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迷子

作者: みちゆき

「お母さん」

 男の子の頭には、ずっとその言葉が浮かんでいた。どれだけ繰り返してもどれだけ口に出しても、男の子のそばに母親はいない。いつ母親がいなくなったのか全く思い出せない。

 おもちゃ売り場で新しいフィギュアを夢中で眺めていた時か。レストランのショーケースに並ぶ食品サンプルに気を取られていた時なのか。いや、もっと前から母親はいなくなっていたような気がする。

「お母さん、どこ?」

 男の子は実際よりも巨大に見えるショッピングモールを歩き回った。小さな足を一生懸命動かしながら、心当たりのある母親が行っていそうな場所をくまなく探し続けた。しかしどこにも母親はおらず、心が不安に包まれていった。もしかしたら二度と母親と会えないような気がして、次第に足取りが弱々しくなっていった。

 母親は見つからない。時々軽快な音と一緒に放送で流れてきていた、迷子センターからの優しい声も聞こえてこない。

 今立っているここは、もう自分の知らない世界。何もかもが真っ白に見えてくる。ずっと心にあった母親の姿がかすんでいく。もう戻ってこないのだという不安が、確かな現実になりつつあるのが怖かった。まだ幼い男の子に、これ以上我慢することはできない。

「お母さん、お母さあん。」

 かすれたその声以外に、聞き覚えのある声は耳に届かなかった。その時急に自分は一人きりであることがはっきりとわかり、口からは言葉にならない声だけが出てきた。

 目の前がだんだんぼやけて、頬にしずくが伝っていくのがわかった。どうしてだか、とめどなくそれはあふれてくる。広いショッピングモールに、情けない泣き声がむなしく響き渡った。

 返ってくる声は、ない。


 部屋全体が暗く重々しい空気を漂わせている。そこにいる三人の人間の誰ひとり言葉を発する事は無い。発する事は無い、と自発的な言い方をしたが、一人は声すら出せない状態だった。部屋の中央に敷かれた布団に横たわる年端のいかない少年は、今まさに生死の境を彷徨っていた。

 布団の傍に行儀よく正座した中年の男は、少年の父親であった。殆ど動いていないが滝のような汗をかいている。その前には、厳めしい面構えの黒衣の僧侶が座っていた。

「拓哉は、幼くして母親を亡くしました」

 沈黙を破った父親の声は掠れ気味だった。

「表向きは気丈な態度を見せていましたが、やはり年相応の愛情を母親から受けられずにいるのは辛い事だったでしょう」

「それで母を求め、彷徨える生霊と成り果ててしまいおったか」

 僧侶は重々しい声色で言葉を繋ぐ。

「平安時代では、魂が身体から抜け出る事を『あくがる』と言い『憧れる』の語源になったそうだが、死人に思慕の情を募らせたところで詮無き事。当ても無く彷徨う魂は、やがて冥府へと下るであろう」

「お願いです、拓哉を助けてください」

 父親は今にも泣きだしそうな表情で懇願するが、僧侶はこれ以上無いほどの渋面を作り力無く首を振った。

「今は魂と肉体の繋がりが不安定な状態にある。どうにかこの子が生への執着を抱かん事には、救える見込みは僅かのみ」

 父親は肩を落とした。息子は、母を求めるよりも強く生きる意志を持ってくれるだろうか。産みの親との死別を乗り越えさせるには酷な年齢だ。ここで力強く「生きろ!」と豪語し、空虚な妄執の檻から息子を救う事が出来ない今の自分が堪らなく情けない。

「情けねぇな、俺ってやつは」

 父親はとうとう口に出してしまった。かつて亡き妻の遺影の前で、「拓哉は俺が守る」と誓った自分を思い返し、余計に悔しさが込み上げてくる。

「死人には口も与えられる愛情も無い。それは生きている者にしか出来ん事だ」

 父親は僧侶の言いたい事が理解できた。残された自分が、息子を妻の分まで愛してやらねばならない。だが自分は、息子の苦しみを何一つ理解してやる事が出来ていなかった。そんな自分が、父親らしく振舞う自信はとっくに失っていた。

「拓哉、死ぬなよ。お願いだ。俺を一人にするなよ。母さんの為にお前も死ぬなんて馬鹿げてるじゃねぇか。お前まで、俺を置いていくのかよ」

 呟きながら、目の前に横たわる息子に縋り付いた。僧侶は黙って、それを眺めている。

「今度一緒に遊園地に行こうぜ、なぁ拓哉。旨いもの沢山食わせてやるよ、俺結構稼いでるからさ。なぁ拓哉、お前が死んだなんて絶対受け入れないぜ、俺は!」

 次第に叫びに変わっていく父親の声には嗚咽が混じっていた。涙を流しながら、父親は激しく息子の身体を揺さぶった。

「ずっと俺は、お前を呼び続けるからな!死ぬんじゃねぇ拓哉!親より先に死ぬなんて許さねぇぞ!三途の川で苛められるんだぞ、お前は!拓哉!拓哉!拓哉!戻って来い、生きるんだ!」


 男の子の耳に、自分の泣き声をかき消すほどの声が聞こえてきた。真っ白な世界を見回したが、声の主は見当たらなかった。

 でも、確かに聞こえる。自分よりもさらに声を張り上げ、情けなく喚き散らしている。一体誰なのか、男の子には分からなかった。お母さんではないが、どこかなつかしい。

「…くや、たくや、拓哉!」

 それは、他ならない自分の名前だった。


「あっ、おとう、さん?」

 くぐもったような声がして、父親は顔を上げた。目の前の少年は自分の顔を認識している。揺さぶっていた反動で頭がぐらぐら揺らいでいる、寝ぼけ眼の息子の顔があった。

「拓哉!」

 父親は暫し唖然とした。

少年は視界をはっきりさせ、周囲を見回してから、

「何かね、迷子になった夢を見たんだ。お母さんが全然見つからなくて怖かったけど、お父さんの声が聞こえてきて、それでね」

 言い終わらないうちに、父親は息子を静かに抱きしめた。決して離さないように強く。

「拓哉、お母さんが羨ましくなる位、一緒に笑って暮らそうな」

 父親は必死に気丈な声を発するが、涙声を隠しきれなかった。少年は父親の言葉を黙って聞いていたが、やがて屈託のない笑顔で頷いた。

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