水底にひそむもの 一
鎧沢小瑠璃はコンビニ前に設置された灰皿の傍らで煙草の煙を燻らせていた。
腕のスマートウォッチに視線を向けると、時刻は午前十時二十一分。
住宅街の中にあるコンビニのため、平日昼間とあっては人の出入りもそう多くない。小瑠璃が吸い始めた頃には既にそうだったが、昨今は煙草を吸う人はめっきり減って、路上喫煙所で煙を吐いていても通りすがりの人に見咎められることもあるほどだ。
切れ長の目、すっと通った鼻筋、平均よりはひと回り以上高い身長に加えて顔は小さく、着ている服さえ飾り気のないスーツでなければ、小瑠璃はモデルと間違われてもおかしくない美人だ。遊びのない白のブラウスにネイビーのパンツスーツ、歩きやすさを意識してヒールが低めのパンプスという出で立ちは、端から見れば営業職が煙草休憩をしているように映るだろう。
小瑠璃が苛立ちを隠す様子もなく腕組みをしているのは、既に二十分以上待ちぼうけを食わされているからだ。
待ち合わせをしているのは仕事相手。既に何度か一緒に仕事をしているが、時間通り来たためしがない。
まもなく煙草を吸い終わるというところで、駐車場の向こうに和装の男の姿が見えた。小瑠璃はため息を吐き、煙草を乱暴に灰皿に押しつけて火を消し、張られた水の中に放り込む。
近づいてきた男を、小瑠璃はキッと睨み付ける。
「遅いっ!」
しかし、男は小瑠璃の怒号に微塵も堪えた様子を見せず、ひらひらと手を振ってみせた。
「やー、すまんすまん。ちょいと腹の具合が悪くてな」
「絶対嘘でしょ。雨師さんがまともに約束の時間に間に合ったことないじゃないですか」
「いやいや、そんなこと無いて。初めて会った時はちゃんと時間通りやったやろ?」
男――雨師真赭は心外だ、という風に目を見開いて関西弁で反論をした。
「その一回限りですし、何ならあの時ですら二分遅れてましたからね」
「四捨五入したら間に合ってるやんか」
「屁理屈です。ていうか、普段からその格好するの止めて下さいって言いましたよね……」
「ええやんか、君と違って自営業なんやから」
「めちゃくちゃ人目につくんですよ!」
けらけらと笑いながら言う真赭の出で立ちは、よく見れば一般的な和服ではない。濃い色のジーンズを履いており、上半身には濃い灰色の和服――神社の神主などが着ているいわゆる狩衣――を羽織っている。隙間からちらちら見える派手な色は、中に柄シャツを着ているからだろう。
実際、真赭がそういう格好をしているのには理由があることを小瑠璃も承知しているが、それはそれとして仕事中に変な男と歩いていて通報などされてはたまったものではない。
「あんま人の目気にすんの良くないで、ルリちゃん」
「〜〜〜っ! もういいです、さっさと車に乗ってください!」
「はいはい」
乗ってきた公用車を小瑠璃が指差すと、真赭は素直に従い助手席へと乗り込んだ。小瑠璃もそれに続いて、運転席へ座る。
シートベルトを締め、エンジンをかけてコンビニの駐車場を出る。
公用車――要するに、小瑠璃は国家公務員なのだ。
彼女が所属しているのは陰陽庁。明治に入るまで存在していた陰陽道を司る機関である陰陽寮の、事実上の後継機関にあたる。庁、とついている通り官公庁のひとつではあるものの、その存在は公にされていない。
後継とはいっても、陰陽寮時代におこなわれていた暦の編纂や天文学は陰陽庁の業務にはなく、国内で発生する怪異事件の対処や秘匿が主な業務として挙げられる。小瑠璃は国家機関所属の陰陽師として、それらの業務に当たっているのだ。
かつては陰陽寮に所属していた陰陽師が、日本全国の怪異事件を解決していた。しかし、その時代に比べて現代に生きる陰陽師や呪術師は多くない。怪異事件の発生件数も以前に比べて減少してはいるが、それ以上に継承者が減っており、陰陽庁は万年人手不足で猫の手も借りたいというのが現状である。
そこで、戦後あたりから導入されたのが、在野の陰陽師・呪術師・魔術師といった異能者への外部委託であり、真赭はその外部委託先の呪術師という訳だ。
小瑠璃が所属しているのは、調査第一部怪異封印対策室――通称・封対という組織で、怪異を滅するのではなくその名の通り封印するという、陰陽庁の中でもやや特殊な業務を専門としている。
とはいえ、小瑠璃自身が封印術を得意としている訳ではない。そもそも封印術自体が、高いレベルで扱おうとすると専門的にならざるをえないためだ。
そこで、先の外部委託の話が出てくる。専門性を内部で確保できないのであれば、外部から取り入れれば良いという方針のもと、封対では所属の調査官一名と外部委託の封印師一名をペアとして業務に当たっている。小瑠璃の相方が真赭という訳だ。
真赭が珍妙な出で立ちをしているのも、そういう仕事をしている為である。
小瑠璃は服装によって調子が左右されるタイプではないが、術師の中には特定の服装でなくてはいけないという人もいる。些細なことがパフォーマンスに影響するというのはスポーツ選手などでもよく聞く話で、小瑠璃はある程度理解はしているものの、せめて街中では普通の服装をして欲しいと常々思っている。
「それで、今回の仕事は何やっけ?」
車を出発させてから少しして、助手席に座る真赭が尋ねてくる。
「メールで資料送りましたよ」
「あかんあかん、そんなん見てる訳ないやんか。それに、ルリちゃんから聞いた方が分かりやすいしな」
「せめて事前に概要くらいは目を通してくださいよ」
しかし、読んできていないものは仕方がない。小瑠璃は渋々、運転の片手間に今回の仕事の詳細を話し始めた。
小瑠璃たちが向かっているのはI県にある、加賀湖という湖だ。
山奥に位置していてアクセスは悪いものの、フナやコイ、冬にはワカサギなども釣れるようで、湖畔には野営のできるスポットもあり釣りの穴場として界隈では知られているらしい。
この湖で、ここ半年の間に四件の水難事故が発生した。それも、四件全てが死亡事故だった。いずれも目撃者がいないため正確なことは分からないが、足を滑らせて水に落ち、運悪く深みにはまってパニックになったのではないかという推測が、警察ではなされているようだ。
釣りスポットとして密かに人気があり訪れる人も少なくないとはいえ、周長五キロ程度の小さな湖でこれだけ立て続けに死亡事故が起こることは明らかに異常である。記録が残っている水難事故のうち、死亡事故となれば直近でも三十年前であり、怪異の仕業である可能性が高い。
現在、湖は釣りや遊泳は禁止されている。そもそも、死亡事故が立て続けにあったせいで気味悪がって人があまり近寄らないようになっているらしい。
ちなみに、これらの情報は全て警察から回ってきたものだ。
こういう、ただの事故や事件ではない可能性のあるケースは陰陽庁に仕事が回ってくる仕組みになっている。
「ははあ、それは怪異やろなあ」
一通り小瑠璃の説明を聞いた真赭は、腕を組みながらうんうんと頷く。
「今回は、というか今回もですが、事故を起こした怪異を封印して持ち帰ることが目的です」
「ちなみに、その怪異が何なのかは分かってるんか?」
「陰陽庁にあったデータでは、江戸の終わり頃、加賀湖には巨大な鯰が棲んでいたという噂があり、地元で人喰い鯰として恐れられていたそうです」
人手不足の陰陽庁では、案件に関連するデータの検索も調査官自身がしなくてはならないことが多い。今回も例に漏れず、警察から提供された情報を元に小瑠璃が独自に調べた情報である。
「その鯰が怪異で、今回の事件を起こしたと?」
「現時点ではそうじゃないかと。でも、当時少し噂になったくらいで、未だに伝承が残っている訳でもないみたいですね」
「口承が途絶えるっていうのはよくある話やな。まあ、人喰い鯰の伝承なんか別に残ってても大して変わらんやろけど」
「そんなこと言ってると喰われますよ、鯰に」
小瑠璃は小さくため息をついた。
途中のサービスエリアでの昼食時間も含めて高速に乗って二時間、それから山道を一時間ほど走り、ようやく二人は目的地である加賀湖に辿り着いた。
車道から少し歩かなくてはならないこともあり、周囲には生い茂った広葉樹ばかりで他には何も無い。車で十分ほどのところに小さな集落はあったが、そんな場所から生活音が聞こえてくるはずもなく、辺りはひっそりと静まりかえっている。
自治体がごく最近設置したと思われる真新しい釣り禁止の看板が、周囲の風景からは随分と浮いている。
足場はあまり良くはなく、道中未舗装路を歩いたこともあり、低めとはいえヒールのある靴で来たことを小瑠璃は少し後悔していた。ちゃっかりスニーカーを履いている真赭は、悪路を気にも留めていないようだったが。
「どや、何かおりそうか?」
「気配はしますね」
真赭の質問に小瑠璃は頷きを返す。
霊感があるとひと言でいっても人によってその系統は様々だ。視覚――いわゆる見鬼が優れた者もいれば、耳鳴りや臭いで魔の存在を察知する者もいる。
小瑠璃は見鬼に加えて五感のみに限らない、いわゆる第六感による霊感も備えており、敏感に怪異の存在を感じ取ることが出来る。見える訳でも触れる訳でも嗅げる訳でもなく、そこにいる気がする、ただそれだけなのにも関わらず小瑠璃のそれは当たる。これは術師の中でもかなり鋭敏な類だ。
「ルリちゃんがそう言うってことは、やっぱ鯰はおるんやなぁ」
苦虫を噛み潰したような顔をする真赭に、小瑠璃は怪訝な視線を向けた。
「何でそんな嫌そうなんですか」
「あれ、言ってなかったっけ。僕、魚苦手やねん。内陸県出身やし」
真赭は奈良県の出だと上司が言っていたことを、小瑠璃は思い出した。それから、彼の発した台詞の違和感に気付く。
「鯰に海関係ないでしょ」
「冗談冗談。でも苦手なのはほんまやで。刺身は食えるけど、捌く前のはあんま好きちゃうんよ」
「そう言わず仕事してください。封印しないといけないんですから」
ため息をついて、小瑠璃は湖の畔に近づいていく。
封対の仕事は怪異を封印することであり、祓ってはならない。祓うだけならば小瑠璃でもできるし内心そうした方が楽だろうと思ってはいるが、封対に転がり込んでくる案件には何かしら祓ってはならない理由があるのだ。
そもそも消滅させることが困難な怪異であったり、祓ってしまうと何かしら悪影響を及ぼす可能性がある場合であったり、陰陽庁内の研究機関に引き渡すために封印を指定されている――今回はこれに該当する――場合であったりと、その理由は様々だ。
封印は普通に祓うよりも手間が掛かるため、やりたくないのが正直なところ。しかし、片田舎の陰陽師家系だった小瑠璃はそれで飯を食わせて貰っているのだから、文句は言えない。
湖畔に立つと、ほんの少し怪異の気配は強くなった。水中に何かしらが居るのは間違いないだろう。二、三センチくらいの小魚が数匹泳いでいるのがわかる。緩やかに水深が深くなっていき、透明度もそう高くないこの水質では、岸から五メートル先に視線をやれば湖底はまったく見えない。
「さて、どうやって誘い出してやろうかな」
「やっぱ釣りちゃうか」
小瑠璃の隣に立った真赭が言う。
実際、釣り人が連続して溺死しているのだから、多少の危険はあるが怪異をおびき出すには有用かもしれない。しかし、それを実行するにはひとつ問題がある。
「釣り竿がないですよ」
それなりに釣りで知られた湖とはいえ、近くにあるのは民家が五軒ほどの集落のみで、そこには当然釣具屋などない。今から釣り道具を準備するのであれば街まで戻らなくてはならず、それなりに時間が掛かる。
「糸だけでもあったらナンボでもやりようあるんやけどな……」
最悪ロープでも、と言う真赭に、小瑠璃は首を横に振った。残念ながら、それらしいものは車に積んできていない。
「しょうがないですね、力技でいきますか」
「意外と脳筋よな、ルリちゃん」
「うるさいです」
軽口を叩き終え、小瑠璃は湖面から視線を上げて周囲を見渡す。
「取り敢えず周囲の状況を調べますか。報告書に書く必要ありますし」
「そやなぁ」
真赭が頷くのを確認して、小瑠璃は湖を左回りに回るような向きで歩き始めた。真赭もその少し後ろに続く。
湖の畔は、ここに来るまでの道中よりも更に歩き辛い。なるべく地面の固そうなところを選んで足を踏み出してはいるものの、どうしてもペースは落ちてしまう。
十五分ほど歩いていると、森の中に何か大きな物があるのが目に入った。
「何でしょうね、あれ」
「行ってみよか」
湖のそばを離れ木々の間に踏み入っていく真赭を追うように、小瑠璃も枝を避けながら進む。
目に留まったのは、積み重なった岩だった。周囲に岩場などはなく、人の手によってここまで運び込まれたのではないかと思われた。
「なんやこれ、祠の跡?」
「みたいですね。でも、石造りだし随分と古い」
辛うじて人工物と分かるそれは、苔むした岩を積んで作られた腰丈ほどの空間が、何かの拍子でひしゃげたように崩れた跡らしかった。本来あったであろう洞の部分には、朽ちた木の残骸が挟まっていた。
「何かが封印でもされてたんやろか」
「今回の怪異に関係ありそうですね」
最もあり得るのは、封印されていた怪異が祠の崩壊により解き放たれて、それが今回の事件を引き起こしているということだ。
小瑠璃はスマホを取り出して祠らしきものの写真を数枚撮り、真赭と共にもと来た道を引き返す。
「違和感あるんよなぁ」
湖畔に戻った時、真赭が小さく呟いた。
「何がですか?」
「本当に人喰い鯰が二百年前からいたんなら、定期的に被害があってもおかしくないやろ」
「ええ」
小瑠璃は首肯する。
「でも、あんな大仰に封印するほどのもんでもない。なら、あの祠は一体何なんやろうな」
「陰陽庁のデータベースには記録はなかったですね。まあ、あれも結構穴がありますから仕方ないですが」
「しっかりして欲しいわ」
「ほんとですよ」
真赭の言葉に同調し、小瑠璃は小さく嘆息した。
「それで、要するに雨師さんが言いたいのは、今回の水難事故は人喰い鯰ではない別の何かが引き起こしている、ってことですか」
「おう、そういうこと」
真赭は大きく頷いた。
「十分にあり得ると思います。まあ、いずれにせよ私たちがやるべきは事件を起こしている怪異の封印ですから、相手が何であれやることは同じです」
「ルリちゃんの言う通りや。ま、僕は言われた通りにこいつに封じ込めるのが仕事やし、後のことはルリちゃんに任せるわ」
そう言って、真赭は懐から朱色に塗られた木製の小匣を取り出した。手のひらに収まるサイズのそれが、彼が怪異の封印に使う唯一の道具であり、封印の依代とでも言うべき代物だ。真赭はこの小さな匣の中に怪異を閉じ込めるという簡素な封印術を専門としている。小瑠璃は彼と数度仕事をする中で封印の瞬間を目撃してきたが、いずれも弱い怪異ではあるものの、あっという間に匣の中に閉じ込めてしまうのだ。
そろそろ湖の周回に戻ろうと視線を湖に移し、小瑠璃は違和感に気付いた。
「あの、雨師さん」
「なんや?」
「……湖の方、見てください」
湖中央付近の水面の下。そこには、明らかに何かがいた。
青みがかった緑色をしていた湖面がその一帯だけ黒く染まっている。
小瑠璃の霊感によるそこにいるという感覚は確かにずっとあったが、まさか向こうから姿を見せてくれるとは思ってもみなかった。
「ルリちゃん、あれこっちに近づいてきてへんか?」
影を指差しながら真赭が言う。確かに、泳いできているのか黒い影と湖岸との距離がどんどん縮んでいる。
「……ですね。でも、手間が省けましたよ」
本来ならばこちらが何らかの手段でおびき出さねばならなかったのだから、向こうからやって来てくれるのは願ったり叶ったりだ。
水しぶきを上げ、影の正体が水上へ姿を現した。