落日編4 群像
「――メイファ」
「はい。なんでしょう、エド先輩」
ハンドルを握っているエドは前を向いたままどう言ったものかとしばらく考えているようだったが
「……死体、見たことはあるか?」
いきなりそんな質問をぶつけてきた。
唐突に何を言い出すのかと、メイファは思わずエドのほっそりした横顔を見つめた。
「そ、それはまあ、ありますよ? 三年前に祖父が亡くなったので、その時に――」
「じゃなくってね」
胸ポケットからタバコを取り出してくわえたエド。
「……無理矢理命を奪われた人間の死体のことだよ」と言ってからちらとメイファを一瞥し「さすがにそれはないだろう?」
あってたまるか、メイファは咄嗟に思った。
そこら中で惨殺死体を見てしまうような環境に生まれ育った覚えもなければ、そういう趣味の人間とお近づきになったこともない。
「あ、ありません! 当たり前じゃないですか!」
怒ったように返事をすると、エドはタバコに火をつけて
「なら、覚悟しとけ。商売柄、これから山ほど見なきゃならないようになる。――早速だが、十分後に」
ぷーっと煙を吐き出した。
たちまち、暗い車内に白い煙がたちこめていく。
「えっ!?」
その言い草に驚いたメイファ。
再びエドの顔を見やると、彼の目が物憂げな光を放っている。
「だけど、これだけは言っておいてやる。できることなら、俺だって見たくはないよ」
あとは物思いに耽るようにして、黙りこくってしまった。
その相好に鬼気迫るような尋常ならざる雰囲気を感じたメイファ。
何かあったのかと尋ねたかったが、話しかけるのは憚られた。
――程なく、エドは車を停止させた。
そこは古びた中層建築物が建ち並ぶ、かつての繁華街の一角であった。
以前はバーや風俗店が軒を並べネオンのカラフルな明かりが毎夜通りを染めていたのであろうが、今となっては当時の名残などほとんどない。両脇の店はどこもシャッターが下ろされ、看板や電飾は朽ち果てて外れかけている。様相はあたかもゴーストタウンであり、街灯も切れたまま放置されているから一帯は普段限りなく闇であろう。
が、二人が車から降り立った時、その闇は回転灯が規則的に放つ鋭い光に切り裂かれていた。
すぐ近くに数台の警察機構車両が無造作に停められており、警察機構職員達の慌ただしく動き回る影が地面を行ったり来たりしている。
「エド先輩、これは……?」
容易ならぬ事件の現場に連れてこられたと察したメイファは、思わず先輩の顔を見た。ただ事件現場に急行すると簡単に告げられただけであったから、恐らくひったくりとか暴行事件の類だろうと思っていたのだ。
その先輩はといえば、くわえタバコのまま車にもたれかかり、じっと目の前の光景を眺めている。彼女の問いかけが聞こえているはずだが、何も言わない。
やがて、意を決したように姿勢を直すと
「……じゃ、行くぞ。一つだけ言っておくけど、メイファ」
「はいっ」
「頭の中を空っぽにしておくんだ。余計なことを考えてしまったら、それまでだよ。特に君は女性なんだし」
言い捨てておいて、先に立って歩き出した。
何を言いたいのかまったく理解できなかったが、今はこの先輩の後についていくしかない。彼に倣って立入禁止ラインの傍に立っている巡査に敬礼し、ロープをくぐって現場へ足を踏み入れた。
先着して動いていた制服姿の職員の一人が二人に気付き、駆け足で近寄ってくると
「どうも、お疲れ様です。Bブロック所轄F地区西署所属のトマスです」
名乗りつつピッと敬礼をした。まだ若い巡査である。
エドもまた口からタバコを外すと敬礼を返して
「お疲れ様です。州警察機構本庁捜査課のエド・リーゲルです。こっちは新米の――」
「同じく捜査課のメイファ・テアです! げ、現場はこれが初めてです! よ、よろしくお願いいたします!」
いかにも新入りらしい畏まり方に、トマスは僅かに微笑して見せた。
「これはまた、期待のルーキーですね。こちらこそよろしく」
好意的に声をかけてくれたが、すぐに真面目な表情に戻ってエドと向き合い
「詳しい状況はまだお聞きになっていないかと思います。ご説明しましょう」
そう申し出てくれたが、エドは返事をせず黙ってトマスの背後に目線を走らせた。
彼の後ろには廃墟と化した商業用ビルが並んでおり、そのうちの一軒に警察機構職員達がしきりと出入りしている。表通りから直接上階へと通じる階段の入口で、元々なのか朽ちて外れてしまったのか、表戸はないようであった。
「……現場は、あの中でしょうか?」
「ええ、遺体は二階で発見されました。第一発見者はこの界隈をうろついている不良少年グループの一人でして、どうも隠れて」煙草を吸う手つきをして見せ「やろうとこの建物を選んだようです。こういう場所ですから、彼等が発見しなければ誰にも発見されないままだったかも知れません。不幸中の幸い、といいいたいところですが、事が事なのでそうも表現できないかと……」
トマスが遠慮がちに説明した。
つまり、少年達は隠れて麻薬を吸おうと建物に入り、死体を見つけてしまったらしい。
動揺して警察機構に通報したまでは良かったが、イコール自分達も捕まると考えている余裕はさすがになかったであろう。笑い話のようだが、殺人被害者が出ている以上笑う訳にいかない。
ただ、それ以上に笑えない理由が、エドにはあった。
「……とりあえず、現場を見せてもらいましょう。その上で、詳しい状況を伺うことにします」
彼はトマスをかわす様にしてビルに近づくと、そのまま中へ入っていった。
ぱたぱたと後を追っていくメイファ。
階段は真っ暗で、何年も滞留しているような埃っぽい匂いがした。
足元が見えないためメイファは何度も足を踏み外しそうになったが、階段自体はコンクリート製でしっかりとしており、軋んだりするようなことはなかった。
上りきったところで突き当たり、左手に狭い廊下が続いている。やはり、暗い。
すぐ手前に小さなカウンターらしき残骸があり、あとは個室が幾つも連なっている。エドはそこがかつて売春施設か連れ込み用簡易ホテルであったのだろうと推察したが、若くしかも女性のメイファにはそんなことはわからない。親を慕う子供のように、エドの後についていくだけのことである。
廊下は長かった。
構造から見てそろそろ突き当たるというあたり、一室だけ明かりの漏れている個室がある。
その入り口で、エドは足を停めた。
メイファは彼の背後からそうっと中を覗くようにしたが、ほとんど同時に
「……うっ」
両手で口を押さえ、ばたばたと元来た方向へ駆け出して行ってしまった。
彼女と入れ違いにやってきたトマスは苦笑している。
「やはり、いきなりはきつかったようですね。まあ、無理もない……」
同情するような口振りで言った。
が、個室の中をちらと一瞥するなり不快な表情を露わにした。
「……」
エドは身じろぎもしない。
無言で個室の床を見つめている。
シングルベッド一つに通路がやっと、というだけの狭いスペース。
埃をかぶっていて穴だらけになったマットの上には――男が一人、仰向けの姿勢で倒れていた。
よれたスーツ姿で死んでいるその男は胸から腹にかけて真っ赤に染まっており、ワイシャツの前が引き千切れたようにボロボロになっている。右腕の上腕付近から先が失われているほか、左腕や右太股からも多量の出血があった。
窓のない壁には凄まじく血飛沫が飛んでいて、コンクリート剥き出しの床に目をやればペンキの缶を倒したように赤い大きな水溜りができている。
「……」
誰もが瞬時に目を背けたくなるような凄惨な惨殺現場だったが、エドの眼差しは注がれたままである。
彼が黙っているから、傍にいるトマスも沈黙を守り続けている。
ややあって、エドがふうっと大きく一つ、息をついた。
「……人間一匹殺すのに、ずいぶんと大量の銃弾を使ったものですね」
そんな表現で、この殺人に対する感想を漏らした。
トマスは、その横顔になんともいえない表情を見てとった。
「そうですね。私も殺人現場には何度も立ち会っていますが、ここまでのは初めてです」
彼が言うのももっともであろう。
生身の人間など、一発の銃弾をくらっても致命傷になりうるというのに、何を理由としてここまで激しく銃撃しなければならなかったのか。それも、ほんの僅かな時間に、である。夥しい量の流血と遺体の傷跡が、そうした残虐きわまりない殺害の瞬間を物語っている。
エドの視線は、再び男の遺体に向けられた。
五十代を過ぎたであろう、中年の男性。が、初老といってもいいほど頭髪には白髪の割合が多い。
小柄な身長の割に体つきはがっしりしている。
こちらを向いている革靴はすっかり傷んでいて、底がほとんど真っ平らに近い。
ふと、自分の足元に何かが転がっているのに気付いた。
よく見れば、激しい銃撃を受けて吹き飛ばされた男の腕であった。軽く握られた状態のその手はほどほどに大きく、そして妙にごつごつとしていて無骨さを感じさせる。親指の付け根に、大き目の縫った痕が見てとれた。その縫い痕を、エドはかつて何度か目にしたことがあった。
彼はゆっくりとした所作でトマスに向き合い
「……いや、大体わかりました。これで十分です。ありがとうございます」
軽く頭を下げてから、廊下を歩き出した。
その背中に向かって、トマスが
「もう、よろしいのですか?」
呼びかけると、エドは足を停めて肩越しに振り返り
「ええ、十分です。確認は取れました。後のことは、鑑識の皆さんにお任せしましょう」
と言ってから、さらに付け加えた。
「当件の被害者はファー・レイメンティル州警察機構本庁捜査課所属、メグル・アード警部に間違いありません。まずはその確認をしに、ここまできたのですよ」
念を押すような口調でそう告げると、彼は四角い闇の中へと消えていった。
後に独り残されたトマス。
彼は見逃してはいなかった。
エドが最後に瞬間的に浮かべた寂しげな表情を。
(無理もないか。同じ職場の先輩がある日突然殉職したとあっちゃ、な)
複雑な思いに駆られたまま、しばらくその場に佇んでいた。
――そのエドが階段を下りきって外に出ると
「す、すみませんエド先輩。まさか、こんなに酷いものだったなんて……」
彼を待っていたメイファがぺこりと頭を下げた。
顔色が優れない。なおもハンカチで口を押さえている。
そんな彼女の姿を目にしたエドは仕方がなさそうに笑いながら
「だから、言っただろう? 頭の中を空っぽにしておけ、って。ああいうのはちょっとでも妙な想像力を働かせてしまったらもう駄目さ。それに慣れないとこれから先、いつまでも現場でゲロってなきゃならなくなるよ?」
歩き出した。
が、今夜のところはそれで良かったのかも知れないと、エドは何気なく思った。
配属されたての新米刑事。
そんな前途ある若者に殉職した先輩の遺体などまじまじと見せた日には、即刻退職願を書かれてしまうであろう。まかり間違えばお前もそうなるという、せぬでもよい脅迫になりかねない。
何せ、かくいうエドとて、本音を言えば見たくはなかった。
――新米の自分を一から鍛え上げてくれた、恩ある先輩の変わり果てた姿などは。
ファー・レイメンティル州D地区北エリア。
都市中心部から遠く離れているため、夜の帳が降りると同時に辺りはすっかり闇に包まれていた。
盆地状の地形を人工的に整形したその現場は、大きくえぐり取られた中央部分にのみ不必要なまでの照明が点されており、遠目には巨大なスタジアムに見えなくもない。が、平らかに地均しされたスペースに搬入された土木作業用の大型重機や建設資材にライトが当てられている光景は、スタジアムというよりも夜間営業のアミューズメントパークと形容した方が相応しいかも知れなかった。
それら全ての重機は稼働を停止し、偶像のように静まりかえっている。
ただし、唯一中へと通じる工事用車両入口に番兵よろしく佇立している一機のCMDだけは頭部のメインカメラをグリーンに発光させ、時々思い出しように首を左右に動かした。完全な人型を模しているその機体は全身真っ白にカラーリングされており、遠くからでも闇に映えて見えた。左肩の装甲前面には、流れ星を模したシンボルマーク――警備会社Star-lineのマーク――がペイントされている。
足元では紺の制服を身につけた隊員達が数人、携帯端末の画面を覗き込みながら打合せをしている。
と、程なく作業現場の反対側、南の方角にヘッドライトの光が見え、こちらへと近づいてきた。
それに気が付いた男性隊員の一人は
「――こちらアデン。間もなくセンター、インします。各自、配置について警戒にあたってください」
衿に取り付けた小型マイクを口元に寄せて指示を発した。
徐行しつつやってきた車は三台。いずれも黒塗りの高級車である。
Star-lineが固めている工事用車両入口を通り抜けて作業現場の中へ進んでいこうとしたその時、急にそれらの車が停止した。
間髪を容れず
「――Star-line、何をやっている!? その機体は飾り物か!?」
突然の罵声。
何事かと声が飛んできた方を見やれば、声の主はなんと会長のサンテスであった。
二台目の車の後部ドアが開くなり、彼は大股で隊員達に詰め寄っていき
「なぜ、私を警護しない!? この私はテロリスト達から狙われている身であるという事情を、君達だって知らない訳ではないだろう!?」
若い隊員達は固まっている。
触れているのはまがりなりにも、スティーレイングループトップの逆鱗である。対人関係に斟酌する習性を持たない現代の若者といえども、さすがに畏まらざるを得ない。
困惑している隊員達を相手取って、なおもがなり立てているサンテス。
「よって、1835以降は東側の通用口付近に機体を回しますので――あら? ちょっと待ってください」
少し離れた位置で特殊装甲車の無線を用いて通信していたショーコ。
様子が妙なのに気付き、一度無線交信を打ち切った。
よくよく見てみれば、こともあろうに自分の部下達が会長のサンテスに罵倒されているではないか。
何か仕出かしたのかと疑いつつ、ショーコはつかつかと歩み寄って行くと
「……うちの隊に何か失態でもありましたでしょうか?」
呼びかけた。
彼女の声に、サンテスは罵倒するのを中断してそちらを一瞥した。
「君は、誰だ?」
「Star-line隊長、ショーコ・サクですが」
救いの神が現れた、といわんばかりの顔をしている隊員達。
彼等に「持ち場に戻りなさい」と小声で促しておいてから、ショーコは難物と向き合った。この男の現場嫌いは有名なもので、Star-line本部舎に足を踏み入れたことすらない。ゆえに、隊長の彼女といえども直接言葉を交わすのはこれが初めてであった。
スティーレイングループ会長サンテス・オーティン。
上背があり、シルエットはスマート。顔立ちも端正で、稀に見るハンサムな中年といっていい。聞くところによれば、まだ五十歳になったばかりだという。
が、どことなく澱んだ陰を帯びていて全体の雰囲気は決して明るくない。
初対面であるというのに、早くも強烈な嫌悪感を覚えたショーコ。先日来煮え湯を飲まされっ放しということもあったが、それだけが理由ではなかった。彼女が最も忌むところの倨傲、傲岸、陰険、陰湿ついでに癇癪持ちといったいわば男らしからぬ要素を人の形にまとめて服を着せたような印象を受けたからである。こうなると、例えどれだけ札束を積まれようとショーコは絶対に打ち解けることはできない。
その難物であるサンテスは彼女の顔から下、そしてまた顔へとなめるように視線を動かしたあと
「君が隊長かね? 何だ、この様は! なぜ警備行動の指示を出さない!? 隊員達は皆、遊んでいるではないか! 何をしにここまで出動して来ている!?」
「警護なら、今この通り全隊員を充てて実施しておりますが」
「そうではない! 君は馬鹿か! 私はあっちから来ているのだぞ! ただでさえこんな辺鄙で暗い地区だというのに、黙って私がくるのを待っている警備チームがあるか! テロリストにでも侵入されていたらどうする気だ!」
言うに事欠いて馬鹿ときた。
業務上罵声を浴びるのには慣れているからまだいいとしても、彼の言う意味がよくわからないというのはどうしたものであろう。言葉の内容が感情に任せて断片的になってしまっているから、主旨が伝わってこないのである。こういう類の人間は、大会社の肩書きを渡されるには不適当であるといっていい。
ショーコはだんだん面倒くさくなってきた。
サンテスが咆え続けるのに任せ、合間を縫って
「つまり、機体を会長の車にぴったり随行させろと?」
適当に訊いてみたところ、彼は声を一段と励まし
「だから、さっきからそう言っている! 置物のように立たせておくために君達の部隊に配備したのではない! Star-lineは実効性のない金食い虫だとグループ内で批判されているという事実を知らんのか!」
あんたがその急先鋒でしょうが。
口には出さねどショーコは思った。
営業費用削減のために設備縮小人員整理が目に見えて手っ取り早いなどという理屈は子供でもわかる。逆に、そういう企業運営が常套手段であるなら、企業トップは子供でも務まるという論理が成立するのではあるまいか。
今目の前で眉間にシワを寄せている男には言いたいことが山ほどあるのだが、子供以下の人格しか形成されていない人間に物を言うだけ無駄である。
「……お言葉ですが、会長」
あんたバカじゃないの、と口先まで出掛かっている一言をぐっと飲み下し
「増速歩行中のCMDを並走させろなどというのは、会長が自殺願望をお持ちだというのと同義です。これだけ足場が不安定な地形にあっては、いつ対地加圧振動によって路盤が崩欠し、機体がバランスを失わないとも限らないのです。つまり、テロリスト機がやってくる前に身内の機体に潰されかねません。会長の警護には百人以上のSTR隊員達が全力であたっていますから、ご心配は無用でしょう」
半分は出任せだが、半分は事実である。
重心の高い完全人型機が稼働するための絶対条件として、足場の問題がある。下重心安定仕様に設計された土木作業用CMDなどとは異なり、地盤の不確かな場所では足をとられて転倒する危険度が跳ね上がる。いかにコンピュータによるバランス制御システムが進化しようとも、物理法則に完全に逆らいきることは不可能だといっていい。佇立させているだけでも場所を選ばねばならないというのに、駆け足なんかさせたならば最悪の場合死人が出るであろう。十代の半ばからCMDに関わって生きてきた彼女は、経験則でそのことを知っている。
さらに言えばショーコは、この出動自体決して快く思ってはいない。ろくに舗装も整地もされていない路面を歩かせただけでも、下半身の間接可動部に内蔵されたモーターなりシャフトに要らぬ負荷がかかって摩耗を起こしてしまう。重量が重量だけに、人間が泥道を歩くのとは訳が違うのである。
どだい、会長自らこの地域を「辺鄙」と罵っているのだ。
わざわざここまでCMDを運んできてサンテスを襲うような物好きなテロリストがいると本気で考えているのかと言ってやりたいくらいであった。CMDによる襲撃への警戒と銘打ってみたところで、周囲に不審な機影があるかどうか、対CMD感知センサーをオンにしておけば済む話である。
以前のショーコであれば「じゃあ、どうなっても知りませんよ?」と啖呵をきった挙げ句、本当に並走させていたに違いない。
が、五年という歳月を経て、彼女自身も変わった。
今や、後先を考えずに余計なことを口走ったりするようなショーコではなくなっている。
「どうぞ、安心して視察を続けてください。我々も今は何の仕事をしなければならないか、重々承知しているつもりですから」
「……」
忌々しげにショーコを睨んでいるサンテス。
が、やがて肩を怒らせながら公用車に乗り込んでいってしまった。
彼の背後では先ほどから美人の秘書が一人、見事なプロポーションを誇示しながら立っている。彼女もまた会長に続けて車に乗りかけ、そこでショーコの方をちらと見てウインクした。
リファ・テレシア。
彼女もまた、かつての仲間である。
ウインクは「会長がいろいろごめんね」という意味であろう。
苦笑しているショーコ。
以前は天真爛漫なのと強運だけが取柄で、何一つ仕事ができない無能な女だった。が、五年前の事件で愛する夫――テロリストの――を喪ってから、彼女は百八十度の変貌を遂げた。今や、サンテス会長が抱える秘書グループの中でもずば抜けて優秀、かつスタイル抜群の美女である。
あのバカ女も、そういう配慮ができるようになったか――。
なんとなく万感の思いが胸に込み上げてきて、会長に罵倒された不快感などすっかり忘れていると、ポケットの中の警備班用携帯端末が鳴った。
屋外での会長現場視察が実施される場合、警備チームの連携強化と迅速な情報伝達のために会長側近、STR、そしてStar-lineの責任者が持たされることになっている。もともとSTR側からスティーレイングループ上層部へ意見具申されていたのだが、当初サンテスは黙殺した。
が、そんな態度がある日突然一転、不必要なまでに多彩な機能を搭載した立派な携帯端末がショーコの手元に郵送されてきた。どうやら、代表秘書のリファが言葉巧みに了承させたらしいという話を、ショーコはあとで耳にした。
個別メール受信。
開いてみると、送信してきた相手はたった今ニアミスしたばかりのリファであった。
『ショーコちゃんへ。胸、見せすぎだゾ! 今の会長はスケベなんだからね!』
「……」
忘れていた。
昼休みに仮眠をとった際、シャツの前を開けっ広げにしたままだった。
目の前で忙しなく上下左右に動いているナイフとフォークをぼんやり眺めていると
「……あれ? メイファってば、食べないの?」
それと気付いたリナが尋ねてきた。
彼女は分厚い高級牛ステーキをいかにも美味そうに平らげていく。若い女性ながら素晴らしい食いっぷりである。スレンダーな体型と知性的な美貌の持ち主のそういう姿を目にしてしまえば、節食によるダイエットなど本当は無意味なのではないかと思われてくる。
――捜査課ベテラン警部殺害事件から二日後のこと。
メイファは旧友のリナから夕食に誘われ、都市中心部まで出かけた。
社会人歴が一年長いこの友人は仕事が忙しく、ここしばらくまともに会っていなかった。電話をもらったメイファは、珍しいこともあるのねと何気なく口にしたところ、
『うん、あたし、急だけど異動になるの。グループ系列の子会社だって。あたしが言うのもなんだけど、これって左遷なのよねぇ』
リナは事も無げな調子で言ったが、聞かされたメイファの方が慌てた。
慣れない仕事の疲労が大きく、誘いを断って自宅でゆっくりくつろぐつもりであったのだが、ここは友人として彼女の憤りなり悲しみを受け止めてやるべきだと思った。
「わかった、付き合う! で、いつ、どこにするの?」
そして今日。
久しぶりに再会したのだが、左遷などどこ吹く風といった様子のリナ。
いつも通り明朗かつ食欲が絶好調で、左遷に至った話やら愚痴など一言も口に出さない。
むしろ、メイファの方が元気不十分であった。
高級ステーキを勧められた彼女は「はあっ」と大きくため息をつき
「食べたいよ。食べたいけど……ダメなの」
目線をすぐ下へ落とした。手のついていない、リナが食べているのと同じ料理がそこにある。一人づつのコースを注文しているから、二人に同じものが出されてくるのである。
「へ? なんで? 食べればいいじゃん。なんかあったの? ダイエット中?」
話を聞いてやるつもりでやってきた筈が、いつの間にか立場が逆転してしまっている。
質問に答えてやったものか、どうか。
聞かせたが最後、自分と同じ悲惨な状況になりはすまいかという不安がメイファにはある。一昨日は人気のない廃屋だったからいいものの、今のこの場所はそれなりに格調高いレストランなのだ。周囲を見回せば、カジュアルな服装に身を包んだ客ばかりである。ラフなスタイルでやってきているのは、どう見ても自分達二人しかいない。
が、無邪気な顔で咀嚼を繰り返しているリナの顔を見ているうちに気が変わってきた。
彼女の太くて柔軟な神経ならば、話してやっても問題ないのではあるまいか。
「あ、あのね、実はさ――」
一昨日の夜、身の上に起こった不幸な一件を詳しく話して聞かせたメイファ。
「――っていう理由なの。あんなの見ちゃったら、しばらく肉なんて食べられないよぉ……」
「ふーん……」
凄惨な殺人現場の生々しい状況を耳にしながらも、リナの手が止まることはなかった。気が付けば皿の上には付け合わせの野菜しか残っていない。まだ食べ足りないのか、リナはフォークをくわえている。
彼女は目線をまっすぐメイファに向け、少しの間黙っていた。
ややあって
「……ひどいね、それ」
あっさりした調子で言った。
「でしょう? 新人をいきなりそういう所に連れて行くなんて、あんまりじゃない? 殺されたのが同じ警察機構の職員だし、身元の確認とかしなくちゃいけなかったのはわかるけど……」
不愉快な思いが込み上げてきたメイファは、ここぞとばかりにぐずぐずと愚痴を口にしはじめた。
うんうんと聞いているリナ。
ところが。
「……メイファ、ちょっと待った!」
急に手の平を見せてストップをかけた。
えらく真剣な表情をしている。
彼女のアクションを「せっかくの食事の最中なんだから、これ以上湿っぽい仕事の愚痴などこぼすな」という意味に受け止めたメイファは甘えるように鼻を鳴らして
「えー、そんなコト言わないで聞いてよぉ! 私だって、そりゃあ大変な組織だっていうのは理解して入ったつもりだし、色々見たくないものを見なくちゃいけないこともあると思うのよね。だけどさ――」
ガタン。
メイファがまだ何か言っているというのに、いきなりリナが立ち上がった。
そのまま、物も言わずに勢いよくバタバタと走っていってしまった。
「……!?」
何が起こったのかわからず、後に残されたメイファは呆然としている。
――十分後。
「いやーごめんねぇ! なんか、じっくりと想像してみたら、急に気持ち悪くなっちゃった! あはは」
ようやくトイレから戻ってきたリナ。
何事もなかったかのように、頭を掻きつつへらへらと笑っている。
愚痴を聞いていたというよりも、惨殺現場の光景がどんなものか頭の中で描いていたらしい。
「そんなに想像力豊かなら、小説家にでもなれるわよ……」
呆れているメイファ。
自分のイマジネーションで気分を悪くするような人間がいたものだろうか。
思ったが、それはまあいい。
この友人が変わり者であることを、付き合いの長いメイファは知っている。変わり者とはいっても他人を不愉快にさせるような変人ではなかったから、これといって気にしたりしたことはない。
そのリナ、吐いてきたばかりだというのにもう次の料理に手をつけている。
「あら、これ美味しい! メイファも食べたら? 肉じゃないからいけるでしょ?」
「あー、まあ……」
メイファも仕方なくフォークを手に取り、目の前のサラダをつつき始めた。
幸せ一杯な笑みを浮かべて物を食べているリナの顔を眺めていたら、少しは食欲が出てきたような気がせぬでもない。
リナは恐ろしい勢いで生野菜をひょいひょいと口の中に放り込むと
「……で? メイファってば、いきなり殺人現場を見せられたのよね? 毎日新聞とかテレビで報じられているけど、殺人事件ってそんなに多いの?」
また話題を元に戻してきた。
せっかく食欲が出てきたところだったのに、とメイファは瞬間的に恨めしげな目つきをしつつも
「多いなんてものじゃないわぁ。毎日都市のどこかで人が殺されて、殺人犯が誕生しているのよ。日々大なり小なり発生件数が報告されるんだけどね、そりゃもう凄い数なの。ま、私達のところに殺人事件全部が持ち込まれる訳じゃないし、担当として受け持たされるのはごく一部なんだけど。私の先輩は優秀だから、一人で幾つか抱えているみたいよ。よく身が保つよね」
他人事のように言った。
警察機構に入る前はそういう敏腕刑事になる将来の自分を夢みたものだが、今は早くもあり得ないと思っている。新人の夢を挫いたという点では、先輩のエドは大きな失敗を犯したかも知れない。
が、リナはやはり同じ想像をしたものらしく
「へぇ! でも、すごいじゃない。凶悪犯を追い詰めていく刑事さん、憧れるよねぇ。あたしも最初から警察機構を受けておけば良かった。天下のスティーレイングループに入れたと思って喜んでたけど、前会長が亡くなってからはもうダメだったのよね。今の会長ってば行き先のわからないワンマンバスだし、とにかく合理化合理化だもの。あたしの会社だって、そのうち潰されるかも知れない。絶対そうよ」
「民間企業の方がいいって! 警察機構なんてね、外からみるほど綺麗な組織じゃないのよ。実はね――」
メイファは声のトーンを落とし、友人のために一昨日の一件にまつわる裏の話を聞かせてやった。
殺害されたメグルがここ十年以上にわたってテロ組織を追っていたことは警察機構本庁捜査課の人間なら誰でも知っている。巨大な犯罪組織に関わる捜査の場合、小さな証拠を積み重ねつつ外側から徐々に切り崩していくだけが常套手段ではない。必要とあらば敵対する裏社会の組織、あるいは情報屋と呼ばれる正体不明の職業人と極秘に取り引きを行い、捜査上不可欠な情報を得ることもある。そうして入手された情報それ自体は当然正当な証拠として採用されたりしないものの、それをちらつかせて犯罪組織に揺さぶりをかけることで、結果として決定的な証拠を得ることにつながっていく場合がある。
「それがどうもねぇ、メグルさんは陰でそういう取り引きをかなりやっていたみたいなのよね。警察機構本庁の上層部が知っていることもあれば、報告されていなかったケースもあるんだって。メグルさんの自宅とか使っていたパソコンとか調べてみたら、色々出てきたらしいよ。――だから、都市の治安を守る警察機構っていうけど、実際はダークなこともやっているんだよね。私がちょっとモチベーション落としているのはそのせいもあるの。いきなり死体を見せられたことだけじゃなくって」
赤い液体の入ったワイングラスに口をつけた。
あまり好きではないから、軽く口に含んだだけである。店の雰囲気とワイン好きのリナに引き摺られてオーダーしてしまったのだ。
リナはもう何杯目になるかわかったものではない。よほど酒に強いのか、顔つきが平素のままである。
グラスに残っていたワインをぐいっと飲み干し
「あらま、そうだったんだ。公的でも民間でも、大きな組織って何かしら表には出せないことをやっているのね。――うちだってそんなものよ」
心底同意するように頷いてくれた。
そこまでは良かったが
「トップの会長からしてそうだもの。メイファも知ってるでしょ? サンテスっていう、うちの会長。創業者ヴォルデ会長が亡くなられてその後任なんだけど、これがひどいエロ親父なの! ヴォルデ会長の二十本の爪の垢を煎じて飲ませてもまだ足りないわ」
突然、穏やかならぬ話を口にしだした。
驚いて呆然としているメイファを相手に、リナは喋り続ける。
「あたしさぁ、スティーレイン・セントラル・コーポレーションの本社総務部に配属されたんだけどね、職種柄若い女の子が多いのよ。だけどそこって離職率がすごく高い職場だって先輩から聞いてたから何かあるのかと思ってたの。そうしたら、ついこの前のことよ」
仕事中、急に会長のサンテスから呼び出された。
会長室は総務部フロアのすぐ上にある。現在、スティーレイン・セントラル・コーポレーション――通称SCC――がスティーレイングループの親会社だからだ。
これといって報告が遅滞している業務などない筈だが、と不審に思いつつサンテスのいる会長室を訪れたリナ。
入室してみると、彼は応接ソファに腰掛けており、自分の隣にリナを座らせ
「……私の女になる気はないか? 無論、それなりの手当は約束しよう」
と、切り出した。
唖然として固まっていると
「君は実に素晴らしい容姿を持っている。私は、君のような女性を未だかつて見たことがないのだよ」
口説き始めたではないか。
しかも、口では歯の浮くような世辞を並べつつ、こともあろうに片腕を彼女の腰に回そうとした。
その瞬間、
パーン!と、見事な平手打ちがサンテスの頬にお見舞いされていた。
リナは憤然として立ち上がり
「見損なわないでください! あたし、そんなに安い女じゃありませんから!」
言い放ったという。
「ほおー……」
世紀の偉業でも聞いたかのような顔をしているメイファ。
理由はどうあれ大企業の会長に平手打ちを食らわすなど、今どき珍しい武勇伝ではないか。
が。
リナの話には続きがあった。
「でさ、あたし、言ってやったのよ。――あたしを買うんだったら、このスティーレイングループの一切合切全部寄越しなさい、って。そうしたらサンテス会長、固まってたわぁ。ケチな男はイヤよねぇ」
さも当然のように言い切った。
「……」
ようやく、メイファは理解した。
なぜこの友人が突然左遷されるに至ったのかを。
平手打ちの報復もさることながら――会長のサンテスは、触れれば想像以上に火傷するという危険性を、リナ・フィットナーという女に感じたに違いなかった。