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6. オホーツクの花と海と

 明くる日は、釧網本線のとある無人駅から始発列車に乗りこみ、オホーツクの海辺を目指す。

 空は、雲が幅を利かせながらも、ところどころ青空がのぞいている。この旅にしては上出来だ。


 通学のためだろうか、釧網本線にしてはごく珍しい2両の汽車に揺られ、昨日乗り込んだ斜里を今度は逆向きに過ぎると、オホーツク海沿いの砂丘林を行くようになる。


 車窓は、はじめ林がメインだが、やがて海側に草原が見えるようになると、海沿いによく咲く花がちらほら目につくようになってきた。

 走りながらなので見にくいが、ハマナスの濃い赤紫、カワラナデシコのピンク色、マツヨイグサの黄色などがときどき目の前をよぎっていく。深いオレンジはスカシユリだろうか。


 さらに浜小清水を過ぎると、海と反対側の眺めもパッと開け、湯沸とうふつ湖が見えてくる。右は花々の向こうに紺碧のオホーツク、左には広大な湯沸湖とそれを囲む草原。なんとも贅沢な眺めを楽しめる区間だ。

 ほどなくして、汽車はその風景の中でスピードを落としていき、原生花園駅に着いた。


 この駅、あたりに民家は一軒もない。あるのは、観光センターと駐車場、それに、道東の大自然に咲く花を楽しめる小清水原生花園だけ。小清水原生花園に遊ぶ観光客のためだけにあるような駅だ。

 花を求める鉄道旅行には実におあつらえ向きな駅。その観光客の一人になって、存分に楽しませてもらうことにしよう。


 線路とそれに並行する国道を挟んで、海側と湖側に遊歩道があって、それぞれに適した花をのんびり楽しめるようになっている。ベンチにザックを預けて、まずは湖側から。


 すぐに国道を渡る。アメリカ映画で見た、荒野を抜けるハイウェイさながらの、地の果てまでまっすぐ続く道路だ。

 当然車は、街中では聞くこともないような音をたてて飛ばしていく。――ここでは、高速道路を歩いて渡る体験ができるのだ!


 湖側の遊歩道は、濃紫色のノハナショウブを楽しめる。あたり一面咲きほこる年もあるのだが、今年は花の時期が早かったのか、終わりかけといった趣だ。北海道に来たら毎年1度は見たい花なので、残り花を楽しむ。


 それに、湖まで広がる大草原の眺めがまた爽快。馬が何頭か放してあるのもおもしろい。

 どこまでも続く草原の彼方で、馬がおおらかに草を食む……。道東の最果て、オホーツクまでやって来た旅人だけが出会い得る、北海道ならではの風景だ。


 高速道路を渡って戻り、いよいよ原生花園のメインパートである海側の花園へ。


 その手前で踏切を渡るが、ここには警報機も遮断棒もない。北海道の原野には、こういう踏切が少なくないのだ。

 踏切に立って眺めると、赤茶色の砂利に乗った2本の銀が、花咲く草原の緑といっしょに波打ちながら続いていく。

 よく写真を撮っている人がいるが、北海道らしい風景として旅人の思い出に刻まれることだろう。


 踏切を渡ると、目の前の一角から早速エゾキスゲの花盛り。レモンイエローのユリ型の花が、茎の先端であちこち向いて咲きほこっている。この原生花園に来るたび、一番楽しみにしている花だ。


 「キスゲ」というと、ニッコウキスゲを思い浮かべる人が多いだろう。本州のあちこちで、湿原や高山の夏を彩っている花だが、これは北海道ではエゾカンゾウと呼ばれる。夏の北海道を旅すると、湿原や海沿いなどあちこちでよく見かける花だ。

 ニッコウキスゲが北海道に来るとエゾカンゾウになり、同じ「キスゲ」の名を持つこのエゾキスゲは、また違う花らしい。

 たしかに、エゾカンゾウはやや山吹色がかった黄色なのに対して、エゾキスゲはレモンイエローで、色味が若干違う気がする。一度並べて見比べてみたいところだが、よりによって同じところに咲いてくれないもののようだ。


 これまで、エゾカンゾウはいろいろなところで見てきたが、エゾキスゲはここでしか見たことがない。

 その「レアな花」という思い入れと、鮮やかなレモンイエロー、それに名前をめぐるややこしい話が相まって、なんとも心惹かれる花だ。


 すぐ柵沿いに咲いているので、そっと花びらに触れてみると、肉厚のそれはひんやりとして、北の大地を満たす清水を想像させる。鼻を近づけると、ほんのかすかに上品な甘い香り。


 花を愛でながらゆっくりスロープを登っていくと、たいして高くはないがすこぶる眺めのいい展望台に着く。海側には眼下にオホーツクの碧、反対には、馬が草食む草原の向こうに細長く広がる湯沸湖。天覧ヶ丘という名前がついていて、これまで皇族方が何度も来ているらしいが、この絶景を見れば納得できる。


 案内板によると、昭和天皇が

 みつうみの おもにうつりて をくさはむ 牛のすかたの うこくともなし

 と詠んだ歌碑があるという。ここで牛を見たことはないが、今は馬の姿にその面影を求めるとしよう。


 まばらに咲く花を愛でながら、草原に囲まれた尾根道を下っていくと、オホーツクの砂浜に下りられる。花を目当てに来たのだが、海の眺めも楽しみたい。浜に下り、見つけた流木のベンチに腰かける。


 右も左も見渡すかぎり続く汀に、1列に並んだ波が沖から次々近づいてきては、地上で最も心地いい轟音を聞かせながら砕け、消えていく。

 同じことの繰り返しなのに、いつまでも飽きずに眺めていられるのは、なぜだろう。


 思えば、海を見る機会が本当に少なくなった。


 海なし県にしばらく住み続けているし、山を目的に旅することが多くなったからではなかろうか。

 山が目的ではない旅でも、京都や奈良に行くとなると、内陸から内陸への旅になるから、目的地はもちろん行き帰りの道すがらでも海を見ることはない。

 そう考えると、海を越えて北海道に来る夏の旅は、ことのほか貴重な機会ということになる。


 今年あと半年足らずのうち、まずはこの旅の後、夏の間に近県の山を歩きに行くだろう。

 あとはもう、紅葉狩りの旅いくつかを残すのみとなりそうだ。紅葉狩りで向かうのは、これまた山か、あとは京都奈良くらい。

 ということは、この旅で見る海が、7月にして今年最後の海ということになりはしないだろうか。

 しかも、海自体は本州に戻るフェリーから見られるにしても、浜にたたずんで海を眺めるのは、この旅でもこれが最後になるはずだ。


 つまり、今眺めているこの海が、今年最後の「浜から眺める海」ということか!


 そう思うと、ただでさえ飽くことなく眺められるこの大海原が、途端にいとおしいものになり、去りがたくなってくる。

 だからというわけでもないが、ベンチを立って波打ち際へ。右も左も後も前も、見渡す限り誰もいない。年甲斐もなく、しばし波と戯れる。


 砂浜で、靴を濡らさずに水に触れるのはなかなか難しい。

 波いくつかぶんの水の迫りようを確かめて、ここまでは来まいという位置で待ち、次の一波で広がった水に手を近づける。すると、それを見ているかのように逃げてしまう。

 ならばと少し前に出て待つと、次の波に限ってひときわ勢いよく迫ってきて、足を後ろへと押し返す。

 結局、ほどよく勢いのいい波を待って、それが砂に広がりきったタイミングで手を伸ばし、一瞬、指先を触れた。


 よし、波と戯れた。今年最後の砂浜を満喫したといっていいだろう。


 その後も、あいかわらずオホーツクの波は、休むことなく次から次へとやって来て、魂が求めるサウンドを聞かせ続ける。

 なおも去りがたいことに変わりはないが、いつまで眺めていても同じこと。汽車の時間も近づいた。


 ありがとう、オホーツク。そう告げて、駅へ戻り始めた。


 定刻に合わせて駅に戻ると、少し遅れて、見慣れた1両の汽車がゆっくりやってきて、止まった。

 昨日斜里から乗った列車と同じく、この列車もおおかた席は埋まっていて、海と反対側の席へ。まあいい。この先、左も右も花畑だ。


 汽笛をひとつ発した汽車は、駅を後にしてスピードを上げ、ちょっとした尾根状の草原の上を行く。

 進むほどに、まばらだった車窓のレモンイエローの群れがみるみる濃くなって、ついには花畑のただ中となる。

 このあたりが、小清水原生花園最大のエゾキスゲ群生地のようだ。


 かつて、この夢のような花園を間近で愛でたくて、次の北浜駅から原生花園駅まで、幾度か歩いたことがあった。ちょうど両駅の真ん中くらいにあるので、鉄道旅行だとそれくらいしか方法がないのだ。


 たしかに、ここまで来ればエゾキスゲの大群を見られるには見られる。だが、ここには遊歩道はなく、歩道から眺めるしかないうえに、すぐ隣には柵のない高速道路。しかもその傍らを延々5キロ歩かねばならない。


 もう、あんなことをする気になることはないだろう。まったく惜しい限りだ。

 仕方ない。車窓から一瞬の夢心地を味わうのみ。線路のつなぎ目と車輪が奏でる軽やかなリズムに合わせて、エゾキスゲの群れが現れては後ろに飛んでいく。


 やがて、湯沸湖の水がオホーツクに注ぐ河口の鉄橋が、その夢心地の終わりを告げる。この先に花畑はない。

 あとは、時折右手に、少しずつ姿を変えるオホーツクを眺めながら、網走へ向かう。


 こうして、折り返し地点を過ぎたこの旅路は、本州に戻る方向へ動き始めた。


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