最奥
「少し、来なさい」
珍しく父に呼ばれたとき、陰丸は自室で胡坐をかいていた。手を下腹部の前で合わせ、目を閉じる。
いわゆる瞑想というやつで、これをすると自身の波長を感じやすくなるらしいが、正直さっぱりわからない。
なんとなく、嫌な予感がした。
無言の父の後ろをついていく。最奥へと続く廊下を進んでいき、予感がどんどんと濃くなっていく。
「どこに行く気だよ」
「『最奥』だ」
陰丸はごくりと生唾を飲み込んだ。
欠かさず手入れされて光があれば白く反射しそうなつるつるとした木製の床は、しかし輝くことはない。明かりが一切ないからだ。後ろから差す夕方の橙色が唯一の光源で、奥に進むほど廊下は暗くなっていく。
まるで化け物の口内を進んでいくような感覚。空気もじっとりと重く、嫌に湿っている。
そして、交差した鎖といくつもの錠で閉ざされた『最奥』への扉の前で向き直り、父はどかりと腰を下ろした。
「陰丸、お前に大事な話がある。というより、決定事項の報告がある」
「だろうな。親父が俺をここに連れてくるときはいつもそうだ」
姉貴も、親類縁者の誰も、『最奥』に連れてこられたことはないらしい。それなのになぜか、陰丸だけは何度もここまで引き入れられてきた。
整えられた顎鬚に手をやった親父は、いつもの無表情だった。
「次の御前試合でお前が敗れた場合、退魔師修練校を退学してもらう」
「なっ……」
にを、と言おうとしたが、さらに上から重ねられる。
「次の進路も決まっている。お前のその身体能力は、退魔の波長を扱えない者の中では破格だ。そこでお前には農民になってもらい、ゆくゆくは自警団の中で高い地位に納まってほしいと思っている」
人が生活するにあたって、当たり前に食料は必要になる。
だから当然、農民だって貴重な人材なのだが、退魔師を志したものが農民になる、というのだとまた事情が違う。
それは言うなれば、額に落ちこぼれの烙印を押されて生活するようなものだ。
この、くそ親父は……。
「落ちこぼれは厄介払いってわけかよ」
「不満そうだな、だが腸が煮えくり返りそうなのはこちらとて同じこと」
細く濁っていた目が鋭さを増す。呼吸のように自然に殺意が灯る。
「初年度に身体操作を習得し損ねてから、どれだけお前に猶予を与えてやったと思っている。まだ間に合うから素直に農業校に入れと言ったこちらの意見も聞かずに、ただ飯を食らい無駄な努力を続け、それがこの体たらくだ」
「……退魔師修練校に入れといったのも親父だ」
「ああ、そうだ。まさか月城一族から、無適正のやつが生まれるなんて思ってなかったからな」
懐から取り出したスキットルを傾けて、豪快に喉を鳴らす。唇の端を垂れる琥珀色の液体をぬぐいもせずに、親父は言った。
「お前は一族の面汚しだ。とっとと退魔師の肩書を下ろせ。さもなければ、お前もこの奥に叩き込む」
どん、と観音開きの重厚な扉を叩く。丸太のような親父の腕にも扉はびくともしなかった。
「奥に何があるんだよ。というか、叩き込まれたらどうなるんだ」
「さあな」
「さあ、……って」
「伝承では、比肩するものがないほど『魔に魅入られた剣』が眠る、とされているが真偽のほどは定かではない。なぜなら、過去に入った者は全員、帰ってこなかったからだ」
心臓のあたりが冷たくなって、陰丸は自分の親父を見る。
伝承自体が怖かったのではない。それを今まで伝えずに、陰丸を何度もここに連れてきていることに心が震える。
きっとそのたび親父は内心で、陰丸を殺すかどうかを考えていたのだろうから。
「負けたら退学、農民だ。受けるか拒否するか、よく考えておけ」
ほのかに漂うアルコールの匂いが、淀んだ空気と混じって陰丸の鼻腔を弱く刺した。