落日編7 微動
朽ちかけた建物ばかりが建ち並ぶ低い街並みの向こう、果てしなく広がる赤茶色の大地。
その地面を、焼け付くような太陽がこれでもかとばかりに照らしている。
一見すれば不毛の地のようだが、数十メートルばかり掘り下げれば埋蔵量数千万トンにも及ぶといわれる地下鉱物資源が手付かずのまま眠っている。つまり、見かけはともかく宝の大地であるといっていい。地表部分が耕作に適さないだけのことである。
この国土の大半がそうであるため、国内外の人々は長年にわたり豊富な鉱物資源をめぐって争いを続けてきた。作物が収穫できなくても、鉱物資源さえ売れば莫大な富を手に出来るからである。
それらがなければ、血なまぐさい民族紛争や無数のテロ事件などは起きなかったのだろうか。
窓の外をぼんやり眺めながらとりとめなく考えていると、不意にコンコン、と病室のドアをノックする音が聞こえた。
「……こんにちは。お加減はいかがかしら?」
カラリとドアが開き、イルメシアの長い黒髪と美しい相好が見えた。おっとりと微笑んでいる。
白く無機質な空間のそこだけ鮮やかな花が咲いたようだと、レヴォスは思うともなく思った。
「今日も暑くなりましたわ。サウス・レムでは三十五度を超えたとか聞きましたけれども」
そんなことを言いながら入ってきたイルメシアは室内の空気を肌で確かめるような仕草をしてから
「ここはきちんと冷房が効いているようですね。この病院にお連れして良かった。ほかの病院は設備が整っていないから蒸し風呂のようですもの」
嬉しそうに笑顔をつくった。
「……」
何か反応しようと思ったものの、喉の奥から声が出てこない。
レヴォスはベッドの上で上体を起こしたまま、うつろな表情でイルメシアを見つめている。
サイドテーブル上の花瓶に活けられた花の具合が気になるらしく、彼女は人差し指で花弁をそっと触ったり撫でたりして確かめていたが、やがて簡易チェアに品良く腰を下ろした。
姿勢を正しレヴォスに真っ直ぐな視線を向け
「先ほど、お医者様に尋ねてまいりましたの。……一週間前より傷の具合も栄養状態もだいぶ良くなってきたそうですよ? 私、とても安心しましたわ」
そうか、もう一週間もここにいるのか――。
自分の身体のことよりも、入院していた日数の方に関心がいった。
昼夜と時間に関係なく寝たり起きたりを繰り返し、何日経過したのかすらもわからなくなっていた。目が覚めれば死んだ同志達、特にケレナの姿を思い浮かべては涙にくれ、泣き疲れてはまた眠るということばかり繰り返していたのである。
そういう不安定な精神状態でいたせいか、この病院がゴーザ派の連中に襲われたらどうするかなどとは全く考えなかった。というよりも、忘れかけていた。あるいは、身の安全に気を遣わなくなってしまうほどこの病室が余りにも静かであり、かついつも近くにイルメシアの無償の優しさが漂っていたということもあったかも知れない。どのみちレヴォス自身の神経が知らぬ間に著しくすり減らされていたことだけは確かなようであった。
ただ、こうした安穏な状況に置かれて日を消すうち、身体の傷はかなり癒されたらしい。
ふと気がついてみれば、入院当初身体のあちこちを覆っていた包帯やガーゼの類がすっかり取り払われ、ほとんど負傷前の健全な肉体を取り戻しつつあった。
かといって、彼は素直にそのことを喜ぶ気にはなれない。
逆にいっそのこと死んでしまっていた方が幸福だったのではないかとさえ思える。
身体の傷が完治したところで、苦楽を共にしあった同志達、そして愛するケレナとはもう会えないのだ。唯一の拠り所だったジャック・フェインが潰滅してしまった今、レヴォスは天涯孤独の身になっていたといってもいい。凶悪なゴーザ派に狙われた以上、ジャック・フェインの親組織であるリン・ゼールに戻ったところでどれだけ生き延びられるであろう。命を惜しいとは思わないが、すでに弱体化しつつあるリン・ゼールの腰抜け共と抱き合い心中同然で死んでいくのは御免だった。
どうせなら――と、レヴォスは思う。
自分から大切なものを全て奪い去っていったゴーザ派に対して単身戦いを挑み、一人でも多くのゴーザ派組織員を道連れにして討ち死にする。今の自分にできることといえばそれしかないように思われた。
実際、この病院にももう、あと幾日もいられない。
迂闊に生き延びようものなら、いつかはゴーザ派の手にかかってしまう。それよりもいっそ、自分が死んだとゴーザ派の連中が思っているうちに強襲し、戦うだけ戦って悔いなく散る。武器を調達せねばならないが、それはアミュード・チェイン地域在住のジャック・フェイン支援者である富商に頼めば幾らか調達してくれるであろう。
彼は胸中、恩人ウィグや恋人ケレナの元へ逝く決意を固めつつあった。
秘かにそんなことを考えていると
「……ところで、今日は大切なお話がありますの」
横からイルメシアの声がした。
ハッと我に返って彼女の顔を見やると、温和なその容貌にやや真剣な色が滲み出ていた。
光のないレヴォスの瞳をじっと見つめつつ
「数日のうちに、主人がお国に戻ることになりました。私も主人と一緒に、海向こうへ渡ります」
「……」
来るべき時がきたか、とレヴォスは思った。
が、心のどこにも動揺はない。
そもそもイルメシアとその夫という人間の好意にすがってどうにかしようというつもりはさらさらなかった。だが、せっかくの二人の好意を踏みにじるような真似をするのも忍びなく、彼等が取り計らってくれる通りに身を任せていただけのことである。世界中から恨みを買ってやまないテロ組織に長年身を置いてきたとはいえ、人非人にまで成り下がった覚えはない。
それで今後どうするつもりなのか訊かれるのだろうと思っていると
「あなたも私達と一緒にいらっしゃいません? ――行き先ですか? ええ、ヴィルフェイト合衆国のファー・レイメンティルという州にある街ですの。私は一度も行ったことがありませんが、治安もよく穏やかで近代的なところだと主人が申しておりました。主人がそう言うのですから、きっと素敵な街だと思いますの」
少女のように胸の辺りで両手を組み、にこにこしている。
「……は?」
呆気に取られたレヴォス。
この美しい婦人は突然何を言い出すのだろうと思った。
路傍に倒れていた一介のテロリストを懇切丁寧に介抱してくれただけでなく、よりによって国外の安全圏にまで連れて行ってやろうという。親切にも程があるではないか。
しかも、行き先はよりによってヴィルフェイトのファー・レイメンティル州ときた。
レヴォスにとっても、またジャック・フェインにとっても因縁浅からぬ土地である。
今から九年ほど前、同州におかれていたジャック・フェインの根拠地が国軍陸団と治安維持機構部隊によって包囲され、双方の間で惨烈な戦闘が繰り広げられた。この時、国軍陸団との間で停戦協定が成立しかけていたが、治安維持機構側が一方的に攻撃を再開。不意を衝かれたジャック・フェイン側は多数の死傷者を出すに至った。この事件は当局において第一次ジャック・フェイン事件、もしくはDブレイク事件と呼称されている。ファー・レイメンティル州D地区において発生したからである。
彼等は卑劣極まりない治安維持機構、そしてその主管組織である都市統治機構に対し深い恨みを抱き、復仇を誓った。レヴォスもまた、この時の戦闘でたった一人の肉親である兄を喪った。彼の兄はジャック・フェインの主要メンバーだったからである。レヴォスは兄の復讐を果たすため、血の滲むような過酷な訓練を経てジャック・フェインへの加盟に成功した。そして運良く、アミュード・チェイン神治合州同盟自治区へと逃れてきたウィグ・ベーズマンと出会うのである。彼はレヴォスの真面目さとひたむきさを愛し、以後何かと行動を共にするようになる。
後に知った話だが、レヴォスの兄・マティスは戦闘中に負傷したウィグを庇って被弾し、命を落としたという。ウィグはそのことを気にしていてレヴォスに詫びたが、レヴォスはむしろ兄の最期の行動を誇りに思った。
(この人のためなら、命を投げ出すことくらい何でもない。兄の行為は間違っていない。俺もまた、そうありたいものだ)
ウィグという人間の気さくで情の篤い人柄に触れ、レヴォスもそう思うようになっていたからだ。
第一次ジャック・フェイン事件から三年半という歳月を経て、ウィグの統率の元ジャック・フェインは陣容を立て直すに至った。ここへきてウィグは、かつて多くの同志達を死に追いやったファー・レイメンティル州政府への復仇を果たすべく、大掛かりな作戦の検討を開始した。作戦はウィグの片腕ともなっていたレヴォスによって精密に立案され、同志達の裁可と賛同を得る。選抜されたメンバーは順次ファー・レイメンティル州へ潜入、アジトに篭って作戦の決行日を待った。
レヴォスもまたウィグに伴われて同州へと渡るが、彼は次第に不吉な予感を抱くようになる。
ウィグは第一次ジャック・フェイン事件の最中で愛する女性をアジトに置き去りにしてきており、路途彼女の生存を確認するや人が変わったように度を失ってしまったからである。リリアといったその女性は事件後、スティーレイングループ会長・ヴォルデによって保護され、様々な経緯を経てスティーレイングループ専属警備会社「Star-line」メンバーとなっていた。アジトに到着後、ウィグは幾度かリリアへの接触を試み、ついには作戦そのものを根底から反古にしかねない事態まで引き起こしてしまう。
その後、やっとのことで作戦は発動された。
レヴォスが立案した一分の隙もない計画通りに事は運び、ファー・レイメンティル州都市統治機構本庁は彼等ジャック・フェインの手に陥ちる。この一報を受けヴィルフェイト合衆国政府はもちろんのこと世界中が震撼したが、都市統治機構高級幹部を人質にとったジャック・フェインに対し何ら打つ手を持たなかった。
が、ここで事態は思わぬ方向へと展開する。
第一次ジャック・フェイン事件における都市統治機構の卑劣さを全世界に知らしめるという目的を達したウィグは、リリア――改名してリファと名乗っていた――が所属するStar-lineに対して戦いを挑んだのだ。Star-lineのCMDに搭乗するドライバーは超一級の操縦技術を有しており、そのためにStar-lineは優良警備会社の名を欲しいままにしていたからである。
根っからのCMDドライバーだったウィグはレヴォスに
「是非挑戦してみたいじゃないか。世界一と言われるStar-line機を倒してこそ、俺のドライバー魂が満足するってものさ。そうだろう?」
笑ってそう言ったが、本音は別のところにあった。
彼は四年前にリファを置き捨て生涯癒される事のない深い悲しみを与えたことを苦にしており、自ら最期を遂げることで彼女の未練を断ち、新しい人生を歩ませたいと望んでいたのだ。
都市統治機構幹部の横槍によって対決は果たされずに終わるかと思われた。しかし、Star-lineに頼る以外事態を打開する術はないと悟った州副知事の決断により、Star-lineは人々の希望を背負ってジャック・フェインに敢然と立ち向かっていく。
対ジャック・フェイン戦あることを想定し徹底的に研究していたStar-lineの行動は迅速で、ジャック・フェイン機は次々に沈められた。そうしてついに、ウィグとStar-lineのフォワードドライバー・サイは都市統治機構本庁において激突する。
リファの悲しみを理解していたサイの怒りは激しく、終始ウィグの機体を圧倒した。ウィグもまた全力で挑んだものの、完膚なきまでにねじ伏せられてしまった。
戦いはそれで終わったが、ウィグが座るコックピット内部で電装系が爆発を起こし、それをもろに浴びたウィグは短い生涯を終えた。
その混乱に乗じてレヴォスやケレナほかジャック・フェインメンバーは国外への脱出に成功したのだが――レヴォスはファー・レイメンティルにおいて兄、そして恩人というかけがえのない人物を二人も喪ってしまった。哀しみに暮れた彼は、生涯二度とかの地に足を踏み入れまいと誓った。
レヴォスの人生に重い影を落とした因縁の土地。
彼としては、素直に頷ける筈がなかった。
「私のような者の身を案じてくださるお気持ちは嬉しく思う。しかし、そのご好意に甘える訳にはいかない。せっかくだが、私は――」
そういう表現で婉曲に断ろうとすると
「いいえ。一緒にいらっしゃってくださいまし。この地にこれ以上、あなた一人で留まっていてはなりません」
ぴしゃりと、イルメシアの強い言葉が返ってきた。
これには驚かざるを得ない。
まるで、死に場所を捜し求めようとしている彼の胸中を読んでいるかのようである。
動揺しつつも、自分が何者であるか語って聞かせねばなるまいと口を開きかけたが、イルメシアは発言を抑えるように片手を上げて見せたあと
「……みなまで仰る必要はありませんわ。あなたのお世話をさせていただいているうち、あなたのことが何となくわかりましたの。奇妙にお思いかも知れませんが」
イルメシアの眼差しが俄に深くなった。
「きっとこれも、聖なるアミュードのお導きでしょう。あなたには、この先何かの使命がおありなのだと思います。だから神はあなただけ命をお救いになられたのです。その命を、安易に放り出してはなりません。余計なお節介なのは承知でお話しさせていただきますけれども」
「……!」
口調こそ穏やかだが、言葉裏に凛とした侵し難い威厳がこもっていた。しかも、言葉にはせねどある程度レヴォスの身上を嘘偽りなく認識しているらしかった。彼がテロ組織ジャック・フェインに所属していた人間であり、内心ではこの後、ゴーザ派に復仇を加えつつ最期を遂げるつもりだということ――。
自分の心の奥底まで見抜かれたような気がして、何も言えなくなったレヴォス。
出会ってからというものろくに言葉も交わしていないというのに、なぜこの女性はここまでわかってしまったというのか。
イルメシアからそっと目を反らしたレヴォス。
その強い瞳を正視し続けることができなかった。
しばらく彼は白いシーツを凝視しつつ、どう応答したものかと考えていた。単に自分の覚悟を示すだけでは、逞しい意志をもったこの女性を納得させることなど不可能に思われた。
やがて、ゆっくりと顔を上げると
「お気持ちは嬉しいですが……私は国内外の当局から追われている身です。渡航に同行などすれば、あなた達に迷惑をかけることになる。申し訳ないが、私は――」
イルメシアの態度が毅然としているから、自然レヴォスも言葉を丁寧にした。はっきりとした理由を示しつつ、あくまでも一緒に行くことはできないという意思を伝えようとした。
が、彼女はふふ、といたずらっぽく笑って
「ご心配には及びませんことよ? これがあれば、今やどこの国家へでも入国できまして?」
肩にかけている純白のショールをつまんで見せた。
その意味が、レヴォスにはすぐ理解できた。
アミュード・レア・ニスティは世界各国からその人道的かつ積極的な平和活動を高く評価されている。
その信用度たるや、会員が渡航の際に身分さえ証明できればほとんどの国・地域で入国拒否されないというところまできている。そうなると悪質なテロ組織などにレア・ニスティの立場を利用されてしまいそうなものだが、しかしながらレア・ニスティのやり方は徹底していた。
会員が海外へ渡航する場合、レア・ニスティ本部から各国外務局や入国管理局へ会員の渡航目的や滞在日数など全ての情報が通達されるのである。これがある以上、レア・ニスティの覆面を被ってカムフラージュなどできたものではなかった。
もう一つ、レア・ニスティは社会慈善活動にも力を入れている。
この活動はカイレル・ヴァーレン国内のみならず海外においても活発で、会員達は所用で渡航する度に滞在先の福祉施設や公共施設において何かしらの慈善活動を実施する。しかも、あらかじめその予定や詳細まで通知してしまうから、レア・ニスティ会員を名乗る者が慈善活動を行わないでいれば周囲から自動的に怪しまれることになる。こうした取組の効果は絶大で、レア・ニスティ設立以来犯罪組織などから隠れ蓑に利用されたケースは皆無であった。リン・ゼールやゴーザ派が嫌がる筈である。
そのレア・ニスティの強力な立場と権利を、レヴォスにも与えようとイルメシアは言っている。
確かに、そうなれば国際指名手配犯のレヴォスといえども各国当局は容易に手を出せまい。そもそも彼の人相は国内外でもほとんど知られていないから、海外に高飛びしたところで身柄を拘束される恐れは少なかったが――。
「そ、そんなことをしてはレア・ニスティに申し訳が立たない! 私とてアミュードの系譜を引く組織に身を置いてきた者です。アミュードの教義を唯一遵守しているといってもいいその組織の名義と立場を自分のために利用するなど、それは聖なる神への冒涜ではありませんか!」
建前ではない。
レヴォスとて、成り行きとはいえ信仰者の端くれである。信ずる神の代行者である組織を利用するなど、信仰者としてもってのほかではないかと思うのである。
が、イルメシアは事も無げに
「いいえ、そうではありません。使命を果たそうともせず、せっかく与えられたその生を自ら絶とうとする行いこそ神への最大の冒涜ですわ。生きていればこそ、人は神に報いることができる。そうはお思いになりませんか?」
「……!」
絶句したレヴォス。
死へ、死へと向けられていた自分のたった一つの退路を、完全に絶たれたような気がした。
イルメシアの一言は、真の信仰者の態度として非の打ち所がなかったからだ。
死んだ人間など、何の役にも立たない。食えるだけ、牛や豚のほうがましというものである。
例え手足を喪おうとも、言葉や五感を喪おうとも、地位や名誉や財産を失おうとも、人間は生きて生きて生き抜いてこそ、果たせる役割がある。
そこに気付かされたからこそ、レヴォスは反論する余地を失ったといっていい。
ふと、恩人ウィグが最期に遺した言葉が脳裏を過ぎった。
『どうか生きて、俺と、四年前に斃れた同志達の思いを、つないでくれ! 生き残ることは、何よりも苦しいと思うが――』
そうだった。
ウィグの最期の命令であり、希望。
彼はレヴォスに「生きる」ことを命じた。
否、願っていた。
(俺は……ウィグさんやケレナの元へ逝くことを、まだ許されないのか……)
かといって、生き続けたところで自分に何ができるとも思えなかった。
全てを失った今の彼にとって、生き続けることは巨大な絶望でしかない。
そんな彼の心情がわかるのか、イルメシアはじんわりと染み入るような笑みを浮かべ
「海向こうに渡れば、私達の活動に協力していただきたいのです。社会というのは大勢の人が集まっているだけに醜く薄汚れた部分がたくさんあります。――でも、絶望して嘆いてばかりいても何も始まらない。一人でも多くの同志が集まって心を合わせ行動を起こせば、それだけ社会が良くなるのです」
「……」
そっとレヴォスの手を両手で包み込みようにしながら
「あなたのように逞しい男性のお力を貸していただければ、レア・ニスティは今よりももっと素晴らしい活動ができると思いますの。一人一人が力を合わせて社会を変えてゆくなんて、とても素敵なことじゃありません? そう思えば、レア・ニスティの立場をお貸しすることくらい、何でもありませんわ。あなたにはまだまだ使命があるのですもの」
嬉しそうな顔をした。
いつの間にやら一方的にレア・ニスティの活動要員に組み込まれてしまっているような格好になっているとレヴォスは思ったが、黙っていた。この婦人はそういう名目をつくり出すことによって、何もかも失った彼に生きていく方向性を与えようとしているようだったからである。
それはともかく、まさかテロ組織の人間が社会慈善活動の奉仕者になろうとは――。
正直なところ戸惑う気持ちが小さくなかったが、今はこの婦人、そしてその夫であるという人の好意を受け入れるよりない。
「一つだけ、聞かせていただきたい。――なぜ、そのように私に好意を見せてくれるのですか? あなたは私がどういう者であるか、おわかりになっている筈だ。それなのに……」
「さっき申し上げた通りですわ。全ては聖なるアミュードのお導き。あなたがどのような生き方をされてきたのかは問題ではありません。あなたがこれから何をなさるか、ということが一番大切なのですもの」
答えになっているようないないような言い方だったが、ともかくも彼女としては深く思うところがあるらしかった。もしも彼女に天真爛漫の笑顔とレア・ニスティの身分が伴っていなければ重ねて断るところだったが、ここまで言い切られてしまっては断りようがない。
ついでにいえば、イルメシアの誘いは強い信仰心に裏打ちされている。
レヴォスもまた経緯はどうあれ同じ系列の信仰を保っているから、曖昧ながらも彼女に対するある程度の信頼感を抱かなくもない。この心境は同じ宗教者同士でなければ理解できないであろう。
抗弁する意志を喪ったレヴォスは、ふと気になっていた質問を発した。
「失礼を承知でお尋ねしますが、ご主人はその、どういう……?」
「イリオスと申しますの。今はSCCの海外事業統括部におりますけど、今度異動が決まりまして。ここへは搬送の時に来たきりですが、毎日あなたのことを気にかけていますわ。とても優しい主人ですの」
長く美しいまつげを伏せたイルメシア。
頬が赤く染まっている。
よほど情愛の濃やかな夫婦であるらしい。
が、そんな彼女とは対照的に、レヴォスは愕然として凍りついた。
(スティーレインだと……? 俺はどこまでもスティーレインと縁が切れないというのか……?)
「――課長、今……なんと?」
「言った通りだよ、エド君。SCCへの事情聴取については、今回は見送ることに決定した。これは上の判断だからね、君もその辺をよくよく理解して――!?」
捜査課長モルトはそこで説諭を中断しなければならなかった。
前に立っていたエドが突然、凄まじい形相でデスクを叩きつけたからである。
その衝撃で、山積みにされていた資料の類がどさどさと雪崩を打って床に落ちていく。
「理解できるワケないでしょうが! SCCが投資する巨額な金の行き着く先がどこであるか、課長だっておわかりでしょう!? ナッシュ・マテリアル社は表向き資源開発業者だが、裏の顔はテロ組織の強力なシンパだ。SCC経営陣がそのことを知らぬ筈がないでしょお! これはもう、立派なテロ活動幇助ですよ! 事情聴取だって生ぬるい、即刻家宅捜索に踏み切るべきです!」
モルトの顔ぎりぎり、ほとんどキスしてしまいそうな距離まで迫っているエド。
精一杯威厳を見せつけようとしていたモルトはすっかり怯えてしまい、ミリ単位で後退りを始めた。
それと気付いたエドはすかさず声を一段と張り上げ
「課長っ! 課長は悔しくないのでありますか!? 警察機構本庁きってのベテラン刑事をむざむざとテロリストごとき畜生の集まりの手にかけさせてしまったんですよ!? それでこの」足元でせっせと書類を拾い集めているメイファをびしっと指し「右も左もわからん新人がさんざん苦労してようやく事件解決への手がかりをつかんだというのに。あなたは部下の苦労を踏みにじろうっていうんですか!? それでも警察機構本庁捜査課の課長ですか!?」
頭上から落ちてくるエドの罵声を聞きながら、ほんのりとした喜びを感じているメイファ。
(エド先輩、私の苦労を課長に力説してくれるなんて……! ちょっとだけ、報われたかも)
そこまでは良かった。
――が。
「今行け! すぐ行け! 令状とってこい! すぐにだ! じゃないと承知しないぞ!」
こともあろうに、エドはモルトの胸ぐらをつかんで揺さぶり始めた。
完全に頭に血が上ってしまったらしい。
「エ、エド君! やっ、やめないか! ここは一つ、冷静に話し合おう! 冷静に! なっ!? 君も警察機構の人間なんだから――」
「やかましい! 冷静もクソもあるか! さっさと令状の手続き取れ!」
「せんぱーい! 落ち着いてくださいよぉ! 課長の首締めちゃダメですぅ――」
慌てて書類の束を放りだし、エドを制止しにかかったメイファ。
「止めるんじゃねぇ、メイファ! こいつはテロリストだ、テロリスト! リン・ゼールから幾らもらった!? えぇ!?」
エドの怒りは凄まじく、メイファが割って入ったところでどうにもならなかった。
捜査が後手後手に回っている組織への不満や、毎日の過酷な捜査活動で神経が著しく磨耗しているということもあったのだろう。
「先輩ってば! もう、止めてください!」
「エ、エド君、首、首が……」
三人の揉み合いはややもしばらく続いた。
そこへたまたまやってきたウォレンが
「おい、エド! いい加減にしないか! 課長を締め上げたって事件の解決にゃならんだろうが!」
一喝したため、ようやくエドは大人しくなった。
さもなければ、モルトは絞殺されてしまっていたかも知れないが――。
半泣きになっているメイファから事情を聞いたウォレンは
「……それは、課長。立場はよくわかりますが、しかし我々現場の人間が納得できる内容ではありません」エドとメイファ、二人に代わる代わる視線を向けてから「彼等が毎日血の滲むような苦労をして捜査にあたっていることは、この私がよく知っています。せめて、二人を労う意味において、多少の説明が伴っても罰は当たらないと思いますが」
切々としたウォレンの言葉に、モルトは黙って耳を傾けていたが
「ならば、話そう。三人とも、これから私が話すことはくれぐれも口外無用にしてくれ給え。本来聞かせてはならない内容だが、それを話すということが私の君達への信頼の表れだと思ってもらえればありがたい」
先刻の一件は不問に付す、ということなのか、モルトはそのことには言及しなかった。
彼はしわくちゃになったネクタイを直しながら、
「……私とて、メグル君の仇を討ちたいという思いは君達と一緒だ。だからこそ、SCCへの事情聴取に踏み切るよう、部長を通じて総監へ上申したのだ」
メグル殺害の一件は警察機構組織に対する重大な侮辱であり挑戦といっていい。果然、警察機構本庁では投入しうる限りの捜査員を動員し、被疑者確保に全力をあげる姿勢をとった。
が、手がかりが極めて少なく、捜査は難航する様相を見せた。
そこへ、たまたまメイファが発見したメモ紙からスティーレインという新たなキーワードが捜査線上に浮かび、エドとメイファはスティーレイングループ系列各社をしらみつぶしに聞き込みして回った。
死んだメグルが遺した「スティーレイン、金の流れ」という短い文章。
それはどうも、SCCによる海外企業への巨額の投資を意味しているようであった。
調べてみると、なるほど怪しい。
SCCと協力関係にあるカイレル・ヴァーレン共和国の企業「ナッシュ・マテリアル社」は過去に裏でテロ組織に資金提供を繰り返しており、各国の当局からマークされている、いわば札付きであった。
しかもSCC側では巨額ともいえる投資をトップである会長サンテスと側近だけで極秘裏に、かつ一方的に決定した形跡があり、それと気付いたグループ会社社長連中からさんざんな突き上げを食らったという。
不可思議な点はまだまだある。
折からの不況と実効性の薄い海外事業偏重で経営が行き詰まりつつあるSCCが、なぜこのタイミングで巨額の投資など行うのか。国内では中小規模のグループ会社が次々と消滅しつつあるというのにだ。
それに、SCCからの投資によって進行される鉱物資源採掘プロジェクトだが、バックにはカイレル・ヴァーレン政府もついており、SCCの他にも巨大企業が数社参画している。正真正銘一大事業である点疑いを入れる余地はない。
ただし、その投資額が大きな割にSCC側にもたらされる利益が甚だ不明瞭なのである。
メイファが親友のリナを介して秘かに探りを入れてもらったのだが、SCC本体の誰もその内容を知らないという驚くべき事実が判明した。会長サンテスが極端なワンマン経営者という事情も大きかったのであろうが、それにしても一社の命運を賭して実施される事業計画の見込みを社員が全く知らないというのでは、余りに粗雑すぎる。穿った見方をすれば、公に出来ない事情があると受け取られても仕方がないのだ。
証拠となる材料は少なかったが、それでもエドは確信を深め
(これはSCCが裏で一枚噛んでいると思っていいな。サンテス会長が海向こうで本腰を据える前に、本社に踏み込む必要がある)
そのようにモルトに報告した上で、SCC経営陣から事情聴取を行うよう進言した。
モルトは頷き、捜査部長を経由して総監まで通じた。彼等も、モルトの上申に前向きな態度を示した。
ところが。
「……国家公安機構から待ったがかかった。理由は明らかでないが、総監のお話では、どうやら合衆国議会のとある大物議員の差し金らしい。今回のプロジェクトに警察機構は手出しをするな、ということなんだろうね。何やら重大な含みを感じるが、我々の力ではこれ以上どうすることもできない。――どうだろう、エド君。少しは答えになったかね?」
「合衆国議会議員、ですと……?」
エドは呆然とした。
捜査の妨害者は思わぬところにいたのだ。よりによって、政府関係者ではないか。いかに警察機構本庁総監といえども、太刀打ちできるような相手ではない。
これにはウォレンも息を呑み
「で、では課長、メグル警部殺害事件は、このあとどうすれば……?」
「捜査は続行するよりあるまい。ただし、事件解決への道筋は絶たれたといってもいいだろうね。――遺憾だよ、ウォレン君。極めて、遺憾だ。しかし、我々にはどうすることもできない……」
そう呟くように言って、不愉快そうに表情を険しくしたモルト。
震える拳に、悔しさが滲み出ている。