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ゴッド・セイブ・ザ・クイーン

作者: 千百

 ママ、というみのりの不安げな声に起こされる。まだ真夜中だ。はいはい、と菜穂は起き抜けのかすれた声で返すと、ごそごそと布団を抜け出し、二人で手をつないで階段を下りていく。

 夫の実家に帰省すると、いつもこうだった。みのりは、この家では怖がって一人でトイレに行かなかった。夜だけでなく、昼間でも。


 自宅は二階にもトイレがあり、夜中であっても、母を起こしに来ることはほとんどなかった。だが、この古い造りの家ではそうはいかなかい。いかにも田舎の一軒家といった感じでいやに広く、日中でも、光の届かない廊下などは闇が深かった。菜穂とみのりがトイレに辿り着くまでには、まず二階の客用の寝室を出て階段を下りたところで、右手の茶の間とは反対側に廊下を進み、台所を過ぎ、浴室を通り越して、ようやくだった。さらに、電灯はおしなべてどれも暗い。廊下の電気のスイッチを入れると、線香花火の先端に似た小さなオレンジの光が、音もなくつくだけだった。階段もまた妙に長い。

 歩くたびに古い板がきしんだ音を立てるので、母娘は自然と忍び足で下りていくのだった。


「ねえ、ママ」


「なあに?」


 暗いせいもあって、互いに声をひそめてしゃべり合っている。みのりは階段の真ん中で急に立ち止まり、大きな目で菜穂を振り返った。


「あのね。この家、おばけいる」


「…おばけ」


「いる。いま、台所の、冷蔵庫のそばに立ってる」


 みのりは神妙な表情でそう言うと、再び前に向き直り、一歩一歩慎重に階段を下りていった。母の腕に、ぴったりとしがみついている。


 ここから台所など見えもしないのに、なぜ分かるんだろう。寝ぼけてるのかしら。しかしどちらにしろ、こんな暗闇の中でおばけの話なんかされて、気分の良いものではない。菜穂は黙ったまま、きしむ階段を踏みしめて下りた。


 廊下の電気をつける。曇りガラスの小さな傘が豆電球の明かりを受けて、乳白色に浮かび上がる。いやな色だ、と菜穂は思った。二人は、台所の入り口に差し掛かった。みのりが、菜穂の夜着をひっぱって止めた。


「ねえ、ほら、ママ。いるでしょ、そこに。冷蔵庫の横よ」


 古い大型の冷蔵庫のモーターが、ぐんと音を立てた。歩こうとしても、みのりが恐ろしいほどの力でがっしりと腕にしがみついているので、動くことができない。これでは、冷蔵庫の横など見られっこない。前にも後ろにも進めずに、菜穂は途方に暮れて立ち尽くした。

 困り果てた菜穂は、みのり、と呼びかけようとして、はっと息をのんだ。


(声を立ててはいけない…)


 台所は、分厚いガラス窓から差し込む隣家の電灯の光で、海底のように輝いていた。誰かがいるはずなどなかった。見間違いのはずだった。背中を、汗の粒が伝った。モーターの音がいよいよ高まり、うるさいくらいになった。


「ママぁ…」


 菜穂は、今にも泣きだしそうなみのりの声に我に返った。みのりが怖がっている。何とかしなければいけない。咄嗟に、あの有名なフレーズが口をついて出た。


「ママ~…ふんふふふ~ん…」


 みのりが、ぱっと小さな顔を上げた。目を丸くして、ぽかんと母を見上げている。菜穂は、必死で歌い続ける。


「put a gun against his head pulled my trigger, now his dead」


 どうしよう、さっそくお手上げだ。英語の歌詞だから続きが分からない。昔から英語が苦手だった菜穂には、冒頭の数行が限界だった。ここからは鼻歌でごまかし続けるしかないか、と心のうちで観念した矢先だった。喜びに顔を輝かせたみのりが、続きを引きとった。


「Mama, life has just begun But now I’ve gone and thrown it all away」


 やはり、三歳の娘は違った。吸収力が違う。菜穂は内心胸を撫で下ろした。

 常日頃、大好きなアルバム「オペラ座の夜」を何度もかけているうちに、みのりはいつの間にかどの曲も完全に歌えるようになっていた。中でもボヘミアン・ラプソディは十八番だった。それにみのりは歌詞だけではなく、ギター、ベース、キーボード、あらゆる楽器のパートを口ずさむことができた。家事で手が離せないタイミングで絵本やおもちゃを持ってくるようなときは、「ちょっとマイ・ベスト・フレンドを歌って」とか、「スイートレディをやってくれる?」などと言うと、スイッチが入るらしく、ノリノリでイントロから最後まで歌ってくれるのだった。


 それにしても良かった、ここまで来たらなんとかなる。みのりは暗い廊下で、夜中の近所迷惑など度外視した大声でいつものように歌いまくった。先ほどまで怯え切っていたのに、今は笑顔でぴょんぴょん飛び跳ねながら、声を張り上げ全力でガリレオのくだりを歌っている。


「ガリレオガリレオー!!」


 菜穂も合いの手を入れる。


「ガリレオー」


「なんだ、一体なんだ?」


 茶の間の奥のふすまが開き、仏間で寝ていた義父が、寝間着姿のまま目を丸くして出てきた。菜穂はぺこりと頭を下げた。


「お義父さん、どうもすみません…」


 義父はあんぐりと口を開けたまま立ち尽くし、元気に歌い踊るみのりを見ていた。夫も騒ぎに気がついたらしく、二階から下りてきた。


「菜穂、どうした?みのりか?」


 夫は心底眠そうに、目をこすっていた。


「こんな真夜中にボヘミアン・ラプソディか?」


「もう終わるから…」


 みのりはお構いなしにそのまましばらく歌い続けていたが、やがて最後に差し掛かった。


「Any way the wind blows…ジャーン!!」


 ラストのドラムが鳴り、歌が終わった。すっかり感動した義父が、一生懸命拍手をした。


「みのりちゃん、すごいなあ!英語の歌が歌えるんだね」


「うん!」




 それから菜穂はみのりをトイレに行かせ、再び寝室に上がった。戻ってみると、夫はすでに寝息を立てていた。一階に下りたときも、半分眠っていたのだろう。朝起きたら、今のことも忘れているかもしれなかった。みのりはしばらく寝返りを打っていたが、やがて静かな寝息に変わった。枕もとの時計を見ると、二時を回っていた。


 しかし、なぜ、みのりはあの存在に気がついたのだろう。菜穂は布団の中で大きく目を開けたまま、首を傾げた。みのりは階段を下りる前から、あれがいるのが分かっていた。なぜだろう?

菜穂は最初、娘が何を言っているのか分からなかった。寝ぼけていると思っていたくらいだ。一歩、二歩と足を進め、冷蔵庫のそばに影が見えてようやく、みのりに何が見えていたのかを悟った。


 あの時、台所の冷蔵庫の傍には、夜の鳥がいた。


 何年ぶりだろう、夜の鳥を見たのは。初めて夜の鳥の存在を知ったのは、中学生の頃だった。学校じゅうで噂になっていたのを聞いたのが最初だった。

夏でも分厚い外套を着た大柄な男が、じっと立って自分を見つめている。しかもその男の頭には、人間ではなく、濡れたように黒い鴉の頭がのっている。それが夜の鳥だった。とくに危害を加えてくるわけではない。だが夜の鳥は、校内や帰り道、休日の繁華街、通学の電車を待つ駅のホーム、どこにだって現れる。あたりにどれだけ人がいようと関係ない。ただ自分一人を見ている。そこにいる誰もが、夜の鳥には気づかずに、通り過ぎていく。


 それだけの話だったが、当時は学校じゅうがこの噂でもちきりだった。朝一番に教室に着いたら廊下から見ていただの、部活終わりに校庭のフェンスの向こう側に立っていただの、校内のありとあらゆるところで、夜の鳥の目撃証言があった。話を聞いていると、夜の鳥が歩いていないところなど、ないように思われた。菜穂もクラスメイトや部活仲間と一緒になって、エスカレートしていく夜の鳥の噂話を面白がったり怖がったりはしていたが、心の中では、これはあくまでトイレの花子さんのような誰かが作ったお話であって、それにあえて乗っかることを楽しむ遊びなのだと思っていた。そして、皆もそうなのだと思っていた。夜の鳥など本当はどこにもいないからこそ、皆安心してこの遊びに参加しているのだと信じていた。




菜穂が実際に夜の鳥を目にしたのは、結婚式の少し前だった。夫とは、すでに一緒に暮らしていた。その日は土曜日だったが、めずらしく夫は昼過ぎから仕事に出かけて行った。同棲してから初めてのことだった。夕方になり、夜になっても夫は帰ってこなかった。何度か携帯電話に電話をかけてみたが、いずれも運転中になっていた。

 なんだか、いやな気がした。遅くなるのなら、何か言ってほしかった。何もないとは分かっているのだが、どこか自分自身が試されているような気がして不快だった。時計を見ると、九時を回っていた。テーブルには、二人分の夕食が用意されたままだった。携帯電話には、何の連絡もないままだった。


菜穂はベランダに出た。夜の風が頬をなで、意外なほど心地よかった。少しだけ、気持ちが落ち着く気がした。

 そしてその時ふと、夫は今日、少し仕事を片付けた後、同僚の結婚式の二次会に流れると言っていたのを思い出した。そういえば、先週の日曜日に確かに聞いていた。だからその日は夕飯もいらないと言っていたのだが、今朝その話にならなかったので、すっかり忘れていたのだ。

今朝も何も、菜穂は昨夜の残業の疲れがひびいて、昼になっても寝ていた。起きたとき、夫はすでに出かける支度を済ませていた。菜穂の昼食は、夫が朝に買っておいてくれたパンだった。


 ベランダで、菜穂は一人、声を出さずに笑い出した。今日一日、不安になったりやきもきしていたのが、ばからしくなった。そして、結果的にばからしく思えたことに、膝から崩れ落ちそうなほどの安堵を感じた。そしてそうした安堵を感じられることに、とてつもない感謝の念を抱いた。菜穂は相変わらずを声を殺して笑ったまま、ベランダの手すりに頬をおしつけ、その冷たさを幸せな気分で味わっていた。

 ふと、視線の先に人影が立っているのが目に留まった。マンションの花壇のそばの街灯の下に、黒い人影がじっと佇んでいた。いつからそこにいたのだろう。菜穂が顔を上げると、その影も同じようにこちらを見上げた。


 夜の鳥だった。それは、まったく噂の通りだった。大柄な体躯の上に、くろぐろとした鴉の頭。少女の頃に聞いたままの姿が、十年以上経った今、大人になった菜穂の前に立っているのだった。夜の鳥は、他でもないこの自分を見ていた。


 菜穂は夜の鳥の目に射抜かれながら、先ほどまでの幸福感が潮のように引いていくのを、冷ややかに見つめていた。そして、今日のようなことは、これから先あの人との生活の中でいくらでも起こっていくのだろうという予感が生まれ始めていた。

 

 それは、気が遠くなるような絶望だった。生活というきりのない作業が、これから一生続いていくということは、絶望以外の何物でもないように思われた。それは、癒されない渇きに等しかった。そしていずれは、絶望を絶望とも思わず、渇きを渇きとも思わない日が訪れるのだろうということを、漠然と感じていた。その日がいずれ来るという確信は、その後もたびたび菜穂をとらえては奇妙な気分にさせるのだった。


 夜の鳥は、しばらくするといなくなっていた。もうすでに、どこか別の誰かのもとに出向いているのだろうか。菜穂は冷えた身体をさすりながら、部屋に戻った。その後すぐにチャイムが鳴り、夫が帰ってきた。一日待ちくたびれた割には嬉しくなかった。夫は、何も気がつかなかった。夜の鳥は、菜穂ひとりの胸にしまいこまれた。


 夜の鳥は、今夜再び現れた。しかも、娘にもあれが見えていた。菜穂は打ちのめされていた。


(この子は、これからどういう人生を送るのだろう?)


 もちろん、そんなことは今考えたところでどうにかなることではなかったし、おそらくいつ考えたとしてもどうにかできる類のことではないだろう。母親がどれだけ手をつくしたとしても、子どもの人生など、ひとつだって思うままに出来るはずがない。そもそも母である自分が、一度だって自身の人生を思う通りにできたためしがないのだ。


 菜穂は寝返りを打った。そして薄暗い部屋の中で布団にくるまり、冴え切った頭を持て余して、いつまでも目を開いていた。菜穂はそのまま空が白み始めるまで、夜の鳥のことを一人で考え続けていた。


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