4. 7年ぶりのカムイミンタラ ①木枯らしに舞う枯葉のごとき
もうかれこれ10年近く、夏の北への旅は、高山の花を愛でる山歩きがメインディッシュになっている。
今年も、北海道と東北でそれぞれ1ヶ所ずつ登る計画だ。北海道では、これまで何度か登っている富良野岳にまた登りたい。十勝岳連峰の片端にそびえる、花の山として知る人ぞ知る名所だ。
北海道で、公共交通を使って日帰りで登れて、高山の花を楽しめる山というと、富良野岳以外に大雪山系の黒岳や赤岳もある。こっちも心惹かれる山だ。
だが富良野岳は、駅から登山口エリアまで、バス代500円で連れていってもらえるという交通費の安さが、なんとも魅力的。黒岳や赤岳と比べると、交通費だけで3,000円近く差が出るのだ。貧乏旅行者にとって、この差は大きい。
問題は、宿だ。
富良野岳の登山口がある十勝岳温泉エリアの宿のうち、貧乏旅行者にも手が届くのはわずか2軒だけ。本当は早めに押さえておきたいところだが、天気が悪い日を避けようとすると、どうしても直前まで待ってしまう。そんなとき、宿の空き状況がインターネットで分かれば便利なのだが、こういう宿に限って空き状況を出していない。
初日の高速バスもそうだが、こんな行き当たりばったりな旅を続けていると、計画の修正を迫られることに慣れっこになってくる。乗り物とか宿とか、不確かな要素があると、ダメだったときに備えて、2番手3番手のリリーフピッチャーを準備しておく習慣が身についた。今回も、富良野岳がダメなら黒岳かな……などと思い描きながら、ヤキモキして過ごすうち、そこに泊まる前日を迎えてしまった。
後で毒蛾の洗礼を受けることになる日の午後、道中の苫小牧駅で、比較的静かなところを見つけて、宿に電話をかける。1軒目は、登山口すぐの便利なところにある宿の別館だが、インターネットでほとんど情報がない。
「別館なんですけど、明日1人泊まれますでしょうか?」
「別館は……ちょっと今年はやってないです。」
空きがあるかどうか以前に、やってない、か……。まあ、さもありなん、という感じの宿なのだが、立地が絶好なだけに残念。
2軒目は、登山口からだいぶ離れていて、正直気が進まないが、こうなれば仕方ない。このエリアで安い宿は他にないのだ。去年、近くの別の山に登った時にも泊まれたし、ここは大丈夫だろう、と期待して電話。
「明日なんですけど、1人泊まれますでしょうか?」
「明日ですか……明日は満室になっております。」
ああ、ダメか……。
この瞬間、富良野岳はこの手からするりと抜けて、飛び去っていった。
人通りもまばらな駅の通路の片隅で、ひとり唇を噛みつつ、考えをまとめなおす。もうこのうえは、「2番手ピッチャー・黒岳」しかないだろう。出費は痛いが、久しぶりに花豊かなこの山に登れること自体は悪くない。
黒岳とて宿は限られているが、こっちはわずかながら空いていて無事確保。
かくして、今年の北海道の山旅は、7年ぶりの黒岳に決まった。
乗り物や宿の空きに身を委ね、翻弄されながら旅路が定まっていくとは、さながら木枯らしに舞う枯葉のごとき命運だな……などと自嘲もするが、旅というのはそういうものかもしれない。
少なくとも、この旅人にとっては。
黒岳は、大雪山のメインエリアの北端に位置する、標高1,984mの山。
北海道有数の温泉街・層雲峡からロープウェイとリフトで7合目まで登れるので、大雪入門の山として人気だ。
黒岳山頂まで登っていく斜面も色とりどりの花を楽しめるが、山頂の先には、「雲ノ平」と呼ばれる雲上の楽園が広がっている。
木と呼べるようなものはもはや1本もなく、残雪豊かな山々に囲まれたゆるやかな大地に登山道が続き、いかにも高山らしい、地を這う可憐な花々が登山者を迎える。
アイヌたちは、大雪山のことを「カムイミンタラ」=神々の遊ぶ庭、と呼んだというが、雲ノ平の絶景を前にすれば、誰しもがうなずけることだろう。
「黒岳に登る」といっても、目当てはむしろ、この楽園の眺めと花々だ。あの絶景と花を楽しめるなら、多少のコスト増に十分見合った価値がある。
そう、それはたしかにその通りなのだが……。
富良野岳プランと比べたときのこのプランのデメリットは、交通費の高さだけではない。花の時期が遅いのだ。もともと、富良野岳の花の時期をにらんだこのスケジュール。雲ノ平なら、来週のほうがいいのだが。まったく何も咲いていないわけではないにしても、雲ノ平に花が乏しかったら、それはそれは残念な山行になるだろう……。
せっかく宿と登れる山が決まっても、こんどはこの思いが心に影を落とす。
旭川から、「特別快速きたみ」というたいそうな名前の1両の汽車に揺られ、層雲峡の玄関口・上川でバスに乗りかえて石狩川沿いに進んでいく道すがらでも、しばしば、不意にこの影はやってくる。
このうえは、少しでも多く咲いていることを願って、あとは楽しめるものを楽しむほかはない。
やがて、今日の宿がある層雲峡に到着。初めて北海道に来たとき泊って以来、幾度も泊まって親しんできた、思い出深い町だ。ここに降り立つとなぜか心がほぐれ、件の影も幾分遠ざかった気がする。そんな層雲峡の町はずれにある安宿の客となって、山へ向けての一夜を過ごした。
明くる朝。外を見ると、思いがけず、青空だった。
青空……。旅5日目にして、初めて青空らしい青空を見たのではなかろうか。
朝6時過ぎ、旅行用の大荷物を宿に預け、デイパック1つ背負ってロープウェイの駅へ。駅周辺は人もまばらで、不自然なほど静かだったが、駅に入ると一変、長蛇の列と賑わいがそこにあった。
列の1人になってよく見ると、この場に似つかわしいリュックと登山用ステッキの人々に交じって、女子高生風の団体がいることに気付く。修学旅行だろうか。だとしても、まだ6時20分にもならないこんな早朝に、山に登るロープウェイに乗ってどうするのだろう?
しかも、上着は各々いろいろだが、みな制服のスカートをはいている。どう見ても山を歩く格好ではない。朝飯前に、早朝の山の景色をちょっと眺めさせてやろう、という教師陣の計らいなのだろうか。
やがて改札が始まり、列をなした面々がそのままゾロゾロと進んでいき、100人くらい乗れるゴンドラに収まる。このロープウェイにはこれまで何度か乗ったが、ハイカーと女子高生が半々くらい混ざって乗っているという、どの記憶とも雰囲気の違うゴンドラは、けたたましいベルを合図に、ゆっくりと斜め上に浮かび始めた。