なものしか置かれていない。
けれど、以前と決定的に違う点が一つあった。
魔術書を読んでいたエルディンは首を回す。
「……少し、溜まっている」
伺うような視線がミオリと絡み合う。
ミオリは頷いた。
「じゃあ……少しだけ」
立ち上がり、エルディンの前に立つ。躊躇はない。
「手でいいですか?」
「手じゃなくてもいい」
エルディンは腕を広げた。
ミオリはそこに飛び込んだ。
何かがやり取りされる感覚。
ほうっと同時にため息を吐き、笑い合った。
「……落ち着く」
エルディンから漏れた呟きに、
「私も」
ミオリは答えた。
触れたいと思ったから触れる。
それは義務でもなんでもなく。
ふと、エルディンがミオリの唇を奪った。
「今の、必要ありました?」
「したいから」
それが全て。
彼は笑った。
「もう、離れられないな」
「はい」
ミオリは穏やかな顔で応える。
あれから少しだけ、自分を大事にできるようになった。
それも、エルディンがミオリを大切だと伝えてくれるから。
「私、この世界にきて良かったかも」
望まれない召喚者は、幸福そうに、笑った。
お読みくださり、ありがとうございました。




