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神曲(3)  作者: 名倉マミ
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第三章(全十二章)

銭婆(ぜにーば):一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで。

:『千と千尋の神隠し』


《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》


 シャルギエルは空色の目をゆっくりと開ける。海鳴りが響く。ここは絶海の孤島の牢獄だ。帝都(キャピタル)の奴らは、俺がこのままあの世へ逝くと思っているだろう。

 だが、そうあいつらの希望するようにはならない。キャピタルを支配し、我がもの顔に振る舞う燐火党の奴らから、あの茶色の野獣どもから、必ず我が愛する祖国を取り戻さなくてはならない。

 そのためには「総統」なんてこっ恥ずかしい自称を吹いて、「総統だけしか着られない」紫のマントに身を包み、権力の座にふんぞり返っているあの絵描き崩れを、必ず、必ず除かなくてはならない。

 シャルギエルはボロボロのベッドから起き上がり、首筋の火傷痕に触れ、枕元に置いていた「幸運のコイン」を握りしめる。古の女神の横顔が彫られたそれは、しかし、その名の通りの効果はないだろう。これを身に着けていたシャルギエルの同志は既に奴らと――燐火党と闘い、敗れ、刑場の露と散ったのだから。



《一九九五年 京都》


 「ところがビスマルクは、ドイツ最後の皇帝・ヴィルヘルム二世が即位すると、社会主義者鎮圧法や労働者保護立法を巡って新皇帝と意見が噛みあわず、一八九〇年三月に首相を辞めることになります」

 世界史の飯田先生はあまり感情の乗らない感じで話す。

 「いよいよヒトラーの登場やな」

 お調子者の礼二が何だか嬉しそうに茶々を入れる。ヤンキーってヒトラー好きだよね、とわたしは心の中で呟く。気のせいかしら。

 「いや、それはまだまだや」

 苦笑いする先生に続いて、一番前の席に座っていたわたしはつい発言した。

 「まだ赤ちゃんですね」

 「まだ生まれてへんのちゃうかなあ」

 飯田先生が首を傾げた。先生が教科書を参照して確認するより早く、わたしは、

 「生まれてる。ヒトラーは一八八九年生まれです」

 日本だと大日本帝国憲法が成立した年だ。

 先生はびっくりしてわたしを見た。

 「十朱、おまえ、よう知っとんなあ」

 礼二も、恐れ入ったという眼差しでわたしを見ていた。

 次の時間は音楽の授業で、先週の「サウンドオブミュージック」の映画鑑賞のレポート返却があった。わたしのレポートの評価はとても高く、「時代背景をよく理解して書けています」と江川先生のコメントがあった。トラップ大佐が「エーデルワイス」を歌って祖国オーストリアへの愛とナチスドイツへの不服従を示す場面と、以前平和学習で観た「キムの十字架」というアニメ映画で、戦時中日本に強制連行され、労役を課された朝鮮人たちが一日の終わりに火を囲んで「アリラン」を歌い、望郷の思いと共にささやかな抵抗をする場面を重ねて論じた部分には朱線が引かれ、花丸が添えられていた。

 うちは私立の進学校じゃないし、トラップ大佐の葛藤とトラップ一家の抵抗はちょっとみんなには難しかったかもなあ。

 「十朱さん、ありがとう!十朱さんに教えてもろたから赤点取らんと済んだ。わたし、歴史苦手やから」

 授業が終わってから、同級生の愛香が話しかけてきた。

 「さっきの世界史の時間も思たけど、十朱さんってノチス?のことよう知ってるんやな。なんで?」

 「中学校の時からなんか気になって、時々本読んだり、TV観たりしてるから」

 祖母から度々注意されてるみたいに、変だ、危ない奴と思われるのを恐れながら答えたが、愛香は意にも介さなかった。

 「そうなんや~」

 家に帰ると、いつものように祖母がTVを点けたまま本を読んでいた。

 またオウム真理教のニュースをやっている。教団内での階級を示すという緑や赤の衣装を着た高弟たちに囲まれ、「尊師」しか着られないという紫の衣装を着て、丸いソファに座って説法する麻原彰晃の過去映像を何度も何度も放映している。この汚らしい髭も長髪もでっぷり太った体形も、もう見たくもない。

 今はもう多くが逮捕されているこの真面目そうな若い弟子たちも、こんな人に騙されて人生を棒に振ってしまうなんて。

 「『ポア』(浄化)しろ」という言葉と、尊師のその命令を盲目的に受け入れて唯々諾々と実行に移す態度のおぞましさ。まるでナチスがユダヤ人虐殺を「特別処理」などと言い換えたみたいだ。

 だいたい、仏陀の生まれ変わりだなんて、そんな人がその辺にゴロゴロしてるわけないでしょ。仮にそうだとして、なんでわかるのよ。幸福の科学の大川何とかって人も自分の前世は仏陀やキリストやムハンマドや聖徳太子だったって言ってるし、ムハンマドと聖徳太子は同じ時代の人だし、そんなこと信じるなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 でも、なんか、わかるかも。

 ふと、そう思った。地下鉄サリン事件や区役所職員拉致殺害事件に関わったとして逮捕された人の一人が、オウムに入信した時にまだ今のわたしと同じぐらいの年頃だったと聞いて。

 その人が中学校の時に書いた詩がTVで紹介されていた。

 「逃げ出したいぜ この汚い人波の群れから 夜行列車に乗って」

 天翔る夜行列車――夜空の色はナチス親衛隊SSの陰府(よみ)の闇のような漆黒に重なり、凶暴な悪の心象と、その悪に呑みこまれまいと抗う善なる魂の搔き消されそうな呼び声とが、祖父を亡くしたばかりの十七歳のわたしの心にある昏い物語を描きつつあった。

 「それで?シャルギエルはどうなるん?キャピタルに帰って、燐火党と独裁者のザイサーと戦って、勝つん?」

 昼休み。小春日和の日差しがうららかに降り注ぐ学校の中庭のベンチで、愛香が尋ねる。音楽のレポートの件をきっかけに、すっかり仲よくなった。

 わたしは左手の甲で鼻を擦り上げ、笑って答える。

 「それは後のお楽しみ」

 「えー、気になるぅ。ちょっとだけ教えて。美形のお兄さんとか出てきいひんの?」

 「シャルギエルかてかっこいいよ。身長はこの世界の基準で百八十くらいあるよ」

 本気で怒ってはいないが、わたしはちょっと口を尖らせて、自分の小説の主人公である反体制の青年将校を擁護した。この頃はまだ「イケメン」という言い方はしなかった。ついでに言えば、「萌え(る)」もまだ言わなかった。

 「でも、シャルギエルって黒髪やろ」

 「うん。目は青いけどな」

 「わたし、やっぱり金髪がいいなあ」

 愛香を喜ばせようとしたわけではなく、前から頭にあったことだが、わたしはちょっと考えて言った。

 「燐火党の冷酷な将校を出そうと思ってるんやけど。その人は金髪で、目が異様に明るい緑で、もちろん背も高いし細いし、ジャニーズとか俳優みたいに顔がきれい」

 「何それ!?敵キャラ!?はよ出して!はよ続き書いて見せて!」

 愛香は興奮して顔を輝かせ、わたしの両肩をガシッと掴んだ。

 放課後、わたしは図書室で一人、調べものをしていた。中学の図書室とは違って、司書の先生も常駐しているし、蔵書もそこそこ多く、常連メンバーなど人の出入りも多くてなかなか活気のある場所だった。中学と違って運動部を強制されることもなく、自分の時間を自由に使えて、少しは解放を感じていた。

 シャルギエルが主人公の小説「静寂の海」を書くために、ナチスドイツの歴史や国家体制を参考にしていた。中学から続く自分でも不可解な興味が創作という形で結晶した。今日はナチス政権成立直前、一九三〇年頃の政治状況や、国防軍と突撃隊(SA)、親衛隊(SS)の違いなどについて資料を読み返した。

 【アドルフ・ヒトラー率いるナチス(NSDAP)は、一九三〇年の連邦議会選挙で百七議席を獲得後、一九三一年には更なる支持を拡大させた。失業や経済苦境に悩む中産階級、農民、若者を中心に支持を集め、党員数は約八十万人に急増した。

 共産党(KPD)は労働者層で支持を拡大(一九三〇年で七十七議席)し、ナチスと敵対。街頭での暴力対立が社会不安を悪化させた。

 ナチス突撃隊(SA、一九三一年に約三十万人)と共産党の赤色戦線戦士同盟がベルリンやハンブルクで度々衝突し、警察や軍の介入も効果を上げず、都市部は無法地帯化した。

 社会民主党(SPD)は最大勢力(一九三〇年で百四十三議席)だったが、ブリューニング首相の緊縮政策を部分的に支持し、共産党との連携を拒否した。左派の分裂が結果的に、ナチスの躍進を助長した形になった。

 一九三〇年から首相を務めるハインリヒ・ブリューニングは、議会の支持不足から、ヒンデンブルク大統領の権限に基づく「大統領緊急令」に依存した統治を行った。一九三一年は議会をほぼ無視した「非常事態統治」が常態化し、ワイマール憲法の民主主義が形骸化した。】

 今にして思えば、ツァール・カトリエーヤなる得体の知れない暦を使う非現実のパラレルワールドに置き換えるのではなく、ナチスドイツそのものを舞台にしてもよかった、或いはした方がよかったかもしれないが、作品世界そのものを虚構とした方が簡単に書けると高校二年のわたしは楽観していた。実はそれは逆だったと十年も経たない内に気が付くのだが。

 二十一世紀には文字通り「中二病」「高二病」などと呼ばれるようになるが、生々しい現実の諸問題に正面から取り組むのはダサい、という「スカした」気風が、ちょうどわたしたちのちょっと上くらいの年代から以下、その年頃の青少年には共通してあるように思う。

 【国防軍(ライヒスヴェア、「帝国防衛」)は、ヴェルサイユ条約で十万人までの軍縮が行われ、一九三九年までは戦場に出ることもなかった。特にベルリン駐留将校は戦闘より行政・警備が主であり、現代の日本で言えば軍隊というより公安警察のような仕事だと思って良い。

 ライヒスヴェアの将校は貴族や高等教育を受けた良家の子弟が中心で、現代日本で言えばキャリア官僚を想定するとわかりやすい。ライヒスヴェアは一九三三年まで中立義務が保たれており、当初からナチスとは一定の距離があった。が、エルンスト・レーム率いるSAの影響などで、ナチスシンパの将校は少数存在した。

 一九三三年、ナチス政権はSA(突撃隊)やSS(親衛隊)を強化、ライヒスヴェアは中立を維持しつつ圧力に直面することになる。一九三四年「長いナイフの夜」(レームらSA幹部の粛清)で、ライヒスヴェアはナチス支持を明確化。一九三五年の「ヴェルマハト」(「国防力」)への改称は、表面的には軍のナチス化の完成を象徴するが、実際にはナチス政権に批判的な将校も少なくなく、一部では特にSSとの対立を深めていくことになる。】

 わたしは「禁貸出」のシールが貼られた大判の資料から一生懸命本文をノートに書き移す。今のようにインターネットですぐに何でも調べられないし、ましてAIが瞬時にして情報を分析分類してもくれなかったので、田舎の高校生が限られた資料を読みこんで重厚な歴史小説を書くのは至難の業だった。特にうちの学校はコピー機も生徒が自由に使えなかったからだ。

 拙くても実際の歴史に取材して書いた小説の方が、少なくとも「ツァール・カトリエーヤ暦」よりは読み手に対する説得力が全然違ったと今のわたしは苦笑いしてしまうけれど、幸い、たった一人の読み手であった愛香はそんなことは気にしないか、或いは気にしないふりをしてくれた。彼女が興味を持ってくれたのはキャラクターのアクション、ストーリー展開、「高二病」っぽい台詞、そして年齢不詳のビジュアルだったから。

 わたしは左手の甲で鼻を擦りつつ、小説の設定や筋を考え始める。黒髪碧眼の志士シャルギエルは元々、キャピタルで警察の公安部門と連携し、燐火党や他の少数過激派政党のデモ監視など治安維持、政府施設警備、情報収集などの任務に当たっていた。

 でも、政権を奪取した燐火党に陥れられて身分を剥奪され、絶海の孤島へと追いやられてしまう。この辺りは湖の祠の牢獄で朽ち果てた「ドラゴンクエストⅢ」の騎士サイモンが念頭にあった。湖に向かう唯一の通り道である岬には女の霊の呪いがかかっていて、歌声が行く船を呼び戻す。



《一九三一年 ベルリン》


 「本日付でベルリン第九歩兵連隊に配属になりましたステラン・ゾーファーブルク中尉です。よろしく」

 初めて会った時、なんてきれいな男だ、と思った。白金のような金髪で、肌は雪のよう、頭が小さく、すらりと細身で、オスカーよりまだ背が高い。

 顔はエルスベットに似ていると思った。つまり、睫毛の長い、女のようにきれいな顔立ちをしている。しかし、目の色が違う。エルスベットは明るい茶色だが、この男は緑。それも、ほとんど黄緑に近い緑だ。猫のように、キャッツアイとかいう宝石のように見える。

 これら全て、特に最後に言及した要素のせいで、何やら人間離れしてすら見える。オスカーはふと、幼少の頃に母や兄から聞かされて怖くて仕方なかったライン川の女怪を思い出した。美しい人の姿をしているが人ではない、強烈な悪意を持った何者か。(くす)しき禍歌歌うローレライ。

 「つまらないなあ。来る日も来る日もこんなくだらない見回りばっかり。俺はこんな田舎町のお巡りみたいなけちな仕事がしたくて軍に志願したんじゃないのに。ナチとアカとユダ公の喧嘩ばっか、見飽きたわ。ローゼンシュテルン、君はそう思わないかね」

 ゾーファーブルクの黄緑の目が客の付かない娼婦のように気怠そうに、車の窓を通してベルリンの穏やかな空を眺める。

 「そんなに退屈なんだったら、昼から運転代わってな」

 オスカーは素っ気なくそう答えてハンドルを切る。

 「ああ、いいよ。それはそうと、ローゼンシュテルン、あんたの嫁さん、ミュンヘンの出でえらい別嬪って聞いた。子供はいるの?」

 「いるよ。去年生まれた」

 「男?女?」

 「女の子だ」

 「ふーん」

 自分で訊いておきながら、猫目野郎は思いっきり気のなさそうに答える。実際、「嫁が別嬪」以外は興味なく、ただ暇で死にそうだから無駄口叩いたというだけの印象だった。

 自分はまだ遊び回りたいから結婚はしないんだと割とあけすけに言ってるらしいが、私生活でもあんまり素行が悪いと上に睨まれるぞ、とオスカーは心の中で返した。

 「てめぇ、ぶっ殺してやる!」

 通りから男の野太い怒鳴り声が響き、オスカーはブレーキを踏んだ。

 「は?やってみろよ。おまえに思想はあんのか!?資本家の犬のくせしやがってよ」

 腕に赤いリボンを巻いてビラ撒きしていたまだ若い痩せぎすの男が、二人の屈強な突撃隊員に喰ってかかっている。周りには人だかりができつつあったが、大部分の者は関心を払わずに通り過ぎている。

 「おい、ハンス、もうやめとけ、ヤバイって。俺は逃げるからな」

 同じく赤いリボンを巻いたもう一人の若者が青ざめて忠告する。彼は全く耳を貸さず、更に突撃隊員を挑発し、嘲笑った。

 「ああ、失礼。資本家じゃなくてヒトラーの犬だったな。あのイカれたちょび髭野郎の」

 突撃隊員の一人がハンスを殴りつけ、ビラが舞い散り、地面に倒れたところを二人がかりで蹴りつけた。もう一人は本当に同志を見捨てて逃げ去った。

 「やめろ!国防軍だ」

 車を停めて駆け付けたオスカーが叫ぶと、突撃隊員は一瞬こっちを見たが、無視して、警棒も持ち出して更なる暴力を倒れている共産党員に加えた。

 「ああ、これは・・・・」

 警察と連携しないといかんな。オスカーは身構えて傍らの同僚を見やった。一応車からは降りたものの、ゾーファーブルクは腕を組んで、白い面に禍歌のような笑みを浮かべながら、突撃隊の暴虐を観覧している。

 「俺はナチスが勝てばいいと思うね」

 オスカーは一瞬絶句したが、すぐ我に返って怒鳴った。

 「おまえ何言ってる、動け!」

 ゾーファーブルクは肩を竦め、渋々暴行沙汰に割って入り、突撃隊員を取り押さえ、無線で連絡を受けた警察官に引き渡すのに協力したが、その日からオスカーに対して何やらよそよそしくなった。

 べつに仲よくしたいと思っていなかったので構わなかったが、最初エルスベットに似ていると思ったのが腹立たしかった。エルスベットは高い倫理観を持ち、こんな野郎とは全然違う。

 休憩時間はいつも鏡に向かって入念に髪を梳ったり、爪に鑢をかけて整えたりしているゾーファーブルクが、ある時、珍しく本を読んでいたので、オスカーは何気なくタイトルを見た。「我が闘争」。



《ツァール・カトリエーヤ暦 一二〇九年》


 イルシェナーはザイサーの著書「我が飽くなき闘い」から目を上げ、煙草を燻らし、煙を吹かす。氷のような黄緑の瞳が紫煙の向こうからシャルギエルを見つめる。

 「シャルギエル、世上に流布したあんたの手紙にはこう書いてある。『燐火党は頭のいかれた男を教祖と崇める宗教みたいなものだ』でも、今のこの国では、狂っているのはあんたの方だよ」

 シャルギエルは黙して、直立不動の姿勢を保つ。

 イルシェナーは矢庭に、執務机の後ろに立ち上がり、右手を高々と掲げて敬礼し、大声を張り上げる。

 「ジーク・ザイサー!」

 シャルギエルは微動だにしない。一言も発さない。

 シャルギエルよりも上背のあるイルシェナーは机を回って彼に近づき、無抵抗の彼を床に殴り倒した。灰皿から吸いさしの煙草を取り、首筋に押し当てた。

 さすがのシャルギエルも悲鳴を上げずにいられなかった。イルシェナーの金髪が部屋の明かりに映え、天使のような顔が嗜虐の笑みに歪む。



《一九九八年 京都》


 初めて会った時、なんて醜い男だ、と思った。何に似てるかといえば、ナポレオンフィッシュという魚に似てる。でも、ナポレオンフィッシュはまだ魚類だし、「そういうものだ」と思って見るから味のある顔のようにも見えるけど、ナポレオンフィッシュに似た人間の若い男なんて最悪じゃないだろうか。

 とりあえず唇が分厚すぎるし、金縁みたいな、時代遅れの牛乳瓶の底みたいな丸眼鏡のせいで、余計に垢抜けなく見える。ちょっと天然パーマの頭もやたら大きくて不格好だし、体形も、肥満とまでは言えないけど決してスマートでもなく、脂ぎった髭面は見るに堪えない。髪の毛も服もセンスがなく、不潔そう。

 出身は大阪市住之江区で、電車で片道二時間半ほどかかるこの京都市左京区の京都府立 崙山(ろんざん)大学に自宅通学していると言っていた。

 「自宅から通える国公立大学のみ」「浪人するなら一年に限り許す」親から課されたのはわたしと全く同じ条件で、現役では結局合格しなかったので、一浪してこの大学の文学科に合格した所まで同じだった。それでわたしは何となく親近感を持った。見た目は最後まで好きになれなかったけど。

 「溝黒正(みぞくろまさし)、文学部文学科西洋文学専攻一回生。好きな食べものはカレーライス、好きな作家、影響を受けた作家は多すぎて言えません」

 それが文芸サークルの新歓コンパでの彼の自己紹介だった。

 「溝黒くんは、言葉つきがこの辺の人と違うけど、元々どこの人?」

 とわたしは尋ねた。大学へ行くと全国各地から学生が集まってきているので本当にびっくりした。それでもやっぱり近畿圏出身者が圧倒的で、中にはわたしや溝黒みたいに自宅から時間をかけて電車通学している学生も少なくなかったけれど。

 「ぼくは生まれも育ちも住之江で、他所の土地に行ったことは一回もないよ。でも、高校の時から標準語を話すことにしたんだ。ぼくは高校の時に『おまえは天才だ』という『神託(ヴィジョン)』を受けた。天才が君ら凡人みたいに関西弁なんか喋っていたらかっこ悪いからね」

 完璧なイントネーションが冷たく響いた。「あ、そう」わたしはどう答えていいのかわからず、曖昧に笑った。今にして思えば、天才なら浪人することもなかったろうし、学部から京大に行けばよかったのに。

 「国中文専攻の講義ってどんなのなの?」

 ある時、文芸サークルのBOXで、溝黒が尋ねた。BOXというのは各サークルに充てられた部室のことで、元々農学校だった崙山大学の古い倉庫を改造して造られており、箱型をしていたのでそう呼ばれていた。

 「国中文」とは国文学・中国文学の略で、学内では「国中(コクチュウ)」という呼び名が通用していた。

 「源氏物語の解釈とか」

 すると溝黒は、心底軽蔑したようにフンッと鼻を鳴らし、

 「やっぱり、王朝ばっかりか!ぼくはあんなメロドラマみたいな安っぽい三流文学がなんで世界的な評価を得ているのかわからないよ」

 わたしは軽く戸惑いつつも、受け流そうとした。

 「溝黒くんは西文(セイブン)を選んだんやから、それでいいやん」

 「いや、ぼくはほんとは国中に進みたかったんだ。太宰や三島、新しいところでは大江健三郎なんかの研究がしたかったからね。でも、出願前に調べたらこの学校では近現代文学を専門にしている先生が一人もいないだろ。やっぱり西文にして正解だった~」

 「源氏を『メロドラマ』やとか『安っぽい三流』って言うけど、全部ちゃんと読んだん?」

 わたしがそう言うと、偉そうに喋っていた溝黒は虚を衝かれたような顔をして、笑ってごまかした。わかりもしないのにいい加減なことを言うなよ、とわたしは思った。

 次の日になると、溝黒は昨日一晩で与謝野晶子訳の「源氏物語」を全部読んだと言い張り、瓶底眼鏡の奥の目をしばたたかせ、一生懸命になって、自分の方がよく知っていると誇示しようとした。

 溝黒はビブリオ(古書)マニアで、ドイツ語の成績が素晴らしく良く、入学当初から西文の先生たちに見込まれていたらしい。

 これはずっとずっと後で知ったことだが、溝黒を一番買っていたのがナチスドイツ研究で有名な柴崎先生だ。当時は助教授だったという。

 第二外国語を選択する時、なぜかドイツ語に強く惹かれたが、家族に相談したら反対されて、中国語にするよう強く勧められた。「他の子はどうしてるの」と訊かれ、「国中ではほとんどの学生が中国語を選択する」と言ったら、「じゃあ奇を衒わずそうしなさい」と言われた。「ドイツ語が何の役に立つの」とも。

 少しは心が残ったが、やっぱりドイツ語にしなくてよかったと思った。溝黒と同じ講義を受けないといけなくなるし、彼の前で間違ったり、彼より試験の成績が悪かったりしたら何を言われるかわかったものじゃない。

 溝黒は文字だけで書かれた書物と同じくらい、マンガもよく読み、アニメも映画もよく観ていて、自分自身、絵も上手だった。これもまだ出会ったばかりの頃、文芸サークルのBOXで机に向かって、ナチス親衛隊のような黒い制服を着た将官の絵を落書きしていた。

 「それ、SSみたいやな」

 とわたしは覗きこんで言った。自分が高校の時に書いた小説「静寂の海」に登場するイルシェナーという人物と、その物語とそのキャラクターをとても愛してくれた級友の愛香のことを思い出し、笑みが零れた。

 絵が得意だった愛香は卒業の時、イルシェナー、シャルギエル、ザイサーの肖像を描いて、「ミクちゃんへ」と書き添えて贈ってくれた。ザイサーはネイティブアメリカンやヒスパニック系のような外見で、仙人か昔の左翼青年、哲学青年をイメージして、長髪を後ろで束ねているという設定だった。愛香は見事に再現してくれた。浪人時代はそれらの絵を脇に置いて勉強したものだ。三十年近く過ぎた今でも持っている。

 「うん。この絵は捨てよう。みんなに誤解される」

 絵の出来か、わたしに声をかけられたことか、どっちが気に入らなかったのか知らないが、溝黒は何やら不機嫌そうに言って、絵を丸めてゴミ箱に放りこんだ。

 本当になんで現役で合格しなかったのかわからないくらい、溝黒は世界史全般を信じられないくらいよく知っていたが、中でもヒトラーの生涯とナチスドイツの歴史については誰よりも詳しい、家には中学の時から大阪市内の古本屋を回って集めた関連の書籍が何十冊もあると自慢していた。

 今ならインターネットで絶版本でもすぐ買えるけど、その当時、農村出身のわたしは古本屋なんて見たこともなかった。「ヒトラーとナチスのことなら、自分も少しくらい興味を持って調べたことがある」「高校時代、『静寂の海』という小説も完成させた」と言うのも気が引けたので黙っていたが、何かこの縁もゆかりもないはずの男子学生との間に共通点が多いことを不思議に思った。


作者注:

「ツァール・カトリエーヤ暦」のパート、字体を変えたいんですがシステム上できないみたいです。

「できるよ」ってことでしたら、教えていただけると幸いです。

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