落日編5 明滅
都市中心部N地区にあるSCC本社ビル四十三階、特別会議室。
ちょっとした運動場ほどの広さを持つその部屋では、先ほどから怒号の応酬が続いている。
「いい加減にして貰えませんか!? これは決定事項なのですよ! グループの将来を見据えた長期経営計画に基づくプランとして、会長のご判断をいただいたのであって――」
部屋の奥手中央には立派な木製の演壇が置かれ、三十代とおぼしき一人の男性が立っている。
彼の眼前には、何十人もの社長連――スティーレイングループ系列会社の――が居並び、皆敵意に満ちた刺すような視線を男性に向けている。雰囲気はかなり険悪といっていい。
男性は顔を上気させながらマイクが壊れんばかりの勢いで喋りかけたが、最前列にいた社長の一人がそれを遮るように
「馬鹿も休み休み言え! ろくに我々に提議も寄越さないでおいて何が会長の判断だ! 全てはお前達海外派の企てだということはわかってるんだぞ! スティーレインはグループ総体で経営が成立しているのであって、SCCの単独運営ではない筈だがね!?」
凄まじい罵声を浴びせた。
すると、その斜め後ろの席に座っていた中年男性の社長が頷き
「私もそう思う。州経済はおろか国家レベルでの不況下だというのに、どこの馬の骨ともわからぬ海外企業のプロジェクトに多額の投資など、自殺行為としか言いようがないだろう。傘下グループ企業はどこも悲鳴を上げているのだが、君達の耳には聞こえていないんじゃないのかね? ……そういやイゲル君、ここしばらく、我が社が位置するE地区で、君の姿を見ていないような気がするのだが」
口調こそ静かだが、それだけに批判としては痛烈である。ろくに系列企業に顔も出していないだろうと露骨に皮肉っているからだ。発言を聞いて嘲笑を浮かべた者が何名かいる。
が、イゲルといった演壇の男性は怯んだ様子も見せず、その社長の方に身体を向けると
「だから、申し上げたではないですか! ナッシュ・マテリアル社はカイレル・ヴァーレン国内においてナンバーワンの実績を誇るエネルギー資源開発企業なんですよ! どこの馬の骨ともわからぬ、などと仰るようなリュード社長こそ、少し認識が甘いと申し上げざるを得ますまい」
語気を強めて反駁した。
系列とはいえ一企業の社長に対する物言いとしては甚だ無礼なようだが、これには理由がある。
彼が立つ演壇の左側に設置されている簡易デスクに、数人の男達が社長連と向き合うようにして横一列に並んで着席している。
その中央、眉間にシワを寄せ神経質そうに身体を揺すり続けているのは会長・サンテスであった。
つまり、イゲルは会長側の人間であり、会長の威光を借りて発言している。この場の中ではもっとも若いと思われる彼が強気に出るのも当然であったろう。
しかし、リュードといった男もタダ者ではないらしい。少しも顔色を変えることなく
「実績ナンバーワンは結構だが、事実を隠蔽したまま強引に事を押し通そうとするのは天下に響いたスティーレイングループのあり方として、いかがなものかと思うがね。――ロット社長、例の話を」
と言って、ちらと左隣の人物を一瞥した。
目線に気がつくや、ロットなる男性は軽く頷きつつやおら立ち上がった。
若い。
一見、イゲルよりもさらに年若である。小柄ながら全身から精悍さを漂わせており、侵し難い威厳すら感じさせる。しかしながらよく整ったその容貌は至って柔和であり、若者にありがちな戦闘的な雰囲気というものが微塵もない。彼にあるのはむしろ、老成されたそれであった。
ロットはイゲルに正対しつつピッと背筋を伸ばし「ストレイア工作所のロット・ソーンです」と名乗ってから、よく通るキレのいい声で話し始めた。
「ただ今イゲル氏が仰ったナッシュ・マテリアル社について、お尋ねしたいと思います。――同社は五年前、アルテミスグループが組織ぐるみで引き起こした我が社への業務妨害事件に内々で関与していた疑惑が濃厚です。これはヴォルデ前会長存命の時点で既に州警察機構本庁から我が社へもたらされていたものですが、今お揃いのグループ経営幹部の方々はご存知でしたでしょうか?」
広い会議室内にたちまちどよめきが起こった。
大手企業グループ、アルテミスによるスティーレイングループ業務妨害事件。
スティーレイン系列会社に籍を置く者なら誰でも知っている、聞くも忌まわしい出来事である。
他州に本拠地を置く同社は各産業分野において短期間のうちに目覚しい業績を上げ、やがてファー・レイメンティル州へと進出を果たしてきた。政財界からその成長振りを注目されたアルテミスグループだったが、彼等の台頭と時を移さずしてスティーレイングループ系列施設に対しテロ組織による襲撃が頻発するようになる。その対応にStar-lineは忙殺されたのだが、行く先々で常にアルテミスグループ系CMD専門警備会社「Moon-lights」が出没し、Star-lineの警備業務を陽に陰に妨害し始めた。Moon-lightsの行為は次第にエスカレートし、遂には出動してきたStar-line部隊を闇に紛れて襲撃、負傷者を出す事態にまで発展する。
業を煮やした時の会長ヴォルデはあらゆる手段を講じてMoon-lightsの犯罪性を立証、警察機構の協力も得て彼等をStar-line本部舎へ誘き出した末、主要メンバーの身柄を確保することに成功した。
のち警察機構の捜査により、アルテミスグループは最大のテロ組織である「リン・ゼール」と連携していたことが判明し、会長ガルフォは逮捕されるに至る。直後、アルテミスグループは瓦解し、同時にファー・レイメンティル州におけるテロ組織の活動も収束を迎えたのであった。アルテミス社はテロ組織の資金的シンパであったことが、この時知れた。
イゲルが激賞して止まない「ナッシュ・マテリアル社」は当時、そのアルテミスグループと水面下で手を組み、スティーレイングループ妨害に関与していたという。
ロットがそこまで端的に説明を加えた時、居並ぶ経営幹部の一人が話の腰を折るように叫んだ。
「ま、待ちたまえ、ロット社長! それならばだ、なぜ同社は警察機構の摘発を受けないのかね? 矛盾しているじゃないか! この重要な会議の場で、いい加減な発言は遠慮したまえ!」
隣席の幹部が同意するように激しく頷いた。
アルテミス社は警察機構の摘発を受けている。関与していたというなら、ナッシュ社もまた当局に押さえられて然るべきであろう。この点、誰もが突き当たる疑問に過ぎない。
が、ロットは少しも動じた様子を見せず
「まァそう慌てずに、とりあえず私の話を最後までお聞きいただきたいものです」ニヤリと笑ってから先を続けた。「――よろしいですか? ナッシュ社が警察機構の摘発を受けずに済んだのは、まず第一に当社への妨害行為が間接的なそれであったからです。同社は資源採掘事業に加え、鉱物加工技術の研究にも長年取り組んでいる。Star-lineを襲撃したMoon-lights所属のCMDは軍用機と同等といっていい驚異的な運動性能を有していましたが、この機体の可動部素材を極秘に提供したのがナッシュ社です。どうやら、この取引をめぐって莫大な金が動いた形跡があります。……これが国内であるなら公安機構も動いたでしょうが、残念なことに機体の製造は海向こうだった。だから、物理的な証拠があるのに摘発に至らなかった訳ですよ。肝心のカイレル警察はアルテミス社を恐れ、証拠不十分を理由に捜査協力を渋ったんです」
なかなかの雄弁である。
言葉に少しの澱みもない。いちいち挙げる事実が仔細に及んでいる上に、要点を簡潔かつ的確に衝いている。
いつしか、会議場内は水を打ったように静まり返っていた。その場にいる者は皆、彼の弁舌に引き込まれてしまっていたのである。
ロットはそこまで喋ってから一呼吸の間をおいた。
聴衆の関心は自然と次の言葉に向けられている。
「警察機構の捜査の手を逃れた理由はもう一つ。これも今の話と状況は被りますが、要するにナッシュ社とリン・ゼールあるいはテロ組織を関連付ける決定的な証拠が得られなかったのです。これもさっきの話と状況は被りますが、要するにカイレル警察ならびにカイレル政府に原因があるといってよろしい。稀少鉱物であるダイラルド鉱石が埋蔵されているノース・レム地区開発にあたって、カイレル政府は土着テロ組織の反政府活動に手を焼いた。ですが、ナッシュ社が政府から同地区開発事業を請け負うに及び、手もなく成功してしまった。なぜか?」
経営幹部はじめ、系列会社社長連の視線がロットに集中している。
「――ナッシュ社からテロ組織に内密に莫大な金が流れたからですよ。しかもその金の出所はどうやらアルテミス社のようです。カイレル政府にしてみれば、喉から手が出るほど欲しかったダイラルド鉱石を確保してもらったものだから、ナッシュ社が裏で行った闇取引に勘付きこそすれ目を瞑らざるを得ない訳ですよね。アルテミス社は資金が豊富になったテロ組織に武器弾薬を売りつけるから、結果的に懐は傷まない。とんだ三者三得ゲームです。いかにヴィルフェイト国家公安機構がテロ組織撲滅を合言葉に協力を呼びかけたところで、どうにもならなかったのですよ。……こういうことです」
「……」
サンテス以下グループ経営幹部の誰一人、ロットの発言に抗弁しようとはしない。
その筈であった。
なぜなら、ロットはヴォルデの秘書兼側近としてごく近くにいた人物であり、ヴォルデは州警察機構はじめ国家公安機構上層部の人間にまで顔が利くだけの力を持っていた。たった今ロットが喋った内容はヴォルデが生前、その筋の人々から直々に得た情報であるという推測は簡単につくのである。であるから、信憑性は限りなく高い。
それに引き換え、リュードの前に座る社長某が指摘した通り、サンテスや現在の側近達は「海外派」と呼ばれ、長く海向こうにいた者達ばかりである。ヴォルデは国内にあって政財界での存在感とパイプを着々と逞しくしたが、サンテスにはそうした土台がほぼ皆無であったといっていい。海外に暮らしていたとはいえ、情報源のレベルが隔絶しているヴォルデにとても及ぶべくもないのである。沈黙をもって応えるよりほかなかった。
ヴィルフェイト合衆国と親密な関係にある隣国カイレル・ヴァーレン共和国は長きにわたってテロ組織撲滅に血道をあげてきたという経緯がある。ところが、その対決姿勢は必ずしも一貫されたものでなく、実利に供するとあらば間接的かつ巧妙な手段をして内々に協調してしまうという一面を持っていた。ナッシュ社の件にしても、カイレル政府は結果的に見て見ぬ振りをした。同国と協力関係を結んだがためにテロ組織から標的視され、多大な犠牲を払いつつも強硬な姿勢を崩さなかったヴィルフェイト合衆国政府とは行き方が違ってしまっている。ロットが指摘した内容には、そういった背景も裏打ちされていた。
頼みの経営幹部連が沈黙させられるという展開に、イゲルは一瞬言葉を詰まらせた。
が、彼もまた若くして巨大企業グループ中枢に食い込んだ、有能な人間である。
咄嗟に反論に用いる事柄を頭の中で整理しつつ、受けて立つ構えを見せると
「しかしですよ、ロット社長。仰ることは理解できますが、過去にアルテミスグループとナッシュ社が謀議関係にあったからといって、それが今日の同社を評価する重要な要素とはならないでしょう」
言い放った。
「企業活動というのは生き物だ。昨日の敵を明日の味方にしていくようでなければ、いつまで経っても事業拡大など不可能というものです。……第一、同社は四年前に組織改正を実施して体制を一新したではありませんか! アルテミス事件はそれよりも前の経営陣時代の――」
「そこが重要な点なのですよ、イゲル室長!」
待っていましたとばかりにロットが一段と声を励まし、イゲルの発言を遮った。
「ご指摘のお話について、まずアルテミス社との謀議は地区本部単位で極秘裏に行われていたのですが、しかしながら当時のナッシュ社経営陣はその事実を把握しながら容認しておったのです。組織改正云々についても、経営幹部の首をすげ替えこそしたが新任となったのは実質、前社長の息がかかった人間ばかりといっていい。クレッド副社長、メーレ専務、デゾル常務……どれもこれも、マセイン前社長の側近だった顔ぶれだ。マセイン氏が退いたとはいっても、組織改正とは名ばかりのダミー人事でしかない」
さらに彼は幾つかの事実を挙げ、ナッシュ・マテリアル社の不透明性、それに同社と提携する危うさを激しく衝いた。根拠とする事象が詳細を究めているだけに、一分の隙もない完璧な論旨である。
「――以上、警察機構当局や前会長から得た情報を元に、私が可能な限り調査した内容です。ご異存あると申されるなら、この」辞書のように分厚いファイルを高く掲げて見せ「調査書をお貸しいたしますよ。これを読んでいただくのが、手っ取り早いと考えます」
聴いていた系列会社社長連の多くが、驚きと感心の入り交じった表情を浮かべた。
この若造のどこにこれほどまでのバイタリティが秘められていたのか、そんな顔である。
ロットが代表取締役を務めるストレイア工作所は、スティーレイングループでも最小規模の企業に過ぎない。果然、その存在感は系列会社の中でも極めて薄いものであった。
ところが、その彼が今日になって突然、横暴なワンマン会長サンテス率いるグループ経営幹部に猛然と挑戦したばかりか、圧倒的かつ精密な論証によって黙らせてしまったのだ。皆、驚かぬ訳がなかった。
ロットにとって追い風であったのは、系列会社社長連のほとんどがサンテスに反感を抱いていたという事情による。海外事業拡大に熱中するサンテスは、ヴォルデが我が子のように大切にしていた国内の系列会社を粗略に扱った。どころか、さんざんに絞りとった挙げ句、使い捨てのように片っ端から潰し始めた。もはや国内事業では成算がないという観点によるものだったが、各社にしてみればたまったものではない。怨嗟の声が起こるのも、当然なことであった。
が、グループ会社というものは相互の業務協力関係があって初めて成立するケースが多く、スティーレインにおいても例外ではなかった。つまり、系列会社はSCC本体の支援がなければ継続運営にも事欠くのが実情だったのである。強引なやり方に腹は立つ反面、後々のことを考慮すれば会長の機嫌を損ねたくないというのが、系列会社社長連の本音でもあった。
今日の会議にしても、ナッシュ・マテリアル社が推し進めるプロジェクトへの巨額の投資計画を、経営幹部側はごく直前になってから一方的に打ち出してのけた。もはやグループ内部の意思統一を図るつもりが皆無であった証拠といっていい。系列会社の面々にしてみれば寝耳に水であり、馬鹿も休み休み言えと叫ばざるを得なかった。さすがに堪忍袋の緒を切った社長連の数名が怒気を発し、議事が停滞するという事態に陥ったのである。ところが相手は秀才をうたわれた経営室長補佐イゲルときた。古参社長連の相次ぐ罵声にも容易に屈しないばかりかしきりと挑戦し、社長会議はひたすら怒号ばかりが応酬する修羅場となった。
そこへ思いがけなくもリュードとロットが立ち上がって風穴をぶち開けた。
サントス以下経営幹部連にとっては予期せぬ反乱であり、系列会社社長連は日頃の怨嗟を晴らす痛快な一幕となった。
が、なぜ彼等がピンポイントでナッシュ・マテリアル社について詳細に偵知していたのか、サンテスらは衝いておくべきであったろう。つまり、経営上の重要機密事項がどこからか漏洩していたということになるからだ。しかしながら完全にロットの雄弁に呑まれた経営幹部陣は、それすらしなかった。疲れ切った表情から察するに、その余裕がなかったに違いない。
返答に窮したイゲルは救いを求めるようにサンテスの方を振り返り
「サンテス会長、何かご意見などございますでしょうか?」
発言を求めた。
が、それからのサンテスの沈黙はほとんど記録的であった。
彼は顔の前で手を組んで視線を卓の上に落としたまま硬直し続け、微動だにしない。
会議場内の誰もがくたびれてきた頃、ようやく手元のマイクに手を伸ばし
「……ナッシュ・マテリアル社は地下資源協約締結国各国政府主導の鉱物資源開発プロジェクト協賛企業にも名を連ねているという事実もある。同社との提携は、これを撤回する必要を認めない」
かすれ声で短くそれだけを言うと、再び黙ってしまった。
「……」
トップのコメントとしては些か心許ない内容ではあったが、逆に聴衆は毒気に当てられてしまった。癇癪持ちのサンテスが感情に任せて怒鳴り散らさなかったためしが過去になかったからだ。今も、グループ系列会社社長連は彼の大噴火があるものと予期していただけに、却って拍子抜けしたといっていい。
声を上げる者はない。
微かなざわめきだけが潮鳴りのようにさざめいている。
議事を仕切っていたイゲルもまた呆然としていたが、巧みに場の雰囲気をとらえ
「と、ともかく、本件をこの段階に至って再考することはカイレル政府及びナッシュ社への信義にもとります。ロット社長からのご意見は追って回答します。――予定の時刻を超過しておりますので、本日の社長定例会議はこれにて」
うやむやのまま、散会宣言を出した。
その一言を待っていたかのように、サンテス以下グループ経営幹部は腰をあげた。
ぞろぞろと退席していく彼等の様子を見つめていたリュード。
やがて周囲に人がいなくなるのを見計らってからつと、
「……お見事でしたな、ロット社長。それに彼も、だ。やはり持つべきは良き同志です。まずは第一段階、成功かと」
愉快そうに声をかけた。
が、ロットは携帯端末の画面に目線を落としたまま、浮かない顔をしている。
「経営幹部が本音を漏らすタイミングを今日まで待っていたつもりでしたが、逆に機を逸してしまったかも知れませんね。――たった今、望まぬ情報がきたところですよ」
「情報? 何か、あったかね?」
「ええ。――例のStar-line訴訟の判決が出ました。大方の予想通り、敗訴です。サンテス会長はこれを奇貨としてStar-lineの解散に踏み切るでしょう。容易ならぬ事態になりそうですよ」
ちらと背後を見やった。
Star-line代表取締役、セレア・スティーレインの座席が空いている。
「――捜査の進捗状況についての説明は以上となります。各自、事件解決に向けて一層の奮励努力をお願いいたします」
会議終了宣言と共に捜査員達が一斉に席を立ち、出口に向けて殺到していく。
やや遅れて立ち上がったエドはうーんと背伸びをしながら
「やれやれ。めぼしい情報はこれといってナシ、か……。厳しいなァ」
独りぼやいた。
すると
「エド! 一緒にメシにしないか?」
背後から声をかけてきた者がある。
振り返り見れば、ウォレンであった。同じ捜査課に籍を置く一期上の先輩でエドと懇意だったが、班が異なるから滅多に顔を合わせることがない。
エドは微笑して
「ああ、先輩も出席してましたか。今日の会議、なんか耳寄りな話はありましたか?」
「いやぁ、ないな。副知事殺害事件もメグル警部殺害事件も、被害者が被害者だからな。そう簡単にはいくまいよ。――ま、まずはメシにしようぜ。お互いの情報交換もかねて、よ」
「賛成です」
二人は連れだって食堂へと向かった。
食券を購入してカウンターでランチプレートのトレイを受け取り、近くの卓に席を取った。
昼時ではあったが、重大事件に関係する会議の直後であるせいか、昼食を摂りに来ている職員の数はまばらである。二百名を収容できる大食堂はがらんとしていた。
ウォレンは早速、小皿に盛られたサラダを二口ほどで食べてしまってから
「……で、そっちはどうなんだ? どこまでつかんだ?」
切り出した。
エドはメグル警部殺害事件を担当している。ウォレンはその進捗状況を聞きたいらしい。
「どうもこうもありませんよ。早くも手詰まりです。手がかりが余りにも少なすぎる」
そう前置きしつつ、知っている限りのことを掻い摘んで話してやり
「――って感じです。恐らくリン・ゼールあたりのテロ組織が一枚噛んでいるとは思うんですが、特定するための材料がない。お手上げです」
パンを千切り、忌々しげに口の中へ放り込んだ。
心底腹立たしげな彼の様子に、カラカラと可笑しそうに笑ったウォレン。
「ははは、捜査課二班の隼と呼ばれたエドがそう言うんじゃ、どうしようもないな。ま、それを言っちゃあ、うちの方もさ――」
彼が所属する捜査課一班は、州都市統治機構本庁で白昼発生したロゼル副知事殺害事件を受け持っている。現場が現場だけに、メグルの事件よりもまだ厄介なのだとウォレンは前置きして
「エドも聞いているだろう? どうシミュレートしてみても、ロゼル副知事は正面つまり知事が公務に使うデスクの位置から銃撃されたんだ。銃弾は一発きりだが、かなり強力な拳銃だったらしくて、心臓を貫通して背後の壁に刺さっていた。単純に考えれば――」
「犯人はディゼン知事というセンもありですよね? 知事のデスクに座れる人間なんて、知事本人以外にいないじゃないですか。もっとも、秘書が悪戯で座ったりするかも知れませんが」
エドも警察機構に入って間もない若い頃、捜査課長のチェアにこっそり座ってみたことがある。
ウォレンは頷き
「俺もそれを疑った。ところがだ、ロゼル副知事の死亡推定時刻、ディゼン知事本人は階下の会議室で主だった幹部達と打ち合わせをしていた。それは同席していた都市統治機構幹部が証言している。ただ……」
紙の様に薄い肉のフライを切り分ける手を止めた。
「当時、秘書室に秘書が五人ばかりいたんだよ。どれもこれも花のように綺麗なお嬢さんばかりだがな。彼女達はみんな、ロゼル副知事が血相を変えて秘書室に乗り込んできたのを鮮明に記憶している。これが殺害される直前、つまり副知事を最後に見た人々ということになる」
「へぇ……。で、秘書達は何と?」
「それがよ――」ウォレンの声が途端に小さくなり「……五人とも、その時はディゼン知事が知事公務室にいるものだとばかり思っていたらしい。で、ロゼル副知事から知事の所在を訊かれて、公務室にいるって答えているんだ」
と言ってから、急に肉を口の中へ放り込んだ。
背後に捜査課の面々がやってきていることに、エドも気付いている。話の内容が内容だけに、ウォレンは人目を憚ったのであろう。
ただ、肉を咀嚼しながらもごもごと
「……正直、証言がどうも噛みあってない。州知事ってのは毎日スケジュールを分単位で管理されてるんだぜ? そのために美女を五人もはべらせてんだ。強いて美女である必要はないがな。――それはともかく、秘書の与り知らないところで知事が動いていたってのは解せない。どっちの証言を取るかと言われれば、俺はお嬢さん達を信用するね」
なるほど、とエドは思った。
自分がウォレンの立場でも、同じ事を考えるであろう。
「しかし、先輩」
周囲に気を遣っているから、エドの声も控えめになっている。
「そうなると当然、火薬反応を調べなきゃならんでしょうけど、調べていないんですか?」
敢えて省略されているが「知事について」という含みがある。
「いんや、調べたさ。怒られるのを承知でな。……だけどあのディゼンっておっさん、ツラこそ厳ついが何でも協力しますとか言って素直に応じてくれたよ。結果はシロ。反応は出なかった。とどのつまり、秘書達の証言はともかく、疑ってもキリがない。――ただ」
「ただ?」
「どうしても気になる点が一つある。秘書室にやってきたロゼル副知事が血相を変えていたって、さっき言っただろ? それから知事公務室へ向かったということは、知事に対して何か抗議に値する事柄をもっていたとも考えられる。その副知事が直後に知事公務室で殺害されたとなると、話はちょいと穏やかじゃない。……おっと、続きはまたな」
それきり、二人は黙々と食べる事に専念し始めた。
俄かに食堂が混み始めたからだ。
同じ警察機構の人間ばかりであるとは言っても、担当部署以外の人間の耳に入れていい話とそうでない話がある。二人は状況をそれとなく察し、暗黙の了解で情報交換を中断したのであった。
そうして、程もない。
「エド先輩……」
背後からメイファがやってきた。
エドはちらと振り向いて
「メイファか。メシは食ったのか?」
「これから食べるところですぅ」
と言いつつ彼女はエドの隣に腰を下ろすなり、ポケットから透明なビニール袋を取り出して示した。
中には、小さな紙切れが一枚入っている。
「エド先輩、これなんですけど」
「あ? 何だ?」
メイファいわく、先日エドに連れられて殺害されたメグルの自宅へ捜査に出かけた時のことである。余計な手出しをしてはいけないと思った彼女はメグル宅の周辺を調べて回っていたが、すぐ近くの家庭ゴミの集積所で回収されていないゴミ袋を見つけたのだという。
「その中にこれがあったんです」
是非見てくれと言わんばかりの眼差しである。
が、エドはビニール袋にちらと一瞥をくれただけで
「おいおい、傍にいないと思ったらゴミ漁りなんかしてたのか。税務局職員じゃあるまいし」
関心なさげに言った。新人らしい目の付け所だが、玄人の刑事はそういう場所を調べたりはしない。事件現場付近や事件発生当日ならまだしも、時間が経過している以上証拠品の類が見つかったりする可能性は極めて薄いからだ。
ところが。
彼女の話には続きがあった。
「それがですね――」
その袋の中のゴミはろくに分別されておらず、そのために業者が置き捨てていったらしい。メイファがよくよく見てみると、デスロアという国内ではあまり流通していない輸入ビールの空き缶が混じっていた。
「いつだったかエド先輩、言ってましたよね? メグルさんはデスロアのビールが好きだったって」
「あ、ああ……」
確かに、故人の思い出話のついでに口にしたような気がせぬでもない。メイファの若い頭脳は、そんな他愛もない話をしっかり記憶していたようである。
「だから私、そのゴミ袋はメグルさんが出したものじゃないかと思ったんです。で、汚いから嫌だったんですけど中を調べてみまして」
そして、この紙片を見つけたらしい。
メイファの話を聞くよりも食べる方に集中していたエドとウォレンの手が止まった。
「……で?」
続きを促したのはウォレンである。同じ捜査課の人間だから、彼とメイファとは面識がない訳ではない。
「メグルさんの字だと思うんですけど、住所がメモってあります。確認をとってみたら、メグルさんの遺体が発見されたあの廃ビルの住所でした。あと、わずかに筆跡があるんですけど、殴り書きだからちゃんと読めなくて……」
「どれどれ」
俄かに関心を抱いたらしく、ウォレンがビニール袋に手を伸ばした。
彼は咀嚼をやめ、しばらくというもの中の紙片にじっと目を凝らしていたが、つと顔を上げ
「……おい、どうも『スティーレイン、金の動き』とか書いてあるように読めないか、これ?」
表情がひどく真剣なものになっている。
続けてエドも食い入るような目つきで紙片を睨んでから
「そのようですね。筆跡鑑定をしなけりゃ何とも言えませんが、発見の状況から見てメグルさんが書いたメモだと思ってまず間違いはないでしょう。デスロアの空き缶もさることながら、この癖字に見覚えがあります。――それにしても、スティーレインって……」
「……」
互いに顔を見合わせているエドとウォレン。
その二人の様子をメイファが眺めているという構図が少しの間続いていたが、
「おい、エド! これって……!」
「ですね! 新たな手がかりだ!」
いきなり叫んだ。
その声に、周囲にいた職員達が一斉に彼等の方を見た。
が、やや興奮しているエドは構わず
「お手柄だぞ、メイファ! もっと早く言ってくれれば良かったものを!」
「え、あ……。でもでも、エド先輩も忙しいから、ちゃんと調べてから話さないと迷惑だと思って……」
彼女なりに気を遣ったらしい。
「大事だと思ったら、遠慮しないでちゃんと話した方がいいぜ? こうやって、重大な事柄だったりすることもあるからな。それにしても、よく見つけたな」
ウォレンも褒めてくれた。
「あ、いえ、そんな……」
メイファが照れていると
「よし! メイファ、来い! 今からSCCに聞き込みに行くぞ!」
チェアを蹴ってエドが勢いよく立ち上がった。
会議直後にはガタ落ちだったテンションが完全にハイになっている。
「あ、え? あ、あの、私、お昼がまだ――」
「刑事がメシの心配なんかしてんじゃない! 食える時に食わない方が悪い! あとでパンでも買ってやるから我慢しろ!」
大声で叱り飛ばしたエド。無茶である。
が、そういう彼はちゃっかり昼食を食べ終えているのであった。
「あーん! 待ってくださいよぉ!」
二人はバタバタと慌しく食堂を飛び出して行った。
後に残されたウォレンは独りニヤニヤしながら
「エドのやつ、美人で真面目ないい後輩つけてもらったもんだ。羨ましいねェ……」
『セレアさん、何かコメントを!』
『解雇した社員達と、何かお話をされたのでしょうか?』
大勢のレポーターから差し出されたマイクを押しのけるようにして無言で法廷を後にするセレア。
テレビ画面の中のその表情は心なしか、虚ろに見えなくもない。
その、彼女だが――
「……情けない姿ですよね、本当に」
今まさに、目の前で小さくなってうなだれている。
国内外の政財界においてその美貌と聡明さで評判になったセレアであったが、今の姿からかつての彼女はとても想像できない。すっかりやつれ果て、まだ齢三十一だというのに年齢以上に老けてしまった観がある。苦労は人間を成長させるというが、癒やされない辛苦は人間から加速度的に生気を奪う効果しかもたないらしい。
すぐ傍に座っているショーコは何となく哀れになり、テレビのスイッチをオフにした。
「……とりあえずお茶、煎れますから」
ちょっとつつけば崩れてしまいそうになっているセレアなど、直視するに耐えない。
そう思い、ソファから腰を浮かせたショーコ。お茶を煎れるというのは、セレアの姿を見ないようにするための口実でもある。
オフィスを出て給湯室に向かう廊下を歩きながら、止めどなく湧き起こってくる複雑な思いを抑えることができなかった。
今日のスティーレイングループ内に渦巻く、混迷極まる事態を招いた原因の一端はセレア本人ではないか、と思うのである。そういうことはさすがに口に出すべきではないにせよ、ショーコとしては正直な気持ちを言えば腹立たしい。
三年前、前会長ヴォルデが逝去した際、後任に彼女を推す声がグループ内に強く上がった。
長年にわたってヴォルデを陰日向で支えてきた姿を多くの社員達が知っていたからである。グループ会社の全般にわたる現状把握力、判断力、トップとしての品格等々――彼女がまだ歳若いとはいえ、どれをとっても申し分なかった。
ところが、当のセレアは会長就任を固く辞退した。
「お爺様は生前、よく仰っていました。同族経営ほど愚劣なものもない、と。ですから、孫娘の私が会長となる訳には参りません。グループ内には、多くの有能な方々がいらっしゃるではありませんか――」
確かに、ヴォルデはスティーレイングループの草創期に同族経営がもたらす悪弊にさんざんに悩まされた。当時セレアはまだ幼かったものの、大好きな祖父が苦しむ姿は目に焼き付いている。ヴォルデの親族連中が彼の失脚を狙って様々な策謀を仕掛けたのである。彼等による不測の事態を避けるため、彼女は長い期間にわたって海外暮らしを余儀なくされた。これは後にスティーレイン事件と呼ばれる、犠牲者まで出した最悪のスキャンダルである。
その事情を知るショーコとしては、彼女の気持ちが理解できぬでもない。
理屈としては、もっともであろう。
が、当時のヴォルデと今のセレアでは明らかに立場も事情も異なるという点を考慮すべきであったに違いない。ヴォルデの周囲には隙あらば彼に取って代わろうとする野心を抱いた親族ばかりであったが、セレアは彼の経営理念を根底まで理解し、その実現のために奔走した行動者である。彼女を後釜に据えたところで、同族経営だと批判する方が筋違いでしかない。
しかしながら、セレアはとうとう翻意しなかった。
そういう彼女が犯した最大の過ち、それはグループ内の人事権までも放棄してしまった点にある。会長の座はともかく、せめてグループ経営幹部の地位に留まっておけばある程度の均衡が保たれたものを、それすら辞退した。潔癖といえば聞こえはいいが、その後のグループ経営に思いを馳せれば、決してそうすべきではなかったといっていい。理念理想に固執した結果、サンテスなどという野心丸出しの愚にもつかぬ男にグループ経営を簒奪されてしまったではないか。
今や彼女の地位は一系列会社たるStar-line代表取締役以外の何物でもない。セレア擁立派の策動を恐れたサンテスとその側近によって、彼女のスタンスが一方的に制限されてしまったのだ。当然、グループ本体の経営に関する発言権は一切ない。
挙げ句の果て、サンテスが独断で強行したStar-line組織縮小に伴い解雇された元社員から訴訟される事態に至り、セレアは一人その火の粉を被らされる羽目に陥っている。この騒ぎが起こったのは半年と少し前のことだった。
以来、張本人の会長サンテスは一切の責任を彼女に負わせる態度をとり、訴訟の進行についてはまるで無関心だという。世間はそうした事情に勘付きつつも、報道する側においては被告側代表であるセレアを弾劾する内容に仕立て上げざるを得ない。ただし、それとて元の元を辿ればセレア本人にも責任がなかったという話にはならないのだ。
その判決がさっき出たと、夜も遅くなっていたが彼女はわざわざ報告にきた。
敗訴。
州裁判所は元社員等原告七名の不当解雇を認めた上で、再雇用の訴えについては棄却したものの、Star-lineに対し二億五千エルの慰謝料を支払うよう命じた。解雇通告が突発的かつ一方的なものであり、明確な国家労働法違反にあたるというのがその理由である。
誰が見ても、今のStar-lineの事業規模からいって単独で支払えるような金額ではない。Star-lineはグループ会社専門の警備会社であり、営利活動を行っていない以上収益など存在しないからだ。ただし、グループ本体であるSCCには、系列会社の保護をはかるべく対応策――債務の代理履行――を講じる責任がある。
ところが、州裁判所を出てから会長サンテスの元へ直接報告に向かったセレアに、彼は面会すら許さなかったという。代表取締役たる自分で事態を収拾せよ、という意味であるらしい。もはや、SCC本体のフォローは期待できまい。フォローどころか、サンテスはこれを口実にすぐStar-line潰しにかかってくるであろう。負債を抱えたグループ会社を処理するには、潰してしまうのが手っ取り早い。
問題は、その負債である。
Star-line立ち枯れの原因がSCCの要らぬ横槍にあるとはいっても、歴とした代表取締役を戴いている以上、その立場にあるセレアへの責任追及は免れない。SCCがその気になれば、経営責任を盾に取って負債の一部をセレアに負担させるべく訴訟を起こすことも可能なのだ。むしろ、SCCには既にその気配があると、彼女に好意的な顧問弁護士がこっそりと教えてくれていた。
そういう同情派はグループ内部に大勢いるものの、かといって彼等が具体的に手を差し伸べてくれる訳ではない。こののち、Star-lineの借金だけを押し付けられたまま、一人グループから放り出されるであろう。
ここへきて、セレアは孤立無援の窮地に立たされた。
もはや拠るべき足場はどこにもない。
強いて挙げるならば、ただ一人瓦解寸前のStar-lineに踏みとどまって黙々と業務に就いているショーコという存在であった。彼女だけは、セレアに対してどういう愚痴も不満も漏らさなかった。
今となってはセレアにとって唯一心を許せる人間、といった役回りであったろうが、ショーコ本人はやや立場を異にしていた。
刻々と不利に傾いていく、Star-lineを取り巻く現況。
それを冷徹な眼差しでじっと見つめる、いわば観察者の心境だったかも知れない。
ショーコがとりわけ強く思うのは
(セレアさんも変わっちゃったわね。ヴォルデさんが亡くなったのがよほど響いているみたい)
彼女の心境を推察すれば、そうであろう。
両親という人間に恵まれなかったセレアを唯一護り慈しんだのは誰でもない、祖父ヴォルデであった。彼女にとっては天地に等しい存在であったといっても過言ではない。その祖父を喪い悲嘆にくれている彼女に、グループ経営の重責が容赦なく圧し掛かっていった。
悲しみに打ちひしがれながらも、セレアは自分なりに祖父の築いた会社を守ろうと必死に考えた。
そういう姿を知っているショーコとしては、大いにセレアを支えてやりたい気持ちがなくもない。
しかし――。
(放り出すものとタイミングを誤ったのよ。セレアさん、捨ててはいけないものを、捨ててはいけない時期に捨ててしまった……)
ショーコにはグループ経営への発言権など当然ないし理解もできないが、せめてセレアが経営幹部の座を蹴る前に、その胸中を明かしてくれたなら――。
(泣いてでも止めてあげたのに。全て放り出して土壇場になってから泣きつかれても、後の祭りなのよね)
セレアと抱き合い心中をする気になれないのは、これが大きな理由だった。
悪く言うつもりは毛頭なかったが、かといってショーコはセレアのカウンセラーではない。そもそも、年齢も立場も下の人間に(メンタルの部分でほんの若干とはいえ)救いを求めるという行為自体いかがなものか、と思うのである。過去にも何度かよく似たことがあったが、窮地に陥った時に頼る対象として、セレアはショーコを選びたがるのである。
隊の運営に関わる話なら、正面から向き合う責任があるといっていい。
しかし今日の今、問題の次元はショーコの遥か頭上を飛び越え、手の届かぬところにある。それを、一介の中間管理職に過ぎない自分にどうせよというのか。しかも、事態はほぼ万事休している。相談にのって欲しいのはむしろショーコの方である。幾許もせずしてStar-lineは消滅し、彼女は路頭に放り出されるのだ。寝酒が飲めなくなったらどうしてくれるんだと、逆に憤りの一つもぶつけてやりたいくらいである。
むらむらと腹が立ってきたが、給茶ポットにお湯を注ぎつつ彼女は思い返した。
(ま、ヴォルデさんとかサラとか、セレアさんの周りにはいつも誰か介添え役がいたものね。人間、生きてきたようにしか生きていけないものだわ――)
冷静になって考えてみれば、つまるところそういうことではないかという気がする。
が、そんな分析など今さら何の役にも立つまい。精根尽き果てようとしているセレアにとって必要なのは事態の分析よりも百万の励ましよりも、たった一杯のお茶であるに違いない。
ショーコは大きく一つ溜息をつくと、ポットとカップをトレイに載せてオフィスに戻った。
セレアの前でカップにお茶を注いでやり
「どうぞ。安物ですから、美味しくはありませんけど……」
勧めた。
経費が出ないから自前の茶葉ですけど、とまでは言わなかった。
「ありがとうございます、ショーコさん」
カップを手に、一口啜るなりセレアは
「あぁ、美味しいお茶……」
心の底から安堵したような声を出した。
もしかすると、ここしばらくというもの彼女にお茶を煎れてやった人間は誰もいなかったのではないか――ショーコはふと、そんな気がした。いかに安物であろうが、他人に煎れてもらったお茶というのはわずかでも心を癒す効果があるという。その昔、Star-lineの隊員で事務担当だったブルーナという女性がそんなことを言っていたのを思い出した。
お菓子を与えられた子供のように無邪気な表情をしているセレア。
その彼女を、ショーコはじっと見つめている。
(タイミングは今しかないけど……果たして、言っていいものかしら?)
躊躇せざるを得ない。
目の前のセレアはここしばらく心の休まる暇さえなく、今ようやく気持ちの緊張を解く瞬間を得ているのだ。
が、言わねばならない。
報告を先延ばしにしたが最後、事態を悪化させるだけのことである。
ショーコはすぐに決心すると
「……ところで、総指令長」
セレアはStar-lineの代表取締役兼総指令長の役割も担っている。敢えて、その肩書きで呼んだ。
「はい。どうかしましたか?」
「こんな時に何ですが……一点、どうしてもお耳に入れておかねばならない話があります」
ショーコは内ポケットから四通の封筒を取り出し、セレアに差し出した。
「中身が何であるか、もうおわかりのことと思います」ソファの上で居住まいを正すと「……昨晩、ヨナ、アデン、フィック、エリオの四名が揃ってこれを提出してきました。あたしは隊長として、これを受け取る前に隊員達を慰留する責任があったかも知れません。ですが、会社運営がここまで危機的な状況に追い込まれた以上、強いて引き留める理由が見つかりませんでした」
「……」
「……いや、本音を言えば、引き留めてはならないように思ったんです。彼等はまだ若く、前途があります。今ならまだやり直しも効くでしょう。ですから――」
言い終わるのを待たず、セレアは無言で封筒を受け取った。
そのまま膝の上に置いてじっと見つめている。
幾許もしないうち、封筒の上に涙が落ち始めた。
俯いて泣いている。
――申告通り、この封筒=退職願は昨晩、隊員達から受け取ったものである。
ショーコは隊員達に余計な心配をかけないよう、訴訟のことはできるだけ口にしないでいた。
が、事が事だけに、裁判に至った経緯も内容も、隊員達は手に取るようにわかっていたであろう。何しろ、原告となって会社を訴えている人々は、かつての同僚であり先輩達だったからである。深く問いただしたことはなかったが、解雇された連中と連絡を取り合ったり親交を維持している隊員も少なからずいるようであった。
そんな彼等が、Star-lineの将来を悲観視していたことは想像に難くない。
であるから、揃って退職願を差し出された時も、ショーコは至って平静なまま
「……本当は、もうちょっと頑張ってみない? っていうのが、上司の役割なのよね。でも、今の隊の状況をみんなわかっていると思うから、敢えて言わないわ。このまま受け取らせてもらうけど――みんな、決意は変わらないわね?」
優しく問いかけた。
ヨナという隊長補佐を務める入隊四年目の女性隊員だけは目に涙を浮かべたが、あとは表情を無にしたまま、各々頷いて見せた。せめて解雇だけは避けたい、という思いの方が強かったであろう。解雇された社員達の涙ぐましい苦労を、この若者達は知っている。
隊員六名中、四名が退職願を提出。
裁判の結審を待たずして、Star-lineは瓦解したも同然である。あとの二人も、追って寄越しにくるとショーコは予想していた。ヨナ達と足並みを揃えなかったのは、単に仲がよくなかったからである。もっとも新参である二人はどちらも男性隊員だが、何かと一緒に行動することが多く、ショーコや他の隊員達と打ち解けようとはしなかった。
四人が去った後、デスクの上に封筒を一通づつ丁寧に並べながら、ショーコは自分の果たすべき使命が終了したことを思った。
入隊してから足掛け六年。
貴重な青春の歳月を注ぎ込んできたStar-lineが、いよいよ消えていこうとしている。
正直、悲しくはなかった。
むしろ、疲労にも似た思いの方が大きかったかもしれない。
悲しいといえば、三年前に自分の弟分、妹分だったサイとナナを送り出した時の方が、何倍もダメージは大きかったような気がする。それを思えば、心の中のこの淡白な感じは何であろう?
ああ、あたし、疲れていたのね――。
すっかり薄汚れてしまったオフィスの壁を見つめながら、思うともなしに思った。
そんな昨晩の自分の心境を思い出しながらぼんやりしているショーコの前で、セレアは泣いている。
嗚咽はやがて号泣に変わり、しばらく続いた。
ようやく泣き止んだセレアは振り絞るような声で
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。私が、お爺様の遺言を守らなかったばかりに……」
あとはまたしゃくりあげている。
「……」
そういうことか、とショーコは悟った。
ヴォルデはこのことあるを見越して、最愛の孫娘に固く遺言していたのだ。
どうか私の後を継いで欲しい、と。
しかしながらセレアはヴォルデの遺言に背き、会長就任を辞退してしまった。
ただの一度も祖父の言いつけを破ったことのない彼女だったが、たった一度だけ破ったばかりに招いてしまった取り返しのつかない事態。悔やんでも悔やみきれないに違いない。
つい号泣してしまったのは、Star-lineへの惜別の思いというよりも、自分自身への後悔の念が強かったからであろう。ショーコは秘かにセレアの判断を批判したが、セレア自身もまた自分の過ちの根本がどこにあったのかを心の奥底で理解していた。
セレアは涙に濡れた顔を上げると
「ごめんなさいね? 色んな思いが交差してしまって、抑えきれなくなっちゃいました」
ばつが悪そうに微笑した。
「では……」
「ええ、よろしいでしょう。この退職願はお預かりいたします」
受理された。
が、ショーコには懸念がある。
重ねて言うのも酷かも知れないが、彼女としては念を押しておかねばならなかった。
「ありがとうございます。――しかし、仮にSCCから故障を言い立てられ、先に解雇通告を発されてしまえばどうにもなりません。この期に及んで隊長として非力であることを痛感するばかりですが、何とかその事態だけは避けたいかと」
先に解雇された七名は「不当解雇」であると裁判所に認定されたが、もしこの六名が新たに解雇通告を受けるとき、その意味合いは異ならざるを得ない。なぜなら、会社事業破綻に伴う解雇は不当にあたらないと国家労働法では規定しているからだ。そういう事態を、ショーコは恐れている。ゆえに、何としても今の隊員達については自主退職という形に収めたかった。そうすれば、些少ではあっても退職金がつく。
「ショーコさん、聴いてください」
キッと顔を上げたセレア。
「私はこの命に代えても、六人の隊員の皆さんを解雇などさせません。必ず、自主退職の形に持っていきます。それが、私が果たさなければならない使命だと思っています」
言い切った。
その相好には、やや弱々しくも彼女らしい威厳と誠意が漲っている。
「そうですか……ありがとうございます。ならば、もう申し上げることはありません」
ゆっくりと頭を下げたショーコ。
セレアがそうと断言した以上、信じていい。彼女が出来もせぬことを平気で請け負ったりするような人間でないことは、付き合いの長いショーコはよくわかっている。
ともかくも、隊員達の処遇について、総指令長であるセレアと隊長ショーコの意向は一致した。
もう日付も変わっていたが、二人はさらに、隊の今後について打ち合わせをした。
警察機構など関係機関へ警備業務停止の届出を行うと同時に、Star-lineの名において州裁判所へ事業継続不能申告書を提出する。というのは、本部舎施設はじめ機体や大型キャリア等の資産名義はStar-lineとなっており、これらに法的保全を加えなければ負債の抵当として差し押さえられてしまうのである。そうなったが最後、出資母体であるSCCが黙っていないであろう。自分達でとりうる限りの手段を講じておきたい、というのがセレアの意向であった。ショーコとしても異存はない。
ざっと方針のすりあわせを終えた後、急にあらたまった調子で
「最後に一つ、聴かせていただけますか? ……ショーコさん個人は、どうなさるおつもりですか?」
セレアが尋ねた。
Star-lineが多額の負債を抱えたとはいえ、ショーコ個人に法的な責任は発生しない。隊長という職責は規定上中間管理職に過ぎず、経営者ではないからだ。ゆえに負債を返済する義務はないのだが、その代わり――日を置かずして彼女は十中八九職を失う。会長サンテスがグループとしてショーコを救済するなど、およそ考えられない話であったからだ。
かく質問したセレアにも、これといって手の施しようなどなかったといっていい。グループ内の人事権を放棄してしまった以上、他の系列会社への再就職斡旋などはどだい不可能であった。そもそも、それができればStar-lineは訴えられたりしていない。
ショーコが察するに、セレアは個人で何らかの事業を興すことを考えているのであろう。
その場合、もしよければ……という含みが、彼女の質問に込められているとみた。
が、ショーコの腹はすでに決まっている。
「……あたしなら、大丈夫です。CMDのことならちょいと自信ありますし、不況だっていっても職場を選ばなければ何とかなるでしょう。どうか、あたしのことは気にしないでください。それよりも」
真っ直ぐにセレアの目を見つめた。
「――隊員達のことだけはどうか、よろしくお願いいたします」
さっきまで胸中に渦巻いていたセレアへのわだかまりは、大分軽くなっている。
こんにちの事態を招いた原因を自分で自覚していて、自分で決着をつけるつもりならそれでいいだろうという気がしたからだ。