3. 薄暮をよぎる黒い影
8時17分発長万部行き普通列車。この列車で、今年の北の旅が動き出す。
函館から長万部までのこの鉄路は、これまで、北海道に来ると幾度となくたどってきた、愛着のある区間だ。前半は駒ヶ岳ふもとに広がる原生林、後半は海沿いの眺めと、北海道らしい車窓を楽しめる。
存分に楽しみたいところだが、あいかわらず空は重く、眺めはけだるく、いまだに睡眠不足感を引きずっているのも相まって、しばしば思いがどこか遠くにさまよっては、眺めを楽しんでいないことに気づいて憂鬱になる。
長万部を過ぎ、室蘭を過ぎ、苫小牧に至ってもそれは変わらなかった。ただ、昼間の乗り物で寝て過ごすことを極端に嫌う旅人として、寝落ちまではしなかったのが救いではある。
苫小牧駅で乗りかえ待ちの時間がかなりあるので、買い出しを済ませる。買い出しといっても、今日もゲストハウスに泊まるわけではない。行き先は、道央のとある無人駅。
途中の駅前にある日帰り入浴施設に寄ってから、恐ろしく本数の少ない普通列車に揺られて、一夜を過ごすその駅に降り立った。
どう見ても地元民ではない客をひとり降ろした1両の汽車は、念を押すようにゆっくりホームから離れていき、やがてゴトゴトとひと揺れすると、ポイントを覆うスノーシェッドの闇に吸いこまれて赤い2つの点になり、そして、消えていった。
初めて来た駅なので不安はあったが、事前にある程度調べておいたし、大丈夫だろう。駅舎のトイレが使用禁止になっているのは痛いが、それも調査済み。10分くらい歩いたところに自然公園があるので、食事もトイレも歯磨きも、全てそこで済ますほかはない。
駅舎から線路を挟んで反対側、1軒の建物も見えないほうになぜか跨線橋が伸びている。そこを渡って、一歩ごとに金属音をたてながら階段を下りていき、地上へ。
そして先の見えない土の道を心もとない思いで歩いていくと、やがて立派な公園に着いた。
水場として重要な公衆トイレからほど遠からぬところに、テーブル付きのベンチもある。食事にはなかなか好都合だ。あたりにほとんど人もいない。早速、ガス缶にコンロを取り付け、コッヘルでお湯を沸かし始める。
ほどなく蚊に気づき、虫よけと蚊取り線香で対策。ここまでは想定通りだ。
だが、晩飯の準備が進むにつれてだんだん暗くなってくると、時々、妙に大きな黒い影が目の前をよぎるようになってくる。暗くてよく見えないし、飛び回るばかりで何にも止まりはしないので、いまいち正体がつかめないが、どうも蛾のようだ。
いつの間にかいなくなり、もう来ないでくれないかな、と思っていると、思い出したように何匹かで戻ってくる。荷物にたかっているだけならまだしも、時々首筋に当たったりするから厄介だ。ただ、蛾とはいってもすべてが毒を持っているわけではない。そこまで気に留めずに晩飯を済ませた。後でどんな目にあうかも知らずに……。
食べ終えてしばらくのんびりしていると、あたりはすっかり暗くなった。水が必要な用事をすべて済ませ、荷物をまとめ、ヘッドランプの明かりを頼りに同じ道を駅へと戻る。
夏の無人駅は、気温や地域にもよるが、虫の巣になっているようなこともめずらしくない。ところが、緑豊かな山あいにあるこの駅は、窓の外側にはそれなりにたかっているものの、待合室の中には不思議なほど虫が少ない。泊まるうえではありがたいことなのだが、利用者が少なくて人の出入りがないせいだと考えると、この駅の行く末が案じられて複雑だ。
終列車の時間もとっくに過ぎているので、寝袋を広げてもぐり込む。
がらんと広い待合室は、整然としていてなかなか快適。比較的すぐに眠りに落ちたが、すぐ横の道路をトラックが通ると、そのたびに音と揺れで起こされる。こうやってあと何回起こされるんだろうか……と憂鬱になったが、今夜の眠りの敵はトラックだけではなかった。
やがて、寝返りのタイミングだったろうか。首の左後ろに、熱いような痛みを感じて目が覚めた。触ってみると、どうもただれているようだ。その時脳裏に浮かんだのは、薄暗い公園に飛び交うあの黒い影と、首筋に触れた不気味な柔らかさ。
……奴だ、奴は毒蛾だったのか!
おびただしい種類の蛾がいるなかで、毒を持っているのはほんのわずか。それは確かなはずだが、よりによってあの蛾が、そのわずかなものの1つだったということか!
そう気づいてみたところで、今さらどうしようもない。ともかく今は寝るしかない。寝よう。
だがその後も、寝返りを打ったり首を動かしたりするたびに、熱い痛さに起こされ続けるハメになった。
こうして、またもよく眠れぬ夜を過ごすことになったわけだが、この夜を何とかやり過ごせば済む話ではない。
これからどうなっていくんだろう。いつ治るんだろう。あるいは悪化してしまうのか……。
明くる日、そんな不安を感じもしたが、そもそも場所が場所だけに、仮に鏡があってもよく見てみることすらできない。まあ、そんなに悪くなることもないだろう。1日も早い自然治癒に期待して、そのまま旅を続けていく。
だが次の日には、顔を洗ってタオルで拭った拍子に、軽くタオルが当たっただけで、茹でたジャガイモのように簡単に皮がむけてしまった。炎症で、皮が相当弱くなっていたんだろう。こうなると、宿のシーツとか枕カバーとか、触れるものが片っ端からシミになってしまう。当然、絆創膏を貼って対処することになる。
傷への対処としてはごく真っ当なはずだが、さらにその次の日、そのまま山に登ったことで、また別のややこしい問題を抱えることになる。しっかり日に焼けて、絆創膏のところだけきれいに白く焼け残ってしまったのだ!
痛さや皮の状態は2~3日で収まったのだが、こんどは白く残った部分を隠すために、その後も絆創膏を貼り続けることになる始末。結局、絆創膏とおサラバして、毒蛾の呪いから完全に開放されるまでに5日くらいかかっただろうか。
これまで幾度となく無人駅に泊まってきたが、こんな目にあったことはなかった。あの公園で過ごしたことも必然と思えてならない。まったく不運というより他はない。またも自らの命運を呪うことになった。