暁闇編8 執念の末路(一)
ディゼンの憂慮は極限に達しつつある。
食事も睡眠も満足に摂れない日が続き、厳めしいその相貌には憔悴の色が見てとれる程にくっきりと滲み出てしまっている。
当然、公務にも身が入らず、懸案事項に関する書類が手つかずのまま、大きすぎる知事公務室デスクの上に山積していた。すでに関係する一部組織や州議会議員の間からは督促びた連絡が届けられているという。ディゼンという辣腕の実業家で通ったこの男に、未だかつてこういう事態はなかったといっていい。
ただならぬ様子の彼に、秘書室長のジュリアや側近達は
「知事、どこかお身体の具合がよろしくないのではありませんか? 大事に至る前に、医師の診断を受けられては……」
日に何度もそう声をかけてくれるのだが、その都度彼は笑って済ませている。
医者にかかることで何もかも解決するというのなら、すぐにだってそうしたい。
が、彼に重大な心労を与えしめている、彼を取り巻く状況は悪化の一途をたどり続けている。
まず、ディゼン自ら手を下したロゼル副知事殺害の一件。
彼自身に不信を抱き、取材に応じるよう執拗に要請を寄越し続けていた雑誌メディア・レイメンティルの女性記者ケイ・バレンシア。彼女をテロ組織の手の者に殺害させ、口を封じたことで全ては闇に葬り去ったものと思われたのだが――ケイはディゼンにとって思わぬ遺産を遺していた。
「――は? 目撃者、ですと?」
『ええ、あくまでも情報提供者の供述に基づくお話でありまして、当方としては今となっては裏付けの取り様もありません。ですが、看過出来ない内容であることもまた事実です』
ある日、ディゼンの元に一本の電話が入った。
ファー・レイメンティル州警察機構本庁刑事部長ルイ・アーデスと名乗る男からである。
彼はディゼンに、ロゼル副知事殺害事件に関して新たに情報提供者が名乗り出てきたことを告げた上で、以前彼が応じた事情聴取の内容について再度確認させていただきたい点があると言った。
ロゼルが殺害された時刻、ディゼンは別階の会議室にて下僚と打ち合わせ中であった旨申告している。その点は下僚達も間違いないと警察機構側に伝えていた。
ところが。
『情報提供者の氏名につきましては、今はまだ伏せさせていただきましょう。それで、この方がですね、何といいますか、その――』
相手が相手だけに言いづらさを感じたのか、ルイはやや言葉を濁しつつも
『犯行時刻の直後、第一発見者によって倒れているロゼル氏が発見されるよりも前なのですが――知事公務室の内部を覗き込んでいるディゼン知事の姿を目撃した、と証言しておるのです。我々が把握している事実ではその刻限、ディゼン知事は階下の会議室にて会議に出席されていたことになっております。従いまして、そのお話と異なる証言なものですから、どうしても確認させていただく必要が生じたのですよ』
一瞬、頭の中が真っ白になったディゼン。
警察機構に対しては、上手く辻褄を合わせた証言――虚偽だが――をしたつもりでいた。
しかし、実際に彼がとった行動というのは、その情報提供者が述べている通りなのだ。
彼自身が疑われることのないよう、不自然な点がないかどうかを今一度確かめるために。
ついでにあの当時、知事公務室周辺には誰もいないことを確認している。
それが、いたという。
しかもありうべからざることに、彼の姿を目撃したと証言しているではないか。
(一体、誰が……?)
咄嗟に思い当たる限りの人間の顔を浮かべてみたが、誰の仕業か見当もつかない。
まさか、自分から見えない位置に職員の誰かか清掃員でもいたというのか――。
逡巡しているこの間、やや長すぎたかも知れない。
受話器の奥から
『……いかがでしょうか、知事。何かお話があれば、是非お聞かせいただけませんでしょうか?』
返答を促すルイの声が届けられてきた。
ハッと我に返ったディゼン、慌てて咳払いをしながら
「いや、失礼。それにしても、よりによってこのタイミングで捜査機関に対して意外な発言を寄せる人間もいたものですな。私としましては、いささか戸惑わざるを得ません」
暗に「その証言に信憑性はあるのか?」と皮肉っている。
すると、ルイは落ち着いた調子で
『そうお思いになるのも無理はないかも知れません。ただ、出頭がこのタイミングであったについては、情報提供者側に十分信用できる理由があります。そして、今回の証言における信憑性の云々という部分に関してですが……』
「ええ、是非、そこをお聞きしたいものですな」
大した効果を得られないだろうと思いつつも、態と虚勢を張ったディゼン。
これに対し、電話回線の向こうからルイは
『情報提供者の身元ないしその他必要な確認は洩れなく行っております。その上で申し上げますが』
ひと呼吸の間の後、彼が放った一言はディゼンを戦慄せしめた。
『――我々は、この方を情報提供者から当該事件の重要参考人という位置付けに切り替えました』
つまり、警察機構はディゼンの証言よりもこの情報提供者の言質を重要視しているということになる。
彼は悟らざるを得なかった。
――疑われている。
が、そこは実業家として数々の修羅場、無理難題を潜り抜けてきた男である。
さあらぬ体で
「なるほど。お話はよくわかりました。私としましてはあくまでも事実のみをお話ししたつもりですし、これからもそうあるでしょう。憎い殺人犯を追い詰めるためならば、都市統治機構としても私個人としても、捜査に協力は惜しまないつもりでおりますので」
切り返すと、ルイもそもそも深く追及する気はなかったらしく、あっさりと
『そのようにお願いいたします。本日はご多忙の折、捜査のために貴重な時間を割いていただきましてありがとうございました』
また必要があればご連絡させていただきます、と残して電話は切れた。
以来、警察機構からは何の連絡も寄越されてはいない。
ただ――水面下では、ディゼンが犯人であることを立証すべく、全力の捜査が行われているであろう。
それにしても不審である。
どこの誰が、警察機構に垂れ込んだというのか。
ルイは言及しなかったが、単に目撃者として名乗り出ただけならば、警察機構側ではそこまで重要視したりしないであろう。重要参考人と目されたからには当然、ディゼンがよく知る、あるいはディゼンをよく知っている人物、でなければならない。
その人物というのが、実は彼の秘書・ランシアであるのだが――この話については秘書室長ジュリアが口を拭って黙っていたから、ディゼンの耳には入っていない。長期の欠勤については、実家の事情として彼に伝えてある。神ならぬディゼンは、まさか自分の秘書に殺人現場を目撃され、あまつさえその事実を雑誌記者に売り付けられようなどとは夢にも思わない。
彼にとって篤実な側近である筈のジュリアからも密かに疑いの目で見られていることすら、迂闊にも彼は気付かずにいたといっていい。
情報提供者の俗人名は特定できないものの、ディゼンには一つの確信がある。
(ふん。まあ、いい。私がロゼルを手にかけた動機など、誰一人知る者はないのだからな……)
強気に思い直した。
そうであろう。
殺人を犯すからには、当然そこに動機が付されなければならない。
しかしながら、ディゼンがロゼルを銃撃したのは限りなく突発の事象に近く、唯一の証拠品――ディゼンとテロ組織中心者が一緒に写った新聞記事――そのものはロゼルを撃ったあと彼の手で処分してしまっていて、すでにこの世には存在しない。
結局、動機という重大な一点でディゼンとロゼル殺害事件を結びつける何物もないのだ。
警察機構がいかに全力を挙げて捜査しようとも、ディゼン犯人説は証拠不十分のまま立件されずに終わるであろう。その点、ディゼンは高を括っている。
が、警察機構にマークされているという一事をして、胸中に不安が暗雲のように立ち込めていくのをどうすることもできなかった。
――だけではない。
相前後して、ディゼンは彼が最も頼みとしている所属組織――ゴーザ派――から見放された。
SCCによるダイラルドプロジェクトへの巨額投資が目前にきて頓挫し、陰でその金を手にする筈だったゴーザ派の首魁から憤激をかったのだ。ディゼン自身に直接の責任はないのだが、それでも同州を拠点とする企業グループの背反だけに、少なくとも知事である彼が決定を覆させるよう何らかの行動を起こすべきであったといえる。
しかし、それをしなかった。
否、出来なかったのだ。
ロゼル副知事殺害の一件によって警察機構の捜査活動が活発化していたためで、よほど注意を払わなければ警察機構にゴーザ派との背後関係を勘付かれてしまいかねない危うさの中に彼はあった。
どころか、警察機構としてはロゼル副知事殺害事件、メグル警部殺害事件の背後にテロ組織の存在あるを見てとっており、現にSCCは家宅捜索に踏み込まれる寸前だった。それをディゼンは合衆国議会議員を動かし、議員特権をもって差し止めている。ここまでは、際どいながらもどうにかゴーザ派の意図する方向へと事は進んでいた。
だが、そのSCCで深刻極まる内部分裂が勃発し、現行の経営幹部が残らず放り出される事態にまで発展していたことを、ディゼンはじめゴーザ派の首脳陣ですら偵知できなかった。
そもそも、ダイラルドプロジェクトへの巨額投資は海外事業統括部出身者で占められた前経営陣によって決定された施策なのだが、これに反発した故ヴォルデ会長派の面々が呼応して一斉蜂起し、あらゆる手段を尽くして前経営陣を徹底的に追い詰めていった。そうしてついに、巨額投資を白紙撤回させてしまうのである。
ただし、感覚の鋭敏な故ヴォルデ派の一同は、ダイラルドプロジェクトへの投資がテロ組織=ゴーザ派への間接的な資金提供につながる恐れというものを、端から看破していた。躍起になって阻止する筈である。
ともかくも、こうしたSCC内部の大逆転劇によってゴーザ派は当てにしていた巨額の活動資金入手が事実上不可能となってしまった。首脳陣が激怒したのも当然であろう。
時期も悪かった。
丁度、遠国リロビア共和国では政府施策の大幅な転換によって、それまで自在な活動が可能だった現地ゴーザ派に対して国軍全面主導の掃討作戦が発動されてしまう。このため、ゴーザ派としてはリロビア共和国内における活動拠点、それに活動資金調達源という重大要素を二つながら喪いつつあった。
そうして首脳陣の怒りの矛先は、失態の続くディゼンへと向けられるに至る。
『SCCという金蔓を失った今、ファー・レイメンティルなどに興味は失せたわ』
そういう表現で、組織から絶縁されたディゼン。
この一事をして、彼の心労は極限に達するのである。
様々な手段によって捜査妨害を行い、ディゼンが警察機構の手に落ちることのないように手助けをしてきたのがゴーザ派であった。実際、CMDによる破壊活動やメグル警部殺害事件の報に接した警察機構本庁捜査課では、ロゼルの殺害もその同一線上にあるのではないかと推測したりした。つまり、活発化しつつあるテロ組織の仕業ではないかという見方である。そういった妨害がなければ、ディゼンはもっと早くから警察機構のマークに晒されていたといっていい。
しかし、その後ろ盾は失われた。
どころではない。
下手をすれば、組織の機密を知る者として、暗殺の手が差し向けられないとも限らないのだ。
これにはディゼンも焦らざるを得ない。
早かれ遅かれ警察機構によって捕えられるか、あるいはゴーザ派の手によって命を奪われてしまうか、そのいずれかの運命が自分を待ち受けている。
ただし。
このままいけば、警察機構のマークは振り切れなくもないであろう。殺害動機の部分――彼がゴーザ派の連中と親密であるという事実――さえ白日の下に晒されなければ、警察機構が彼の身柄を抑えることは叶わない。
(と、すればだ……)
ゴーザ派。
忍び寄る彼等の魔の手をどう払い除けるか。
ディゼンの日夜の苦慮は、その点にあった。
だが――
彼は知らなかった。
警察機構本庁捜査課内部に、蛇のような執念と犯人逮捕への鉄の信念を持った男がいたという事実を。
「――なた、あなた! ねぇ、聞いてる?」
「……お? アイリか。どうかしたか?」
ソファに寝転がったまま、ぐりっと仰け反るようにして首だけを動かしたウォレン。
視界に、愛妻の姿が逆写しに飛び込んでくる。
「物置の古新聞と古雑誌が溜まったから処分してもらおうと思ったんだけど……あなたったら、ここしばらくヘンよ? 休みの度にソファの上でずーっと独り言呟いているし。仕事のことで行き詰ってるの?」
「ああ、すまんすまん。色々と、考えなきゃならないことが多くってな。上手い思案がないものかって考えてるんだけど、なかなか……な」
多少不満そうな、しかしどこか心配そうな表情のアイリ。
喜怒哀楽がはっきりした八歳年下のこの妻を、ウォレンは心の底から愛している。
ソファからがばと上体を起こすと
「物置に溜まったやつか。そうだな、邪魔だし、そろそろ処分するか」
基本的に、妻からの依頼に対して嫌な顔をしたことがない。
わかったと言わんばかりに返事をしてやると、何を思ったかアイリは彼に寄り添うようにしてソファの空いたスペースへ腰を下ろし
「……ねぇ、捜査、大変なんでしょ? ロゼル副知事が殺された事件、あなたの担当だものね。警察機構は全力を挙げているけど一向に犯人が特定できてないって、この前もテレビで叩かれてたわ」
刑事の妻だけに、そういう報道は気になるらしい。
ウォレンはカラカラと笑いながら
「まあ、一筋縄じゃいかない難事件であることは確かだな。……だけど、重要参考人も名乗り出てきたことだし、まるっきり闇の中、ってワケじゃないさ」
アイリに目線を向け、大丈夫だというように頷いて見せた。
すると、彼女は声を潜め
「……やっぱり、ディゼン知事が怪しいの? ロゼル副知事は知事公務室に行くって言ったあとに殺されてるんでしょう?」
尋ねてきた。
捜査上の機密は原則として家族相手といえども喋ってはならない規定になっている。
が、アイリは警察機構職員の妻であるという自覚が固い女性であり、よほどな機密でない限りウォレンは語って聞かせたりすることが多い。そうすることで、自分が把握している事実を整理したり、それまで気付かなかった事柄を発見できたりするからだ。
言ってみれば、彼にとって妻は良き相談相手という訳である。
「本音を言えば、俺はクロだと思っている。新たな重要参考人の話を聞く限り、知事の証言に疑問符がつくような点も出てきたからな。だけど……」
がっしと腕組みをしつつ、天を仰いだ。
「はっきりした証拠がねェ」
いかにも困った、というような夫の姿に、アイリも表情を曇らせ
「それは困ったわねぇ。証拠がなければ、逮捕できないものね」
考え込んでいるウォレンの隣で、一緒になって考え込み始めた。
アイリには、そういうところがある。
ソファの上で、並んで頭を捻っている一組の夫婦。
後輩であるエドやメイファが見たら思わず笑ってしまうかも知れない。
「証拠ねぇ。ディゼン知事がロゼル副知事を撃ったとして、何があれば撃った証拠になるのかしら……」
今度はアイリがぶつぶつやっている。
自分の課題を真剣に考えてくれている愛妻の姿が何とも微笑ましく、また愛らしく感じられたウォレンは思わず相好を崩し
「今日の今日だからなァ、今さら使った拳銃も出てきやするまいよ。……まあ、知事の証言を覆す事実も出てきていることだし、あとはディゼン知事以外にないっていう状況がはっきりすれば、奴さんも言い逃れは出来ないだろうな。要は、何でディゼン知事がロゼル副知事を殺さなければならなかったか、だ」
そこまで口に出した途端。
テーブルの木目を見つめていたアイリの目線が、急にウォレンの方へと動き
「……どうして?」
「え? 何が?」
「どうして、ディゼン知事はロゼル副知事を殺さなければならなかったの? 殺しちゃったからには、何か殺す動機があったってことでしょう? ただ気まぐれに銃で撃つような狂人だった訳じゃないでしょう、ディゼン知事は」
「……」
呆然と、愛妻の無邪気な顔を見つめているウォレン。
言われてみてハッと思い当たった。
今日まで、物的証拠ないし状況証拠をかき集める作業にばかり労力を費やしてきた。それは彼本人だけでなく、捜査課一班の連中も同じである。
事件発生から早二か月あまりが経過して新たな物的証拠を得られない今、あるだけの状況証拠を組み上げて少しでもディゼン犯人説を裏付けていくしか残された方法はないように考えられていた。
しかし。
そちらの作業に集中し過ぎて、肝心な部分の検討がおざなりになってしまっていたらしい。
動機。
ディゼン知事は何故、ロゼル副知事を銃撃して殺害したのか。
無論、動機の部分が捜査から脱落していた訳ではない。
ロゼル副知事は何かに憤慨しながら知事公務室へ向かい、そしてそこで帰らぬ人となった。この点、秘書室にいた全員が証言しているゆえに動かしようのない事実である。
憤慨の対象はディゼン知事であると考えて間違いないであろう。
否、現時点では断定出来る要素はないのだが、都市政策に関する事柄かさもなくばプライベートに関わる部分か、少なくともディゼンが絡んでいるということだけはいえる。
そうして、ロゼル副知事が殺害される前日まで、二人の間にトラブルらしきものがあったとは確認されていない。逆にロゼル副知事は実業家時代のディゼンの功績をよく承知しており、彼を敬い讃えること篤かったという。副知事就任が内定した際、その下僚として都市のために働けることをことのほか喜んでいたと、周囲の職員達が口を揃えて証言している。それまでの傲岸無能な人間ではなく、先見性を具えた有能な知事を戴けることに、人一倍仕事熱心だったロゼルがよほど歓喜したであろうという想像は決して難くない。
(これはつまり……)
エドほどのそれではないにせよ、ウォレンの頭脳もまた回転が速い。
すぐに彼は一つの仮説を立てた。
(前日に退庁してから翌朝登庁するまで、およそ十四時間。この間に、ロゼル副知事のディゼンに対する認識を一変させる何かがあった、と考えればいいだろう。確か、捜査記録では退庁後、自宅に直帰していた筈だな。ということは、あらためて夫人の元にお邪魔する必要があるな……)
そこまで考えをまとめると、ウォレンはやおら立ち上がった。
突然立ち上がった夫を、不思議そうな顔で見上げたアイリ。
「あなた、どうかしたの?」
「うん。わかったぞ、アイリ」
「わかったって……何が?」
なおも怪訝そうな妻に、にっこりと微笑みを向けつつ
「俺は、お前を、すごく愛している」
「え? ええ、ありがとう……」
この夫はよほど疲れ切っているに違いない。
アイリは心の中で思った。




