8. ピッチャー交代ふたたび
北海道の旅を終えようとする今、次なるテーマは、東北の山歩きだ。
――今年こそ、鳥海山に登りたい――
鳥海山は、山形と秋田の県境にそびえる、東北第2の高峰だ。豪雪地帯ならではの豊かな花を期待できるこの山に、一度登りたいと思い続けてきたが、交通費の高さとコロナ禍の影響で、いまだ果たせないでいる。
登山口へは一般のバスがなく、公共交通は乗合タクシーだけ。乗合だから、ひとりでタクシーを雇うよりずっと安いが、それでも片道3千円する。しかも前日までの予約制だ。
その代わり、登山口の鉾立まで上がると安い山荘があるので、宿の事情は悪くない。その宿が、コロナ禍でここ2年クローズ続きだったのだ。今年はどうやらやっているらしい。ならばと、交通費に目をつぶって、初の鳥海山行きを描いていた。
ところが、乗合タクシーも山荘も、インターネットで空き情報が分からないどころか、情報そのものが極めて乏しい。旅のスケジュール全体を左右するだけに、これは甚だ心もとない。
だったら、前もって電話で聞いてみればいいのだが……。
かつてインターネットなどなかったころは、もっと積極的に電話でものを尋ねていた。それがインターネットに頼るにつれ、いたく煩わしく感じるようになってしまって困る。
結局、またも予約することなく直前になってしまった。
こうなると、考えることは決まっている。先発マウンドに立たせたエース・鳥海山がダメだったときに備えて、リリーフの準備だ。
迷うまでもない。月山で決まりだろう。この山も、東北を代表する、雪と花の豊富な高山だ。
月山はこれまでに2回登ったことがある。2回目は、ちょうど去年の今頃だった。
月山へのメインアクセスは、庄内平野の鶴岡からのバスで、初めてのときはこれで行ったが、今は金~日のみの運転になって使えない。
あとは、仙台や山形市からの高速バスを、西川という山あいの田舎町で降り、町営のバスに乗りかえていくルート。去年、これを見つけて使ってみた。
平日にも走っているのがありがたいが、登山口着が9時半と、山登りにはかなり遅い時間になるのが惜しい。
それでも、乗り物の不確かさもないし、宿も心配いらないので、鳥海山と比べればかなり気が楽だ。花が豊かなのもよく知っている。リリーフとしては十分だろう。
鳥海山か月山か……乗るフェリーも違えば出港の時間も違う。この先のスケジュールを考えて逆算していくと、決断のデッドラインは、北海道を去る日の昼、ウトナイ湖へと向かう途中の岩見沢駅だ。
そんなわけで、乗りかえ待ちの岩見沢駅で、スマホを片手に、またも乗り物と宿の空きに旅程の行く末を委ねることとなった。
さあ、運命の分かれ道。
ルールは簡単。鳥海山の乗合タクシーと山荘、どっちか一方でもダメなら月山に決定だ。
より不安の大きい乗合タクシーのほうから先に電話する。
「鳥海山の乗り合いタクシーの予約お願いします。明日の最終便なんですけど、鉾立まで1人乗れますでしょうか?」
「明日の最終便ですか……はい、大丈夫です。」
名前と電話番号を告げて予約する。
おお、取れたか……これは、ついに鳥海山に登れるかもしれない。あとは山荘だな……と思ったとき、
「帰りのタクシーも予約します?」
帰りの便は明日予約すればいいのだが、せっかくだから取っておくか。
「そうですね。じゃあ明後日の最終便お願いします。」
「明後日……明後日の午後はタクシー出払っちゃっててダメですね。」
なに? 出払ってる? 出払ってるってどういうこと??
「明後日の最終便には乗れないということですか?」
「そうですね……ダメですね。」
「そうですか……ということは、明日上って明後日の午後下りてくる方法はないということですね?」
「あとは他社さんですかね……」
鳥海山の乗り合いタクシーは3社あるが、他の2社はこの日程ではやっていないことを確認済みだ。
「他社は明日明後日はやってないらしいので、じゃあこの日程で公共交通で鳥海山に登る方法はない、ってことですね……」
ほとんど電話で自問自答している有様。
「……わかりました。じゃあ行きの予約もキャンセルでお願いします。」
「はい。申し訳ないです。」
……今回は、一旦ぬか喜びさせてから落とす手で来たか……。
またしても我が命運は、マウンドから先発エースを引きずり降ろして、かわりにリリーフを立たせた。
また今年も月山か……まあ、気は楽になったが。
気を取り直して旅に戻り、数時間後にウトナイ湖で白鳥との出会いを楽しんだ後、沼ノ端で買い物をしてからバスでフェリーターミナルへ向かう。
窓口で乗船手続きを済ませて、待合ロビーへ。ベンチがずらっと並ぶ先は全面ガラス張りになっていて、その外、すぐそこの霧の中に、仙台行きのフェリーがそびえ立っていた。
幻想的な眺めではあるのだが、甲板からの景色が望めないことを告げる眺めでもある。
乗り込んで甲板に出てみると、果せるかな、霧雨。
天気が良ければ、ここからの眺めは素晴らしい。すべてを優しく包みこむ夕映えに、円錐形した樽前山のシルエットがおおらかに浮かび、周りの山並みと手を振ってくれる。北海道の旅を締めくくるにふさわしい絶景で、眺めていると1時間くらいあっという間に過ぎてしまう。
それが今日は、フェリーのすぐ近くで忙しく走り回るトラックや作業服のスタッフが、青白い照明を受けて、現実と夢のあわいのように浮かび上がる他は、何も見えるものはない。
それでも、フェリー旅の儀式よろしく、他の客と出航風景を見守る。
やがて、フェリーと岸壁をつなぐロープが緩み、1つまた1つ、スタッフに外されていく。最後のロープが外されると、フェリーはおもむろに岸を離れ始めた。
霧が濃いからか、しきりに汽笛を発するが、発するそばから霧に吸いこまれていく。ほどなく、ただ1つの景色だったフェリーターミナルも、同じ霧に吸いこまれていった。
そして、明くる朝仙台港に着くまで、ついに陸を見ることはなかった。




