水底にひそむもの 二
それは、大蛇であった。
「鯰ちゃうやん!」
真赭が叫ぶ。
身体の大半は湖の中にあるため全長は分からない。しかし、胴の直径は一メートル以上あるのではないだろうか、とても両手では抱え込めない太さをしている。湖の水を滴らせる黒褐色の鱗が、太陽の光を反射してぬらぬらと光っている。頭は胴体に比べれば小さいが、それでも人ひとりは容易にひと呑みにしてしまえる。縦長の瞳孔は、小瑠璃と真赭を品定めするような視線を向けている。人間で言うこめかみの辺りからは、本来蛇には存在する筈のない角らしきものが二本生えていた。
その姿に、小瑠璃は心当たりがあった。
「角のある大蛇っ――まさか、夜刀神……!?」
「何やそれ!」
「蛇神の類いですよ! こんな場所にまでいたとは思いませんでしたけど!」
夜刀神は「常陸国風土記」に記述のある祟り神だ。湿地帯のような場所に群棲していたが、新田開墾のために豪族によって山へ追いやられた。頭に角の生えた蛇の姿をしており、その姿を見た者は祟りにより一族ごと滅んでしまうとされている。
怪異には違いない……違いないが、普通のそれとは異なる霊格を備えた上位存在。神であるということは、凡百の怪異とは一線を画す存在であることを意味する。群れではなさそうなことは救いだが、だとしても何の準備もなしで手に負える代物ではない。
「つまり、ただの神サマってことやな」
あっさりと言う真赭に、小瑠璃は仰天して声を荒げる。
「何でそんな余裕ぶってるんですか!? 神格となると今の私たちの手には負えませんよ!」
「あれ、ルリちゃんって僕の経歴知らんかったっけ」
「急に何の話ですか!?」
経歴と言われても小瑠璃は、真赭が封印師をしているということと奈良出身であるということしか知らない。
「ま、一分だけ時間稼いでや。そしたら何とかするから」
「はあ!? ちょっとちゃんと説明してくださいよ!」
しかし、小瑠璃の言葉に真赭は返事をせず、走って大蛇から距離を取った。
「くそっ、あのエセ関西弁めっ!」
「エセちゃうわ!」
小瑠璃は悪態をつきながら、懐から数枚の呪符を取り出す。
「急急如律令――!」
呪符に魔力を通しながら起動の呪文を結んで宙に投げ捨てると、それらは発光しながら形態を変えて五羽の鳥の姿を為した。小瑠璃が事前に作成して常備している式神である。しかし、いずれも鳩ほどの大きさしかなく、目の前の大蛇に対抗できるような代物ではない。
だが、真赭の言うことを信じるのであれば祓う必要はない。今はただ、あの大蛇の注意を小瑠璃に誘導して時間を稼げば良い。
「いけっ!」
二本指を揃えて立てて勢いよく大蛇を指す。それが突撃の合図だと言わんばかりに、小瑠璃の周囲を舞う五羽の鳥が滑空した。
一羽は大蛇の尾先で叩き落とされてしまう。他はその爪と嘴で大蛇に一撃を加えられたが、あまりにも体格差がありすぎるため、ダメージを与えられた様子はない。夜刀神にとっては蚊に刺されたようなものに過ぎないが、それが神経を逆撫でたのか、大蛇が鳴動する。水面が強く波打ち、腹が地面を擦る震動が小瑠璃の脚に伝わってくる。シャー、という蛇特有の威嚇音ではなく、地鳴りのような低い音が辺りに響きわたる。
「うるさっ……!」
あまりの爆音に、小瑠璃は思わず両手で耳を塞ぐ。視線を真赭に向けると、彼はその音にも動じることなく、地面に置かれたあの小さな朱い匣の前であぐらを組み、何かの儀式を行っているようだった。この状況下であれだけの集中力を発揮出来るのは流石と言うべきか。
(あと三十秒――!)
式神に思念を飛ばして指示を出すが、あるものは尾に払われ、またあるものはその口に呑み込まれて機能を失い、ただの紙屑になってゆく。夜刀神にとっては羽虫を払う程度のことに過ぎない。
最後の一羽がはたき落とされ、人ひとり分ほどはゆうにあろう大蛇の頭が小瑠璃へ向けられる。鬱陶しい動きをしていた羽虫たちを使役していたのが小瑠璃であることを察しているのだろう。その縦に割れた瞳孔からは、苛立ちと怒りが窺える。元は蛇とはいえ、神格ともなればそれなりの知性を備えているものだ。眼前の大蛇はそこまでではないようだが、信仰を集めているようなものならば人との意思疎通も可能な個体さえ存在する。
夜刀神が小瑠璃を標的と見定め、動き始める。水中を這い、不敬を働いた人間をひと呑みにしてしまおうと言わんばかりに鎌首をもたげている。
「あと、少し……」
小瑠璃は、目の前に迫り来る巨大な蛇を気にも留めず、軽く目を瞑りひとつ大きく深呼吸をした。
「四方清浄、中央清浄、天地穢れなし。天一よ、土気を強め賜え――」
蛇神は大抵の場合、水神として扱われる。夜刀神も元来湿地帯に生息していた神であり、現にこうして湖に潜んでいた。陰陽道で用いられる五行思想では、水に打ち克つのは土の性質。小瑠璃はありったけの魔力を込めて、土の術を目の前の蛇神にぶつけるつもりでいた。
「――急急如律令!」
目を見開き、結びの呪文を叫ぶ。
今にも小瑠璃に向かって喰らいつかんとする夜刀神の顎を打ち抜くように、地面から巨大な土柱が突き出す。その衝撃を堪えることが出来ず、大蛇は仰向けになって湖面に倒れ込んだ。水しぶきが雨のように周囲に降り注ぐが、そんなことを気にしている余裕は小瑠璃にはなかった。この一撃が決定打になってくれれば僥倖だが、神格に対して小瑠璃程度の術者の全力では大したダメージにはなっていないだろう。
大技を放って乱れた魔力を整える暇もなく、夜刀神が体勢を立て直して再び小瑠璃へと向かってくる。どうやら完全に逆鱗に触れてしまったらしい。
死が、そこまで迫っている。
「待たせたな、ルリちゃん」
「雨師さん……」
小瑠璃の傍らに立った真赭の手のひらには、小匣が置かれており、先ほどまで閉じられていた蓋が開かれている。彼は小瑠璃より一歩前へ踏み出し、小匣を載せた手を夜刀神へと差し出した。
「さあ、入れや」
呪文でも何でもないそのひと言が契機だった。
朱の匣の内部に巨大な引力が発生したかのように、起き上がろうとする夜刀神の身体が引きずり込まれていく。大きさなど関係ない。その小さいはずの匣の口の向こうに無限の空間があるが如く、尾から入った大蛇の身体は、支えることなくするすると吸い込まれる。
やがて夜刀神の頭が真赭の眼前まで来た。大蛇は、その瞬間を待ち侘びていたと言わんばかりに大きく口を開け、封印を施す真赭を噛み殺そうとする。
しかし、
「あほか」
彼が手に少し力を込めたかと思うと、小匣の引力がひと際強くなった。夜刀神が剥き出しにした牙が一矢報いることはなく、最後の反撃の機会は失われた。その姿が完全に匣の中に消えてなくなったところで、真赭は蓋を閉じる。後に残されたのは小瑠璃と真赭のふたり、湖に立つ波紋、そして手のひらの上に載せられた朱塗りの小さな立方体。そこに大蛇がいたのが嘘のように、周囲はもとの静けさを取り戻していた。
「ルリちゃん、お疲れさん」
小瑠璃の方を向いてにかっと笑う真赭。小瑠璃は、目の前で起きた一連の出来事を飲み込めずにいた。
「雨師さん、貴方は一体何者なんですか……?」
高位ではなかったとしても、神格をこんなにも簡単に封印してしまったことが、小瑠璃には信じられなかった。
今まで何度か真赭と仕事をしてきたが、今までも確かに彼は、怪異を朱塗りの箱に封印するという手法をとっていた。しかし、それはあくまで一般的な怪異に対するものでしかない。しかも、これまで小瑠璃が目にしていた封印は比較的小規模な怪異――せいぜい人の大きさ程度のものばかりだった。神の封印ともなればもっと大掛かりな準備と儀式が必要で、それを他の怪異と変わらない片手に収まる大きさの匣に封じ込めてしまう雨師真赭という術師の得体の知れなさに、小瑠璃は恐怖すら感じた。
「何者って、大げさやなあ。僕はただの封印師やって」
そう言って差し出された匣を、小瑠璃は呆然と受け取るしかなかった。
***
「室長、この間の報告書です」
そう言って、小瑠璃はダブルクリップで留めたA4の紙束を、怪異封印対策室長である信楽榮助のデスクに置いた。
「おう、お疲れさん」
信楽はパソコンのモニターに向けていた顔を上げて、オフィスチェアの背もたれに寄りかかりながら、小瑠璃に労いの言葉を投げかける。五十半ばの筈だが、体格が良くエネルギッシュな雰囲気で実年齢よりもかなり若く見える。
「何か大変だったみたいだな。化け鯰と思ってたら蛇神だったって?」
信楽は公務員らしからぬ顎ひげをさすりながら、冗談めかして言う。
「ええ、流石に死ぬかと思いました。手当付けてくださいよ」
「考えとく」
信楽の返答からはあまり期待が出来なさそうで、小瑠璃は内心肩を落とす。陰陽庁の予算は潤沢ではないのだ。そもそも、怪異に対峙するということがそれなりに危険なため、他の省庁に比べて給料は良い方ではあるのだが。
あの後、夜刀神を封印した匣はそのまま研究部門へと引き渡された。
東京に戻ってきてから調べたところによると、あの祠らしきものが人と夜刀神の領域を区分するための楔の役割をしていたらしい。夜刀神伝説では、標の梲という人と神の境界を区切る標識を打ち込むことで夜刀神たちの祟りを防いでいたとされている。恐らく、あの岩の下にその標識が存在していたのだろう。ちょうど水難事故が起き始める少し前に、大きめの地震が関東地方であった。それがあの祠が崩れる切っ掛けになり、夜刀神による被害を引き起こしたという訳だ。
そもそも加賀湖という地名も、よくよく考えれば蛇の棲まう土地であることを示していた。蛇はかつてはカカ、あるいはカガと呼ばれており、それが由来となっていたのだろう。祠があったということは、昔は――それが何百年前か正確なところは分からないが――きちんと祀られていたと考えられる。口承による伝説が途絶えてしまい、その痕跡のみが残された典型的な例である。しかしこれは後になって調べて分かったことで、人手不足の陰陽庁では事前調査でここまで明らかにすることは難しかった。
予期せず神格に遭遇して小瑠璃が怪我もなく帰って来られたのは、間違いなく真赭のお陰であった。
「……室長、雨師さんって、一体何者なんですか」
ふと、あの日から気になっていたことを信楽に向かって呟く。
信楽はきょとんとしたように眉尻を下げた。
「どうしたんだ、急に」
「いや、この一件でちょっと気になっちゃって」
「なに、そういう感じ?」
「断じて違います」
ニヤニヤする信楽の男子高校生みたいな台詞を一蹴して、小瑠璃は言葉を続ける。
「神格をあんなあっさりと封印するなんて、普通の術師じゃないですよね」
格が低いとはいえ、神の類いであることに違いはない。それを、そこらの怪異と同じように一分足らずで封印してしまうというのは、現実に目の当たりにしてもなお信じ難かった。
「あいつの実家、神社なんだよ」
「……はあ」
それは何となく小瑠璃も分かっている。そもそも普段仕事着にしているのが神主を彷彿とさせる狩衣なのだから、神道に縁がなかったとしたら本当にただの変な人である。
「その神社で祀ってた神様が暴走して悪神化したんだよな。んで、それを封印したのが当時中学生だったあいつ」
「中学生!?」
小瑠璃は思わず大きな声を上げた。室内で書類作成をしていた同僚の視線が突き刺さり、肩をすくめながら小さく手を合わせて謝罪する。
「中学生で神を封印したってことですか」
信楽は頷く。
「天賦の才ってやつだな。封印術の素養があった訳でもないのに、あいつは自分なりの手法で狂った神様を封印してのけた。そして祀るもののいなくなった神社を捨てて、雨師は東京に出てきたって訳だ」
「だからあんなに簡単に夜刀神を……」
ただでさえ専門的な技術が必要になる封印を、それも初めて行った相手が神格ともなればその才能は計り知れない。封印という一点に関して言えば、安倍晴明や蘆屋道満のような伝説級の陰陽師にも匹敵するのではないだろうか。あんなちゃらんぽらんが彼らに比肩するとは、とても思いたくはないが。
「ま、悪い奴じゃないんだ。うまく付き合ってやってくれ」
「はあ……」
どうせ当面は一緒に仕事をしなくてはならない相棒である。
けらけら笑う真赭の顔を思い浮かべながら、小瑠璃は渋々頷きを返した。
つづく
そのうち続き書いたり、この話も書き直します。