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現代魔術師譚・境界のベナンダンティ  作者: みさっち
第1章:魔術師の帰還
19/27

1-11:旅立ちの準備

 不意に海音(あまね)が人さし指を唇に当てて部屋の戸口を振り返った。

 すると、衣擦れの音とともに人がやってくる微かな足音が聞こえてきた。


「失礼いたします。主人がお呼びですので御同道願えませんでしょうか?」


 と扉の外から女性の声が掛けられた。

 どうやら、すでに忍たちが目覚めていることがわかっていたのだろう。


「分かりました。支度をするのでお待ちください」


 海音はそう声をかけ、部屋に置かれていた鏡と櫛を使い、最低限の身嗜(みだしな)みというように髪をとかしはじめた。用意も無くこちらの世界に飛んできたのだから、着替えもなにもなく、出来る身嗜みと言ったら髪をとかすくらいしかない。


「着替えたいけど、この世界で着替えがあるとは思えないしね」


「確かに……。魔法でなんとかできないわけ?」


「消臭と衣服の汚れ落しにソウル・ドロップを使う気?」


 海音は軽くたしなめるような口調で忍に訊ねてきたが、確かに、魂と引き換えにするほどのこととは思えない。


「生活魔法とかってないの?」


「あるわよ。荷物の紐を固く括りなおす魔術とか、腐った食べ物を食べられるするようにする魔術とか、あなたが言った消臭や汚れ落しの魔術もあるわよ。全部、対価にソウル・ドロップを使用するけどね」


「う……」


 荷物の紐を固く括りなおすだけで魂の力を引き換えにするというのは、やはり衣服を綺麗にすることと同じくどうかと考えてしまう。


「どうしてそんな魔法が作られたわけ?」


「紐を括る魔術を例にすると、別に荷物に限ったことじゃないからよ。元々は(いかだ)を括る縄がほどけぬように開発されたものだって聞いているわ」


「あー……確かにそれは生命にかかわるから、魂と引き換えにするのもアリか……」


「そういうこと。基本が一緒というだけで使い方は様々、応用がきくから憶えておくといざと言う時に便利だしね」


「使い方は?」


「括りたい紐に手を触れさせて、『この紐括れ』だけで済むわ。さ、あたしの準備はOK! キミも髪くらいとかしなさい」


 海音に促されて忍は髪を軽くとかした。

 まったく手入れの必要がないらしいアガレスが、こういう時は羨ましくなる。

 部屋を出ようと扉を開けると、廊下にはずっと声をかけた時からそこにいたのか、貫匈人の若い女性が床に両膝をついて傅いていた。よく水墨画などに描かれる天女を思わせるような縛り方をした髪型をしており、チューブトップのブラのような布を胸に巻いていた。

男性同様に、その鳩尾には拳大の穴が穿たれている。


「お待たせしました」


「それでは、こちらにどうぞ」


 女性は軽く頭を下げてから立ち上がると、右手を軽く差し出した中腰の姿勢のまま先導して歩きはじめた。

 やがて案内された部屋は、藤蔓(ふじづる)を編んで作られた家具類でまとめられた広めの部屋だった。すでに李は部屋に入っており、忍たちの入室に気づくと、立ち上がって両手を胸元で組み、映画などで見る昔の中国風の挨拶をしてきたので、あわてて忍もそれに倣った。


「昨夜はよくお休みになられましたかな?」


「はい。お泊めくださいましてありがとうございます」


 海音の返答ににこやかな顔で頷いた李は、すぐに藤蔓を編んだ背もたれ付きの椅子に座るように促してきた。

 忍たちがそこに腰を下ろすと、待っていたようにテーブルの上にそっと茶と干菓子のようなものが置かれた。


「乾大人(たいじん)は所用があるとのことで、払暁とほぼ同時に邑を出られたとのこと」


 李はそう切り出した後、ほぼ忍向けに、この魔境での暮らし方と妖魔の従え方についての話をした。

 そして――


「貴方がたの世界に戻られる場合、この邑の南の森……四〇里ほどの所にある岩山に、洞窟があり申す。その洞窟にある蒼く光る泉水(せんすい)に入ると、貴方がたが入られた境界の位置に戻れよう」


「四〇里……?」


 忍はその距離を聞いて愕然とした。

 一里は約四キロだから、一六〇キロも先になる。東京からだと福島県南部にまで到達する距離だ。

 その距離を歩いていかなければならない。しかも、妖魔の襲撃を警戒しながらになるため、ただ歩くのとはわけが違う。


 ――そんなの……無理だ。


 忍の絶望した様子に気づいた海音が小声で囁いた。


「距離は周代の中国里よ。現代日本の距離にしたら四〇〇メートルくらい」


「え……?」


 古代中国の周代では、一里とは三百歩四方の面積を表わす単位だった。一歩とはだいたい一・三メートルほどで、そのため1里は約四〇〇メートルとなる。この中国里は時代とともに変化するためにまちまちになるが、漢代頃までは周里が使用されていたために、日本でも有名な一日千里を走るとされる赤兎馬の走破距離は、現代日本のキロ換算にすると四〇〇キロということになる。

 しかし、この中国里での距離計算で換算すると四〇里は一六キロほどの距離になる。それはもちろん大変な距離であることに違いはないのだが、一六〇キロと比べればはるかにマシであり、行けないことはないと思えるから不思議だった。


「旅の糧食として三日分ほどの食事を用意しておきました。気をつけて行かれるが良いでしょう」


「色々とお世話になりまして、ありがとうございます」


 短い時間で李との会談は終了した。

 元々、異世界人に長居して欲しくないという意図が込められた親切であり、それを承知している海音も、もらえる物だけもらって、さっさとこの邑を出ようと考えていたせいだった。


麦飯石(ばくはんせき)まで用意してくれてるのね。助かるわ」


「麦飯石って……なに?」


「水を浄化する効果がある石よ」


 海音が革袋から取り出して見せてくれた物は、麦飯を集めて固めたような模様をした五〇〇円玉ほど大きさの平べったい石だった。


「このサイズだと一リットルくらいの水を浄化する効能があるのよ」


 李が用意してくれた背負子がついた藤蔓の行李(こうり)(箱状の蓋付籠)の中にも、同じように麦飯石が一〇枚ほど入った革袋が収められていた。


「あとは干し(いい)に干し肉。いざと言う時の布とかね。全部ありがたい物ね」


 海音はこの場にいない李に感謝するように、行李に対して両手を合せて拝んだ。

お読みいただきまして、ありがとうございます。


麦飯石ばくはんせき

中国の伝承に登場する麦飯石には水を浄化する作用があります。

実在する麦飯石も水道水のカルキや臭い、雑菌を吸着するとされて、たびたび詐欺に利用されています。

麦飯石はその表面の多孔質を、濾過材としてミネラルウォーターの製造機器・装置に使用されています。また、他に観賞魚用の水質改善を目的として使用されることがありますが、これは多孔質の石すべてに言えることで、麦飯石だけが特化しているというわけではありません。

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