マヨイガ〜定義するもの〜
なぜまたここにきてしまったのだろうか。たった一度、ほんの少しの時間話しただけの見ず知らずの男の言うことを素直に聞いて、俺はまたあの何の接点もない田舎にきてしまった。一年後の十月にこいと言われて、律儀にそれを守って。自分でもなぜそうしようと思ったのかわからない。ただ、彼と離れてからも彼のことが気になって、なぜそんなことを言ったのかだとか、なぜここなのかだとか、色々と推測しているうちにあっという間に一年が経った。その間、この土地に関わることを図書館で調べた。何の変哲もない、一般的な田舎だ。人の出入りが少ないのはここが閉ざされているからだろうか。
山の中とまではいかないが、大きな街に出るのには少し手間がかかる。今は車や電車があるからいいが、それがなかったらわざわざこんな何もないところにくる人はいないだろう。いいや、車や電車があったとしても、何もなさすぎて誰も寄りつかない。ただいくつかの家があって、林や神社があって、田んぼがある。東京の人間が漫画やゲームで描写するような典型的な田舎だ。排他的なのか、妙に居心地が悪い空気が流れていて、それがより一層よそ者をよりつかせなかった。
「有給を取ってきたものの、さて、どこに行けと言われていたのやら」
男はここにこいとは言ったが、具体的にどこかは教えてくれなかった。この町にこいということだろうが、それはいったいいつ、どのポイントに行けばいいのかの説明はなかった。今日はあまりにも長く、この町はあまりにも広かった。そりゃあ都会に比べれば狭い町さ。でも集合場所としては範囲が広すぎる。
「とりあえず時間を潰そうにも、丁度いい場所がありゃしない」
田舎に洒落たカフェや喫茶店はない。あるのは一般人の家と、いつ開いているのかわからない個人商店だけ。俺の年齢だともうタバコ屋なんて見たこともない。ここにはそれがある。いったいいつから時が止まっているのだろうか。
とりあえず舗装された道を進む。この町全体の地図が頭に入っている訳ではないので行き当たりばったりだ。行き止まりがあれば引き返せばいいだけだろう。俺は方角もわからなくなる程方向音痴ではない。
田舎の道は法則性がない。先に家を作り、その間を道にしたからだろう。区画整理がされていれば直線の道が多くなるが、ここは曲がりくねっていた。方向音痴ならかなり苦戦させられるだろう。どこも曲がらずにいたはずなのに道が湾曲していていつの間にか元の道に戻っていたりするのだ。
とりあえず全ての道を通ってやろうと、全ての角を曲がっては戻った。すると丁度昼飯時に開いているのか疑わしい小料理屋を見つけた。こういった店には行ったことがないが、大抵夜に開いている印象がある。
「常々思うが、こういう場所にある店はどうやって儲かっているんだ?」
たまにテレビでみかけるが、辺境の地や住宅街にある店は本当に儲かっているのか。まあ、儲かりたくてやっている訳ではないことぐらいは流石にわかるが。本当に金が欲しくてやっているならもっと人が集まる場所でやればいい話だ。金に困っていないやつらが地元住民との交流のために開いているのだろう。そういう場所は俺のようなよそ者が入れる場所ではない。
しかし今はそんなことも言っていられない。とりあえず開いているならば入って時間を潰すなり、この町のことをきくなりしよう。このままだとせっかくの有給が無駄になってしまう。
「ごめんください。ここは今開いていますかね」
変な言葉だ。開いていないなら今入っていないだろう。しかしこう言うしかなかった。こういう田舎の店は開いていなくても入り口を開けっぱなしにしていることがある。
「開いていますよオ。お客さん、初めての方ですねェ」
「え? ああ、そうだが。こんなところに店があったとは。つい入ってしまったよ」
小さな、狭い小料理屋。古い刑事ドラマでよく酒を飲みに行くようなそんな場所だ。細長い店内は完全にカウンター席だけで構成されており、カウンターが客と女将を分けている。客は座れてせいぜい五人ぐらいか。それにしてもあまりに狭い。客をとる気があるのか謎だ。まあ、地元住民との交流がメインならそれでもかまわないのだろうが。
「そうでしょう? 全く、いつも私がお店をもっとよくしようって言ってもあのヒトったら気にも留めないで。そんなだからここはいつまで経ってもこんな小さいままなんですヨ」
あの人とは一体誰なんだ。気になりはするが、俺が口を挟むことではなさそうだ。大人しく席につき、メニューを探す。しかしメニュー表はおろか、壁に何か書いてあることさえない。女将の気まぐれで決まるのだろうか。
「あの、メニューは」
「そんな立派なモンはありませんよオ。ウチはいつでもお客さんの顔を見て出す料理を決めるんです」
そんな店があるのか。詳しくは知らないが、そんなこともあるのだろう。しかし、どう見てもこの店に厨房があるようには見えない。一体どこから料理を出すのだろうか。出来合いか? それにしたって冷蔵庫ぐらいはあってもいいだろう。
「あの……料理はどこから」
そこまで言ったところで急に目の前に料理が出された。だし巻きだ。まあ、それくらいなら作り置きもできなくはないだろうし、常温でもいいだろう。
「どうぞ、めしあがれ」
「あの、お代はいくらかわかりますか?」
いくらなんでもただではないだろう。料金が一切書いていないから不安になる。
「お代なんていいんですヨ。こうして会ったのも何かの縁ですし、だし巻き一個ぐらい頂いちゃってくださいな」
そういうものなのだろうか。この人が特別なだけで他は違うだろうが、こんな調子でやっていけるのか。
だし巻きに箸をつけると、ふと隣の席に気配があった。最初は奥の部屋から人がきたのかと気にも留めていなかったが、よく考えると隣の部屋などない。ここは驚く程狭く、俺を押しのけない限り人が入ることはできない。ぞっとして気配の方を向くと、例の男がいた。
「よう、ちゃんときてくれたようで嬉しいよ」
「嬉しいと思うならもっと嬉しそうな顔で出迎えてくれよ」
男は相変わらず現実味のない顔をしていた。一体どこから現れたのか、俺より奥に座っている。
「一体どういうことだ。日付だけ指定して場所も時間も教えてくれないなんて。本当にきて欲しいと思っていたのか?」
「ああ、すっかり忘れていたよ。どうせたどり着くだろうと気にも留めなかった」
どうせたどり着く? まあ、こんな何もないところをうろうろするやつはいないからここに立ち寄るのは目に見えていたということか。
「それで、どういった用があって俺をここに呼んだんだ。わざわざこんな辺鄙な場所に呼んだんだからよっぽどたいした理由があるんだろうな」
確か去年、会社の女性がひとり、行方不明になった。実際は別人にすり替わっていたと言った方がいいか。それが気になった俺ははるばるここまで探しにきた。それで彼に会い、彼女の説明を受けた。彼が怪異であり、彼女が異世界へ行ったというにわかには信じられないことを聞いた。信じるかどうかはさておき、俺はこうしてまたここへきてしまった。彼が指定した日付に、この町へ。なぜそうしようと思ったのか、俺にもわからない。そうさせる何かが彼にはあった。
「彰人サン、まァた誑かしているの?」
「嫌だなあ、誑かすなんて。こんなおじさんを誑かしてもちっとも楽しくないよ」
失敬なやつだ。確かに俺は若い女性ではないが、呼んだのはお前じゃないか。
「彼が、次のヒトなのね」
女将さんが暗い声でこちらを見る。一体何だと言うんだ。
「そうだよ。彼の腕がいいんだ」
何の話をしているのか、俺抜きで会話が進んでいく。
「そう、それで全部揃うのね」
「後は本物を見つけるだけさ」
一体何の話なのか教えてくれたっていいだろう。わざわざ俺の前でする話なのか?
「い、一体何の話なんだ? 俺に言わずに済む話なのか?」
「まあ、次の料理でも食べて落ち着いて。お代は全部僕が持つからさ」
わかりやすく話を誤魔化された。俺が聞いてはいけない話ならここでしなければいいのに。
「せめてなぜ俺がここに呼ばれたかぐらい教えてくれたっていいだろう」
「夜、ここからそう遠くない森に洋館が現れる。お前はただ黙ってそこに行って、マッサージを受けてくればいい」
訳がわからない。洋館が現れる? マッサージ? 一体どんなつながりがあると言うんだ。
「ハア? 一体どういうことだ?」
「それ以上でもそれ以下でもないさ。本当に森に洋館が現れて、そこでマッサージをしてもらえるんだ。時刻は深夜ならいつでもいい」
よく知らない田舎の森に真夜中に入るなんて、大人の男でもわざわざやらないだろう。それをこいつはやれと言う。そのタイミングである必要があったか。
「無理にとは言わない。ただ、断ればもっと酷い目に遭うということだけは教えといてやる」
「お、脅しじゃないか」
「脅しだよ。僕にはお前に構っている暇なんてないからね」
人を人と思っていないのかこいつは。それとも、年上にきつく当たりたい年頃か。そういえばこの男の年齢を知らないな。どうせ二十かそこらだろう。レコードどころかカセットテープさえ知らないだろう。
「お客さん、彰人サンの言うことは素直に聞いといた方が身のためですヨ。このヒトったら、一度こうと決めたらてこでも動かないんですもの。それに、本当に大変なことになりますから」
女将さんが怯えた様子で言った。この美丈夫は女いじめが好きらしい。
「大丈夫さ、こんなガキンチョに簡単にやられるようなタマじゃないんでね。俺の心配ならしなくていい」
それでも女将さんの不安そうな顔は晴れない。弱いものいじめで自分を過信している若造にはお灸を据えてあげなきゃいけないな。
「……何を勘違いしてるか知らないが、僕も面倒なことは避けたいから、大人しく言うことを聞いて欲しい。それとも、痛いのが好きなタイプなのか?」
「やっぱり、そういう歪んだ嗜好の持ち主だったのか。駄目だぞ、人をいじめても自分の立場がよくなる訳じゃないんだ」
男と女将はふたりして顔を合わせて呆れたようにため息をついた。
「こりゃ重傷だな。まあいいや、せっかくだし、実際に体験してもらおう」
そう言って男はふっといなくなった。信じてもらえないかもしれないが、本当に煙のように消えたんだ。
「な、い、一体何だったんだ?」
「ハア、お客さん、だから言ったじゃないですか。あの人はね、他人に怒るようなヒトじゃあないけれど、わざわざ面倒なことはしないんですヨ。だからネ、貴方は残念だけど、もう見放されちゃったのヨ。ご愁傷様」
「あ、あんな小僧に見放されたぐらいで……」
「小僧なモンですか! あの人は大正生まれなのよ。貴方よりもうーんと年寄り」
そんな馬鹿な! どう見たって俺より若かっただろう。どう見繕っても三十までしかいかないだろう。
「そんなわかりきった嘘は言わない方が」
「嘘なモンですか。さっきあのヒトが消えたところを見たでしょう? あのヒトはネェ、死んじゃってもう長いんですよ。おばけよ、おばけ!」
そんなまさか。嘘だろう。そんな存在がいる訳がない。きっとさっきのも何かのイリュージョンで……。
「マアいいでしょう。夜になればわかること」
そう言って女将さんはさっさと俺を追い出してしまった。慌てて振り返ると、そこにはただの藪しかなく、小料理屋なんてものは建物からなかった。
*********
それからあっという間に夜になり、さて宿はどうするかということになった。このまま大人しく帰ってもいいが、昼のことが気がかりだった。
一体夜に何があるというのか。全く気にならないと言えば嘘になる。だからといって、わざわざ田舎の住宅街で野宿する程でもなかった。
行く当てのない俺は気付いたらまたあの小料理屋にきていた。そこには昼のことが悪い夢だったかのように煌々と明かりを照らす店があった。なんだ、藪なんてなかったじゃないか。昼のあれは見間違いだったに違いない。あるいは思い違いか。そうに決まっている。じゃなきゃ店が一軒一瞬で消えたりなんてしない。
「なんだよ、ここは夜も開いていたのか」
「アラ、昼のお客さん? いらっしゃい。簡単なものでいいかしら」
「簡単も何も、ここのメニューを知らないから好きなものを出してくれ」
相変わらずどこにもメニューはない。大きさといい立地といい、本当に商売として成り立っているのだろうか。俺の想像通り、ただ地域住民と交流するためだけの場所なのだろうか。
「ホントはねェ、貴方はもうこないと思ってたの。だって不気味でしょう?」
「え? ああ、はあ、まあ、そうか。しかしここしか行く当てがなくてな」
なぜか俺の中では帰るという選択肢がすっかり消え去っていた。理由を考えようとするとどうにも答えにたどり着かない。
女将さんは今度は筑前煮を出した。確かに美味いが、白米がない。それに、どこから出したか全くわからない。
「そういえばあの人はどこに行ったんだ?」
「ああ、彰人さんのことかしら。あのヒトはね、気まぐれなの。今夜は忙しいからもうこないんじゃないかしら」
忙しいのか。まあ、何かしらの仕事はしているだろうから、それはおかしな話じゃない。昼にたまたま時間が空いてきたのだろう。昼休憩には向かない場所だが。
「仕事は夜の仕事なのか?」
「本当はね、夜は嫌いなんですって。可笑しいわよね、あのヒトおばけなのにおばけが怖いって言うのよ」
まただ。去年もそうだったが、自分がおばけだと白状するおばけなんて本当にいるのだろうか。人間を怖がらせるのが目的なのではないのか。もし実在したとして、何の目的で俺に接触しているんだ。
「それで、俺は一体何をやらされるっていうんだ」
「大丈夫ですよ。大人しくマッサージされていればいいんですから。すぐ終わりますよ」
昼から言っていたな。マッサージか。全く興味がない訳ではないが、あまり接点はない。わざわざ人に揉んでもらおうと思ったことがないというのは人によっては羨ましがられるだろうな。
「なんで俺がそれに選ばれたんだ? 他にもマッサージしてもらいたい人なんてごまんといるだろうに」
「それは貴方がいい腕をしているからですヨ。彰人サンの目的のために必要なんです」
俺はカメラを趣味にしていた。何かの大会で賞を取ったことだってある。それのことを言っているのだろうか。
「よくご存じで」
「見れば誰だってわかりますよ」
そういうものだろうか。ここは俺が住んでいるところから離れているが、それでもわかるものなのだろうか。
「アラ、いけない。もうこんな時間。ほら、早く支度して頂戴。洋館に向かうわよ」
女将さんは一体どうやって時間を知ったのか、俺に店を出るように促した。
「洋館の場所は……」
「そんなのは行けばすぐにわかるわ。ホラ、早く」
女将さんは店の外まで俺を押しやった。
「わわっ! 女将さん、急にどうしたんです?」
ぴしゃりと音がして引き戸が閉められたことがわかった。慌てて振り返るとそこにはもう小料理屋などなく、真っ暗な藪があるだけだった。
「……一体、なんだっていうんだ」
まだ頭が混乱している。さっきのは幻覚か? いや、確かに食べたはず。じゃあなんでその店はどこにもないんだ?
「――とりあえず、森へ向かうか」
夜の住宅街なんて歩いていても仕方ない。大人しく森の洋館とやらを探してみるか。
*********
その洋館とやらは案外すぐに見つかった。真っ暗な森の中、あまりに明々と光っているもんだから、見つけるなという方が無理な話だった。真っ暗な森の中ここまで明るいと逆に勇気がわいてくる。俺はその不気味な洋館にためらいなく入った。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。まずはこちらの館内着にお着替えください」
何の説明もなく、驚かれることもなく、さも当然のように館内着を渡され、更衣室に通された。このまま流されてもいいのかと館内着に袖を通しながら考える。流されるというのも言い過ぎかもしれない。一応全部体験してみてから決めればいいだろう。いつの間にか俺の考えはそういう方向にシフトして行った。
更衣室を出れば案内の人がすぐに元の服を持って行った。財布も携帯も家の鍵も全てだ。途端に不安になって案内の人を見る。案内の人は終われば返すとだけ言ってくれた。まあ、マッサージには不要なものだ。最後に返してくれるのなら別に構わないか。
「今回はお耳のマッサージと、それから耳かきのコースですね。マスターからそう聞いております」
「マスター、ですか?」
「ええ。ここのオーナーとでも言えばよろしいでしょうか……」
それから彼が説明してくれたオーナーの特徴は昼に会ったあの彼のものと一致していた。外国人のような美丈夫で、日焼けした黒髪のような焦げ茶色の髪に緑の瞳。背が低く幼い顔立ち。――そして、両腕が欠損していた。しかし、あのなりで経営者か。彼もなかなかやるようだ。辣腕だとか腕を振るうだとかと表現したいが、彼には相応しくないような気がした。まあ、偏見だろうが。
「その……オーナーは何と?」
「最後のお客様だから丁重に扱えと。これで全てが終わるのです。もう、これっきりで」
「ここは潰されてしまうのですか?」
俺が最後の客なのか。こんな辺鄙なところでやっていても儲からないから当然といえば当然だが。しかし、その理由は俺の予想とは違っていた。
「いいえ、お客様が最後ということです」
「……? よく意味が理解できませんが」
「お客様にはマスターの役に立っていただきたいのです」
そう言うと彼は奥のドアを開けた。中には施術台が一台と、道具を置くカートのようなもの、それから布をかけた棚があった。それ以外は特に何もなく、シンプルで狭い部屋だ。
「後はセラピストが担当いたします。ごゆっくりどうぞ」
そう言って案内の彼はドアを閉めた。中にはセラピストと呼ばれた女性がいた。看護師のような白い服を着ていて、髪を後ろでひっつめている。年齢はまだ二十代といったところか……。さっきの彼といい、今の女性といい、顔がわかりにくい。俺がおかしくなってしまったのか、顔を覚えていられない。
「本日担当させていただきます、槙と申します。本日はよろしくお願いします」
「あ、ああ。よろしくお願いします」
状況を理解できないまま、施術台に寝転ぶ。こういうものは諦めて大人しくした方がいい。
「ではまずは温かいおしぼりで耳の血行をよくしながら耳の外側の汚れを拭き取っていきますね」
保温庫からおしぼりが取り出され、右耳を包み込まれる。耳だけを温められたはずなのに、身体全体が包み込まれるようにほうっと温かくなる。これはリラックスできそうだ。
それから充分に温まった耳を拭き取られる。おしぼりが撫でた後、気化熱でふわっと耳が冷えた。初めて体験するが、これはなかなか気持ちいい。長く生きたつもりでいたが、世の中にはまだまだ知らないことが沢山あるのだなと思った。
「ではまず竹の耳かきで汚れを剥がしていきます」
ぞりっと聞き慣れた音がして、あの快感が耳の入り口支配した。手前に奥に、耳かき棒は自由に動く。
「綺麗な耳ですね。これならあまり時間はかからないかもしれません」
「そ、そうか? 熱心に耳掃除をしたことはないが」
耳垢というものは溜まっていくものじゃないのか。ひとりでに耳から出ていくなんてことがありえるのだろうか。
「耳掃除をしなくても耳垢というものは勝手に出て行くものです。貴方の耳は耳垢が出て行きやすい構造なのでしょう」
そうなのか。自分の耳は自分では見ることができないからわからなかった。それに、耳に個人差があるなんて考えたこともなかった。
「こういう仕事をしていると、様々な方とお会いします。私は耳かきを専門としておりますので、耳の印象がほとんどで、他に覚えているところは声ぐらいです」
最初にこの部屋に通された時もあまり長く話すことはなかったから、そういうものだろう。多分終わった後もあまり話をせずに帰してしまうのだろう。なんとなく、作業のように感じられた。なんというか、こういった店はもっと丁寧な接客をすると思っていたのだ。それなのにここの人間は全員まるで作業のように淡々と俺を案内した。詳しい説明をせず、部屋に押し込めるような。何かの生け贄にでもされている気分だった。あるいは最後に化け物に食べられるか。今のところバターや塩を塗るように指示されていないがそのうち出てくるかもしれないな。
ぞりぞりと竹の耳かきが中をこすった後、カチャリとそれを置く音がした。もう終わりなのだろうか。
「では次に粘着質の綿棒で剥がした耳垢を貼り付けて取っていきます」
ぺたりと経験のない質感のものが耳の中に張り付く。とりもちというより、湿布に近い感覚だ。もっと近いのは冷却シートか。確かに粘着質だ。ぱり、ざり、ぺり、ぞり。冷たい綿棒が壁に張り付いては剥がれていく。そのなんとも形容しがたい感覚に、俺は方を震わせた。
「しかし、なんでこの店はこんな辺鄙なところにあるんだ? 辺鄙なんてもんじゃないな、完全に森の中じゃないか。本当に商売する気があるのか?」
しばらくの沈黙の後、彼女は思いもよらない答えを出した。
「お客様は自然と引き寄せられるのです。辺鄙でも、隠されていても、必ずマスターが求めるお客様がいらっしゃいます」
「引き寄せられる? そんな馬鹿な」
馬鹿なことがあるはずがないと言いかけてそういえばここは普通の店ではなかったなと思い出した。なぜ俺は今まで忘れていたのだろうか。
突然ヒヤッとして声を上げた。槙は軽い謝罪をして、綿棒が変わったと教えてくれた。
「お知らせするのを忘れていました。すみません。綿棒を粘着質のものから洗浄液を付けたものに変更いたしました」
「そ、そういうことは事前に伝えてくれよ」
アルコールが入っているのか、気化熱でヒヤッと耳の中が冷える。寒い季節だがこの店の中はよく暖房が効いていて不快になるほどではなかった。それもあって、冷えた綿棒が心地よく感じた。最近は鈍い頭痛に悩まされていたが、耳の中を冷やすと少しはましになるということがわかった。耳掃除とはこんなにも心地よいものだったか。それとも、やはりプロは違うということだろうか。
怪しい店にきたとビクビクしていた頃が懐かしい。俺はもうすっかりリラックスしきっていた。段々睡魔に襲われていく。
「では反対の耳も施術させていただきますね」
くるりと寝返りをうって反対の耳を上に向ける。この耳も気持ちよくしてもらえるという確信があった。会ってたった数分しか経っていないこの女をすっかり信用しきっていた。
先ほどの睡魔は俺の理性を簡単に剥がす。耳かきの心地よさに任せて俺は夢の世界へ旅立った。
*********
久しぶりの感覚に慣れず、自らの手を眺めながら何度も指を曲げ伸ばした。フランケンシュタインの怪物と違い、死体の継ぎ接ぎではなく確かに自分の腕だった。
何年ぶりだろうか。この身体になって、もう随分と時間が経った気がした。気がしただけでなく、実際相当な時間が経っているのだろう。生きていた頃にはなかった便利な道具、あっという間に進歩した機械。知識欲に任せて何でも積極的に取り入れた。そうすると自分の神秘性が薄れて二回目の自殺をしてしまいそうになる。恨みも何もない今の自分が意識を保っていられるのは、人々の口伝とこの土地の淀んだ空気のおかげだ。復讐でなくとも、自分にはやらなければならないことがある。それが何かを忘れる程、自分は馬鹿じゃないつもりだった。
自分は怪異を信じない。おばけや妖怪、幽霊の類いは、全て人々の想像に過ぎないと思っていた。今だってそうだ。こうやって死後五感と思考が連続していることに対して明確な理由を出せないことに、青臭い焦りや苛立ちを覚えているくらいだ。自分は確かに人間の寿命を越えるような時間、この国の時代の変化を感じてきた。これが胡蝶の夢でないなら、自分は一度死んでから実体のない何かになってしまったということ。それは怪異の一言で表すのが一番楽でしっくりくる。疑いようもなく今の自分は自分の知る科学から逸脱した存在だった。ならば仮の値として便宜上怪異を名乗ろう。そしてその怪異のルールを考察することで、自分が何物なのかを知ろう。そうやって半世紀以上すごしてきた。残念なことにどれだけ科学が進歩しようと、自分を立証するだけのものには出会えなかった。探れば探る程、自分は不思議で異質で、道理から逸れた存在なのだと思い知った。現在の人間の脳では到底たどり着けない答えがあった。自分には仲間がいて、彼女達は自分が腕や脚、視力を失っていることを大層哀れんだ。それで、その幼い母性を満たすため、自分はしばらく彼女達のお人形として生きていた。死んでいるのに生きていたという表現はおかしいか。とにかく、最初の十年ぐらいは小さな少女達に抱えられていた。不思議なことに彼女達はきちんと十年分年を取り、立派なレディになった。なかなかお目にかかれない上物の色男だからと柔らかいものを押し当てられたこともあったが、何も見えない上に手足がないもんだから、文字通り手も足も出なかった。
今から数年前、自分という怪異はこの身体だけを指すものではないということに気付いた。異世界と呼ぶべき空間、現実とそれを行き来できる条件、様々なものがそろって自分なのだ。条件も含めて怪異なのかと問われればそういうものだとしか答えられない。例えばべとべとさんという妖怪がいる。妖怪というものは河童だとか天狗だとか、そういった外見がしっかりわかるものが多いように感じるが、実際は発生条件と怪異の内容だけが知らされているだけのものもいる。べとべとさんはまさにそれだ。夜道であること、曲がり角がない道であること、ひとりで歩いていること、それらを満たした時、背後で足音を鳴らす、ただそれだけの妖怪だ。条件、環境、内容、対処法、それらが揃えば怪異になる。自分も、特定の条件で人間の前に見知らぬ世界を見せる怪異だった。その条件を確かめたこともあった。確定するのに時間がかかったが、犠牲は少なかった。条件がわかれば動き方もわかってくる。まずは自分という怪異が発生した理由。それから、それを終わらせる条件。それらを調べてこの訳のわからない存在をこの世から消す。本来半世紀以上前に死んだはずのこの命。今更惜しくはない。それから、自分に巻き込まれた人達の救済。自分は地獄にいくらでも落ちてやるつもりでいるが、巻き込まれた人達はせめて助かって欲しい。その中には自分が死ぬきっかけになった子供達も含まれている。何も悪いことをしていないのに不幸な目に遭った子供達にせめて楽しいことを見つけて欲しい。
まずは条件を満たしたまま移動する方法を考えなければ。