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4. 7年ぶりのカムイミンタラ                   ③邂逅と到達

 氷河期の生き残りにして大雪山のマスコット、ナキウサギ。ウサギというよりハムスターを思わせる、こぢんまりした丸い耳。小さく丸っこい体。少し離れた石の上に、ほんの一瞬だけ、そのかわいらしい姿を見せてくれた。

 またどこかに出てくるかな、と思って少し待ってみたが、それっきりだった。


 ああ。今年もまた会えた。満足なような、名残惜しいような……。


 ひとしきり下りきると、雪が溶けきって間もない湿地状のところを通る。こういうところは、高山植物が好んで群れ咲くものだが、今は湿って黒ずんだ枯草が広がるばかりだ。花が咲くにはまだ早いかな……と見ていると、ちらほらとエゾコザクラのピンク色。これはこれで好きな花だが、お目当てのチングルマがここに咲くには、やはりもう少しかかりそうだ。


 そう思いながらもうちょっと歩いて、ほどなく黒岳石室(いしむろ)という山小屋に着くと、その手前に、不意に、焦がれ続けたチングルマの小群落が広がっていた。

 今年初めての、「高山のチングルマ」との出会い。

 まだつぼみも多いが、これだけ咲いていれば十分満足だ。


 ただ、腰を下ろせる石の1つもないし、拠点となる山小屋だけあって人も多く、せっかくの再会もゆったり楽しめない。ちょうど腹も減ってきて、チングルマを眺めながら昼飯にしたいところだったが、小屋前のベンチで違う花を相手に食べることにする。


 やっとチングルマに会えるには会えた。でも眺める環境としてはやや微妙。この先に期待したいが、果たしてほかに満足できる群落があるだろうか……。


 この先、数十分ほど雲ノ平を歩いていくと、大雪山の心臓部ともいうべき「お鉢平」を見渡せる、本当に気分のいいところがある。まだ時間に余裕があるので、今回もそこまで行こう。

 その道すがらで、見事な群落に出会えるのを祈るだけだ。もしなければ、ここで楽しんで帰ればいい……。

 そんなことを思いながら食べ終えて、雲ノ平散策に戻る。


 ちょっとしたハイマツ帯を抜けると、西部劇を思わせるような荒涼とした風景が続く。こういうところには、チングルマに限らず花はほとんど咲かないが、見晴らしはいいし、こんな景色は高山にでも来ないと見られないし、楽しみのひとつではある。


 平坦で歩きやすい山岳ムード満点の道を、後ろ手でのんびり散歩する。しばらく続いた荒野からハイマツ帯に入り、そこを抜けると、こんどは白い花が咲いている。さあ何の花かな……チングルマだ!

 こんどは、人通りもほとんどない楽園の只中。心置きなく立ち止まって、愛でる。


 咲いていてくれたか……。まだ時期には早いかもしれない、と憂え続けてきた、雲ノ平のチングルマ。盛りと呼ぶにはまだ及ばないが、このカムイの懐で、焦がれ焦がれたその花園に、やっとたどり着いた。

 この調子だと、まだまだ楽しめるところはありそうだ。そう期待して、もう少し歩いてみる。


 ハイマツに囲まれ、わずかに窪んだこの花園の中では、歩くほどに主役はキバナシャクナゲへと変わっていったが、ハイマツ帯に区切られた次の花園に移ると、またチングルマが広がっている。こっちのほうがさらに規模が大きそうだ。

 あまり広い道ではないが、人通りもないし、道脇におあつらえ向きな小岩もある。ようやく、腰を下ろしてじっくり向き合うことができた。


 夏山を歩いて、山の花を愛でながら憩うほどの至福はない。その花がチングルマならなおさらだ。

 今は日が陰っていて、花びらの輝きを楽しめないのは惜しいものの、風を受けて楽しそうに揺れあう様は、実にかわいらしい。


 一体、この花のどこにこれほど心惹かれているんだろう。

 短い茎の先に1つずつ花をつける、小ぢんまりした趣き。5枚の純白の花びらを、幾分すぼみ気味に開く慎ましやかさ。花全体としては「白い花」なのだが、中心に広がる雄しべ雌しべは黄色で、そのコントラストが鮮やかだし、どこか微笑ましくもある。そしてよく見ると、黄色いのは雄しべ雌しべだけではない。花びらの付け根も黄色いのだ。その小憎さに気づくと、さらにいとおしくなる。


 誰もいないところで花を愛でていると、あっという間に時間が過ぎていく。1つの大きな目的は果たせたわけだが、もう1つの目的地・お鉢平の絶景を目指し、そろそろ先へ進むことにしよう。


 進むごとに、荒涼としたれき地、ハイマツ帯、花園と、いずれも高山ならではの景色が続く。

 やがて、ほとんど平らだった道が少しずつ登りになると、遠くに見えていた白い帯が近づいてきて、その雪渓を登り切るとこの山旅の最終目的地だということが見えてくる。傾斜のある雪渓とはいえ短いし、足跡もしっかりついていて、アイゼンがなくても心配ない。一歩一歩、慎重に足を進めて、そして、登りついた。

 途端に、広大な空間が目の前に現れて、立ちつくす。7年前に一度見た景色だが、たとえ毎年見たとしても、きっと同じようにするだろう。


 お鉢平。太古の噴火の姿を今にとどめるカルデラだ。

 周りを囲う峰々は、黒岳の頂から眺めたそれらより近く親しく、その懐に抱かれた眼下の窪地は、ひたすらに赤茶色。底には幾筋かの流れが生まれ、瀬音をたてて赤石川へと流れていく。


 通う道などあるはずもなく、人の踏み入ることを許さない、厳かな世界。人はおろか、緑すらない。

 何もない。でも、なぜか、豊かだと思った。ここには、何かが満ちている。そして、眺める者を満たしていく。やはりここには、カムイたちが遊んでいるのだ。


 かつてそうしたように、傍らの岩に腰かけて、しばし絶景と対話する。いつしか雲は去り、澄んだ日差しの中、景色を楽しむにはまたとない好条件になっていた。

 7年前のあの日は、たしかここで1時間くらいこうしていた。この心満たす絶景を前にしては、1時間くらいすぐに過ぎてしまう。あの時は上川に連泊したから、そのくらいのんびりする余裕があったのだが、今年はそうもいかないのが惜しい。

 まあ、いい。どうせこういう広大な景色は、いくら眺めていても、十分に楽しんだ、という実感を得にくいものだ。そろそろ戻り始めるとするか。


 いや、その前に……平らで大きな岩を見つけ、その上にあおむけに横たわる。これまた山の楽しみの1つ。空をまっすぐ見上げ、山並みを横に見る至福のひととき。山に出かけて、人のいないところにおあつらえ向きの岩を見つけては、このひとときを味わってきた。

 澄んだ青空に、軽やかな白い雲が輝いている。眺めていると、普段、いかに空や雲を眺める機会がないか、あらためて思い知らされる。


 思えば、折りたたみ傘を広げて家を出て、その後も好天に恵まれることのなかったこの旅路。そんな旅路の奥の奥、神遊ぶ庭の心臓部に、こんな極上の晴天が用意されていたとは、まさに天の恵みというほかはない。ありがたいことなのだが、山の強い日差しは容赦なく顔を焼いてくる。贅沢な話ながら、顔の熱さに思わず身を起こした。


 もういい時間だ。花を愛でる山旅に戻ろう。身支度を整えて、最後にいま一度、厳かで豊かな絶景と向き合ってから、雪の階段を降りはじめた。


 あとは来た道をひたすら戻るだけだ。何も目新しいものはない。時間をにらみつつ、すでに知っている花園を存分に楽しんでいけばいい。


 行きに楽しんだチングルマスポットまで戻って、また違った石に腰を下ろす。あいかわらず、楽しそうに揺れている。

 花もまた、どれだけ眺め続けても、飽きもしなければ心からの満足も得がたいのが常だ。どこかで踏ん切りをつけて足を進めるほかはない。それでいいのだ。結局、雲ノ平のチングルマに会えたのだ。


 石室まで戻れば、また小屋手前のチングルマが迎えてくれる。ここが最後の見どころと言っていいだろう。

 今日のタイミングでは、一番咲きっぷりがいいのはここではなかろうか。立ったままだが、じっくり楽しむ。

 そして、名残惜しさに背を向けて、れき地を登りはじめた。


 このあたりで一休みしようかと思ったが、午後に入って、人が出てにぎやかになってきた。スペースに余裕がある山頂まで行ってしまうことにする。

 行きにナキウサギを見たあたりで、一応探してみたが、姿はおろか鳴き声も聞こえてはこなかった。そういつまでも同じところにいるはずもないし、こう人が多くては、向こうとてご免だろう。


 頂上まで登り返して、2回目のランチタイム。おにぎりをほおばりながら、これまで5時間くらい歩き、過ごしてきた雲ノ平を見やる。


 残雪の峰々が並び立ち、抱かれた緑の大地がうねる景色は、行きに見たのと変わりない。だが、行きに青く澄んでいたその絶景は、午後になって、こんどは暖色を帯びて広がっている。

 眼下には黒岳石室のある窪地。その先にまだらに広がる、荒涼としたれき地・ハイマツ帯・チングルマ咲く花園。さらに先には、お鉢平手前の雪渓の白帯。そして、それらを気ままにたどりながら続いている、1本の細い小道……。ここ5時間ほどの山旅の履歴を、今ここから一望しているのだ。

 眼に映る世界のすべてが、午後の逆光を受けてまばゆい。思わず目が細くなる。――目が細くなるのは、はたして逆光のせいなのだろうか?


 時計を見る。歩き始めると決めた時刻が来たようだ。


 雲上の楽園、雲ノ平……。また、ここへ来るのだろうか。来れるのだろうか。来てしまうのだろうか。

 もうひと眺めしてから、幾分勢いをつけて振り返り、草原と灌木の斜面を下り始めた。

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