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落日編1  隠蔽

 突然、秘書室のドアが乱暴に開けられた。


「――私だ、ロゼルだ! ディゼン知事はいらっしゃるかね!? 今日は公務による外出予定はない筈だが?」


 飛び込んでくるなり怒鳴っている人物が州副知事だと知るや、その場にいた秘書達は一斉に緊張した。

 入り口の一番近くのデスクに向かっていたメガネの若い女性がおずおずと立ち上がり


「はい、ディゼン知事はただ今、知事公務室にいらっしゃいますが……」


 上目遣いになって恐る恐る告げた。

 相手が相手だけに他の女性秘書達も立ち上がって話を聴く姿勢を見せたが、ロゼルが何をそんなに興奮しているのだろうといった不可解な表情を隠さない。普段は温和で笑みを絶やさない、末端の州職員にまで人気のある副知事なのである。

 よほど興奮しているのか、彼は肩で荒く息をしている。

 メガネの女性秘書に刺さるような視線を向けたまま大きく一つ頷くと


「……わかった。今から、私が入る」


 開け放たれたドアから出て行こうとして振り返り


「私が出るまでは誰も入れるな。――いいな?」


 言い終わるなり、バーン! と勢いよくドアが閉められた。

 思わず身をすくめたメガネの女性秘書。


(何を考えているのだ、あの方は。この都市を賊の手に売るおつもりか……!)


 絨毯敷きのやや華美な廊下をつんのめるように歩きながら、ロゼルはむらむらと腹が立って仕方がなかった。

 が、相手はこの州のトップたる知事である。

 面と向かって罵倒する訳にはいかないが、場合によってはそれもやむを得ない――と覚悟しつつ、木目の美しい扉の前に立った。

 大きく一つ息を吸って心気を静めると、コツコツ、と扉をノックし


「知事、いらっしゃいますか? ロゼルです」

「――ああ、君か。入りたまえ」


 中からの返事を確認したロゼルは、扉の取っ手に手をかけた。


「失礼します……」


 入室して正面に視線をやると、大型の高級なデスクに向かっている一人の壮年がいる。

 かっちりとした身体を品の良い高級スーツで包み、肩幅からすればやや大きめな、しかしある程度均整のとれた容貌をもっている。頭髪は両側面と後頭部を残すようにして失われているから、五十六歳という年齢にしては多少早すぎるかも知れない。

 壮年は瞬間的に、特徴ある、刺すような鋭い眼差しを入り口に立ったロゼルの方へ向けた。

 が、すぐに微笑を浮かべつつ口を開き


「……ロゼル君か。ちょうどいいところに来てくれた。私も、用件があったのだよ」 


 ファー・レイメンティル州知事、ディゼン・ヴァドラーク。

 ひと月ほど前に実施された州知事選挙で、保守派の古参議員を大差で破って当選した。目に見えて衰退していく州経済に危機感を抱いた市民達から、徹底改革を公約に掲げる彼が圧倒的な支持を得たのである。いつまでも変わり映えのしない既存の保守派がいよいよ愛想を尽かされたものらしい。

 ロゼルはこれまで州都市統治機構にあって篤実な仕事を続けてきたが、そこに目をつけたディゼンから指名を受け、州議会の承認を得て副知事に就任した。

 この国家――ヴィルフェイト合衆国――の憲法では、三十五歳以上の男女は誰でも被選挙権を有すると定めている。つまり、副知事は州都市統治機構職員でいて、かつ州知事の指名を受けねば望んでもなることはできないが、州知事は市民の支持さえ得られれば誰でもなることができるのである。

 若くして大手金融機関重役に昇ったディゼン。

 だが、彼の野心はその座に留まっている我が身に満足することなく、やがて早々に退職。すぐに彼は、自ら一企業を立ち上げた。

 電子機器製造を主とした彼の会社は大胆な海外拠点拡張戦略によって瞬く間に急成長を遂げ、現在では隣国カイレル・ヴァーレン共和国をはじめ国内外に百箇所以上の事業所を擁するに至っている。その後新たに設立した関連企業等を含めれば、その事業拠点はゆうに五百を超える。恐るべき経営手腕といっていい。

 ただ、この男の巧妙さは、自分の膝下であり企業グループの本拠地たるファー・レイメンティル州への配慮というものを常に念頭に置いていた点にある。大規模な製造・流通ラインを同州に構築して大量の雇用確保をはかり、かつ他資本との提携によって市民生活に有益な各地域単位の中規模商業圏構築に尽力した。計画が軌道に乗るには十年もの歳月を要したが、これによって同州の失業率上昇は頭打ちとなったほか、州経済流動の円滑化促進によって少なからぬ経済効果を生む主たる要因となった。

 計画推進の背景には、いかにもディゼンらしい野心が垣間見えている。しかしその実効性については誰も非難あるいは否定する余地がなかった。

 具体性と高い実績に裏打ちされたディゼンの企業的社会貢献施策が、市民感情に響かぬ筈がない。大衆とは、常にこうした即物的な奉仕を欲する。折しも前知事の辞職に伴う州知事選挙実施の運びとなるや、市民の間で彼の出馬を望む声が高まっていったことは言うまでもない。

 そして、多少の紆余曲折は得たものの――大勢の予測通り、当選。

 まるで千里眼をもって時流を見通し、そして機を外さず都市権力をその手につかんだかのようなディゼンの成功ぶりに、国内外の政財界には波紋が広がっていた。将来的に彼が国家統治機構議会の演台に立つ姿を想像した者も少なくない。

 その彼から、名指しで信任を受けたロゼル。

 篤実な彼はその胸中、身命を賭して職務遂行に邁進していく決意を固めていた。

 この知事の下でならば、停滞しきったこの都市を変革へと導いていけるかもしれない――。

 責任の重大さに、不安は決して小さくなかった。が、むしろそれすら凌駕する勢いで湧き起こってくる希望と期待を、ロゼルは抑えかねた。

 それだけに――その事実が意図的に秘匿され続けていたことを知った瞬間、彼は愕然とした。


(これは……! 国家と市民への裏切りも同じことではないか!)


 期待と希望は、一瞬のうちに怒りへと変わっていた。

 副知事として冷静な対処を自らに課すべきであったが、もはや激しい怒りをどうにも鎮めることができなかった。この上は直談判に及ぶよりないと思い、こうして公務室まで乗り込んできたのである。


「公務でご多忙のところ、申し訳ございません。……お時間少々、よろしいでしょうか?」


 曇りのない大きな窓ガラスを通して差し込んでくる日光がことのほか目に痛い。

 書類にサインするペンを走らせていたディゼンはつと手を止め


「第四期都市再開発計画の件かね? ついさっき、国家統治機構財務局からの回答が届いたところだ。ミリィ君の想定通り、予算要求調書の――」

「いえ、今私がお邪魔したのは、その件ではありません」


 ディゼンの言葉を遮りつつ、懐の内ポケットから一枚の紙片を取り出して示した。


「都市開発計画云々よりも先に、詳らかにしておかねばならない事案があります。――これは一体どういうことでしょうか、知事」


 すっかり古くなった新聞記事の切り抜きであった。

 文章が異国の言語で綴られている。その新聞が海外のものであることは一目瞭然である。

 記事の中央に、小さく写真が掲載されていた。

 奇妙な紋様がプリントされた大きなタペストリーの前で、カメラの方を向いて握手している二人の男。

 片や白いフードを頭から被って顔だけを露出、身体もやはり白く大きなマント風な装束で包んでいる。奇装といっていい。顔の面積からすれば大きすぎる眼球が、不敵な鋭さを湛えた視線を放っている。

 そしてその男と握手している人物もまた、同様の衣装を身につけている。

 が、相貌だけは覆われていないから、カメラはそのまま記録してしまっていた。

 誰が見ようとも、その男の名前を一発で言い当てるに違いない。――ディゼン・ヴァドラークだ、と。

 切り抜きを示された当人はちょっと片眉を上げただけで、


「……どういうことも何も、これは私がカイレル・ヴァーレンに足場を移して事業拡大をはかっていた頃の写真ではないかね。懐かしい。現地の有力な鉱物採掘業者と提携を結んだというので、地元の新聞がちょっとしたニュースだといって記事にしたのだよ。かれこれ、十年と少し前かな……こんな新聞、よく入手したものだ」


 淡々と説明しつつ、感心したように微笑を浮かべた。

 が、ロゼルは苦い表情を崩さない。


「そのようにお思いだとすれば、記憶違いであると申し上げましょう。ここに写っている、知事と握手しているこの男は、鉱物採掘業者などではない、と」

「これはこれは、君も不思議な事を言う。私もあと数年で六十を迎えるが、これでもまだ衰えていないつもりだがね。脳も精神も肉体も。当時のことは、今でもはっきりと覚えているよ。記憶違いなどと――」

「……お二人の背後に写っているタペストリーの紋様が何であるか、私が知らないとお思いですか?」


 不必要に言葉数が多くなっていたディゼンは、そこで黙った。

 一歩前に踏み出たロゼル。射抜くような視線をディゼンに向けつつも、その相貌は心持ち青ざめている。


「アミュード教、教典原理回帰・選民思想主義ゴルバ派が掲げるシンボルマークでしょう。――蛇足かも知れませんが知事と握手しているその男、当時のゴルバ派における事実上の指導者ガヴァ・ロー・エンドゥ。記憶違いでは済まされない人物です。……随分、物騒な人間とお知り合いだったようですが」


 アミュード教。

 中立海峡を挟んだ海向こうの隣国、カイレル・ヴァーレン共和国において国民の実に半数以上が信奉する古来土着の宗教である。

 同国は豊富な地下鉱物資源の採掘によって非常な経済的発展を遂げると、強大な軍事力を背景に周辺地域の領土統合に乗り出した。この拡張政策における「万族調和」なる目的は響きこそ良かったが、実際には地下資源採掘権拡大を狙ったものであることは誰の目にも明らかであった。その強引ともいえる方法によって一部地域の住民や民族から反発をかい、後CMD――有人搭乗式人型作業用大型機械――の普及によってその抵抗運動はさらに激化することとなった。カイレル・ヴァーレン国民にアミュード教徒が多いという背景には、そういった歴史的経緯が伴っている。

 アミュード教徒は「神の土地を侵す者達」としてカイレル・ヴァーレン並びにその親交国に対して敵意を持ち、抵抗運動が武力によって鎮圧されるや、活動は地下組織化してテロ行為に発展、治安は泥沼化の一途を辿っていった。間もなく、各地に点在するアミュード教徒が連合の上組織化して独立を宣言、これを「アミュード・チェイン神治合州同盟」と呼ぶ。

 そして、カイレル・ヴァーレン国外でも反政府運動に携わっている者達が彼等に呼応し、連携を強化し始めた。それらの組織は思想上の理由あるいは政治的意図によって完全な一枚岩とはならなかったものの、最も巨大で有力な集団が「リン・ゼール」を名乗り、世界各地でテロ行為を行う急先鋒的な存在となった。

 こうした経緯を経て、世界各地では「アミュード教=テロ組織」という認識を持たれるに至っており、当然その強固な関連性を否定することはできない。

 ただし、アミュード教には幾つもの分派が存在する。

 穏健主義の和平派からテロ組織同様に他民族排撃思想を戴いた過激派、あるいは独自のコミュニティを形成して他派との接触を断絶し自分達だけが神に召されると信じる一派など――正確な統計は存在しないものの、思想の相違から枝分かれした分派は数百にのぼるとされている。

 そして写真の中でディゼンが握手している独特な雰囲気をもった男――この人物・ガヴァこそはアミュード教各派の中でも特に狂信的な他民族排撃思想を抱いたゴルバ派の中心者であった。もはや宗教者とは名ばかりの、神の名を語るテロリストとして各国治安当局に認識されている。彼等ゴルバ派が引き起こしたとされる凄惨なテロ事件は枚挙に暇がない。

 そういう反社会思想を抱いた人間と握手しておきながら、知らぬ存ぜぬでは通らない。

 穿った見方をしなくとも、テロ組織を支援しているのと同義であるからだ。

 この記事が新聞に掲載された頃というのはディゼンが自ら口にした通り、彼がカイレル・ヴァーレンで事業拡大に力を注いでいた時期と一致する。異国の文字で綴られたこの新聞記事が何を報じたものかまでロゼルは確認していなかったが、推測するに――ゴルバ派に対し、多額の活動資金提供もしくはそれに類する支援を約束した会見であると断じたところで誤りにはならないであろう。ただし、この新聞がなぜテロ組織のトップが異国の実業家と会見したニュースを報じているのか、そこは憶測するより法がない。

 もっとも、ガヴァは自らが襲撃されることを恐れる余り、公に顔を晒すことは滅多になかったと言われている。過激派の首領でありながら我が命を惜しんだというあたりに拭い去れない滑稽さが垣間見えるようである。しかしながら彼はこの記事から二年後、組織の内紛に巻き込まれて殺害されている。

 ディゼンはそういう事情も加味した上で、態ととぼけてみせたのだろうと、ロゼルは踏んでいた。


「いかがでしょうか? 何か特別な事情をお持ちということならば、この際是非伺っておきたいものです。放っておけば、知事の政治生命に影響しかねません」

「……」


 政治的急所を抉るその問いかけに対し、ディゼンはまず沈黙をもって応えた。

 口を噤み、目を閉じている。

 それから知事公務室に訪れた静寂は、ほとんど時間が止まったかのように長かった。

 彼をじっと注視しているロゼルは直立不動のまま、身じろぎ一つしない。

 この状況下にあって知事・ディゼンがなおも偽りを口にする余地はもはやないであろう。

 やがて日の光が厚い雲に遮られ、室内が一瞬暗く陰った。

 と、いい加減ロゼルの脚がくたびれてきた頃である。


「……いいだろう。君には、話しておいた方がよさそうだな。私が見込んだ通り、隠し事の通用する相手ではなさそうだ」


 ディゼンの低くしかし太い声によって、沈黙は破られた。


「……」


 彼はチェアに深く腰掛け直して居住まいを正しつつ、デスクの天板に両肘をついた。

 ロゼルに向けられたその眼差しが不敵な光を讃えている。


「……私は、アミュード教徒だよ。その写真が物語っているように、ゴルバ派さ。何せ、サウス・レム出身なものでね。もっとも、今ではゴルバ派とは呼ばれていないが」


 瞬間、ロゼルは顔をこわばらせた。


「ゴルバ派……!? 知事、あなたという人は……!」


 彼が緊張したのも無理はなかった。

 ディゼンが、自分はテロ組織の一員だと認めたにも等しいからである。

 かつて、州都市統治機構職員に成り済ました工作員が潜入していたという事象はあった。が、一州のトップたる知事自らがテロ組織と密接な関係を有しているなど、前代未聞といっていい。

 しかも、ロゼルの驚愕には別の事情が絡んでいる。

 実のところ、現在ゴルバ派なる分派は存在しない。

 ゴルバ派は思想見解をめぐって内部闘争に及んだ挙げ句ほとんど潰滅の体となり、他派によって吸収されてしまったのである。指導者ガヴァ・ロー・エンドゥが殺害されたのは、この騒ぎの渦中であったらしい。教徒らの支持を失った上、不正蓄財を逞しくしていたことが露顕したためといわれている。

 この時、ゴルバ派に与していた者達の一部は分離独立を宣言、新たに「ニール派」を名乗ったが、ひと月後に彼等は突然の襲撃を受け、所属していた教徒のほとんどが殺害されてしまう。

 内部粛清とも受け取れるこの惨劇を演出したのは「ゴーザ・ディミニィ」なるグループであった。

 通称・ゴーザ派。

 現地の言葉で「神の代理」という意味であるらしい。

 アミュード教徒の中でも極端な排他思想を持つ者達によって組織された宗教結社だが、その活動はもはや宗教の名を冠するに値するものではなく、世界でもっとも凶悪なテロ組織として認知されるに至っている。その独自の宗教観というのは、他民族、他宗教の排撃こそが神から与えられた崇高な使命であり、目的を達するためには身命を厭わず投げ出すべきというものである。アミュード教の系譜を引く集団のうち、過激思想を抱くグループは決して少なくないものの、彼等をして「聖なるアミュードはついに狂える犬を世界に解き放ちたもうた」と言わせしめるほど、ゴーザ派の行動は常軌を逸していた。

 神に変わって罪の存在(これは自分達以外の人間全てを指すのだが)に裁きを加え、我が命を納めた報いとして神の救いを得るという思想が根底にあるから、ほとんどが捨て身の自爆テロである。ゆえに、起こりうる事件は常に酸鼻を極める上に犯人がもろともだから、世界中の当局も組織の有り様を偵知する術をもたなかった。

 弱体化したゴルバ派を内部から切り崩し、四分五裂させたのはこのゴーザ派の仕業であった。

 多数のゴルバ派教徒が潰滅後にゴーザ派へとなびいたのは、その根底に脈打つ極端な排他思想という点で一致していたこと、そして同派に属して工作員を志願した者には生活の保証が約束されていたことに因るといわれている。

 つまり――現在では「旧ゴルバ派=現ゴーザ派」という構図が成立するといって過言ではないのだ。

 ディゼンの「今ではゴルバ派とは呼ばれていないが」という発言は、そのことを意味している。

 ロゼルが思わず震撼したのは、この事情を認知していたからである。

 彼はしばらく、直立不動の姿勢を保ったまま呆然としていた。

 口を利こうにも、利けなかった。

 州の知事が、よりによって世界最悪のテロ組織の関係者であったとは――。

 心気朦朧とするほどに驚き、そして恐れたが、平然としているディゼンの姿をあらためて見つめた時、激しい怒りに揺さぶられる胸中をどうすることもできなかった。

 度を失おうとする我が身を必死に宥めるロゼル。

 ようやく、振り絞るような声で


「あ、あなたは、自分が何をなさっているのか、わかっているのですか!? これではまるで、ファー・レイメンティルの都市はアミュード教、もといゴーザ派に乗っ取られたようなものではありませんか……」


 身を振るわせつつ、やっとの思いで抗議した。

 そんな彼をディゼンは侮蔑するかのような口調で


「少し落ち着きたまえよ、ロゼル君。私がアミュード教徒だからといって、頭ごなしにテロリスト呼ばわりされるのは不快の極みだよ。君とて、私のこれまでの社会的貢献を知らぬ訳でもあるまいに。――それとも、君もあれかね、誤った政教分離の概念に取り憑かれた妄想論者かね?」


 政教分離。

 この言葉の意味はしばしば誤解されやすい。

 本義としては国家主権による宗教団体、宗教活動への干渉、介入を戒めるという意味をもつものであり、ひいては国民の思想、信条、信教の自由を保護するために不可欠の理念といってもいい。国家主権がその権力体制を護持するために宗教をその支配下におこうとした例は無数にあり、そのために人類は数限りない悲劇を演じてきた。そうした過去の教訓からうまれたのが政教分離の概念であって、現代にあっては限りなく普遍性を帯びた不可侵のものである。

 が、政治的に宗教組織を利用せんと企てる者達はこの言葉の意味を意図的に反転させ、宗教組織による特定の政治団体への支持、協力行為を禁じたものであると主張して止まない。強力な組織力を有する宗教組織に、敵対する政治団体や政党を支持されてしまっては、自分達の立場が危うくなるからだ。その証拠に、政教分離議論が噴出してくるのは決まって国家ならびに州統治機構議会議員選挙の時期のみであり、平素にあってこの議論が新聞紙上やマスコミを賑わせた試しは皆無に等しい。

 ディゼンが「誤った」と形容したのはロゼルが逆転された意味での「政教分離」を唱えたものという前提による。ただし、それは逆上しつつある彼を揶揄してそのように皮肉ったに過ぎない。

 しかし、動揺を隠せないロゼルは実のない政教分離議論を真に受けてしまった。

 ディゼンに真っ向から反論する姿勢を見せ


「政教分離の概念については、私も正しく認識しているつもりです。何も、政治の主体者は宗教タブーであるなどと申し上げているのではありません。――しかし、今のあなたじゃ話は別だ。よりによって、テロ活動を行動方針に掲げたゴーザ派のアミュード教徒であることをひた隠して州知事選に出られたとあっては、市民を欺いたも同じではないのですか? 今彼等がこのことを知ったならば、どのような事態を招くか」


 半ば咆えるようにして説いた。

 が、すでにその議論はディゼンにとって興味がない。


「……私を知事に選んだのはその市民達だよ、ロゼル君。市民は私という人間をして知事たらしめるに相応しいと判断したのではないかね? 宗教は人間性を形成するいわば骨格に等しい。宗旨がどうであれ、属人が信奉している宗教を否定するのは人格を否定するにも等しいと思うがね。――そういう意味において、民意を軽視するのはいかがなものかな?」

「……」


 詭弁ではないか。

 ロゼルはそう口に出しかけたが、ぐっと呑み込んだ。

 ディゼンの主張に一理あると思うからではなく、何を言おうと彼の心には届かないだろうと思ったからだ。


「そもそも、私がアミュード教徒であるからといって、テロ活動を行う人間だとレッテルを貼るのは極めて遺憾だがね。繰り返すが、私はこの州の知事なのだよ……」


 傲然と言い放ち、ロゼルをあざ笑うかのように冷笑を浮かべているディゼン。

 その姿に、ロゼルはもはや我慢がならなくなっていた。


「そうですか。わかりました……」


 俯き、唇を噛み締めている。

 が、すぐに意を決したように顔を上げると、正面からディゼンを睨みすえながら


「――そういうことならば、あなたの元では副知事の役割を勤められそうもない。あなたが知事として早急に着手すべき仕事は、私の後任を探すことだ」


 思いがけないタイミングでの離反表明に、ディゼンは一瞬驚きの色を浮かべたが


「君も天辺まであと一歩、だというのに。私見にしがみつくあまり、これまでの努力を水泡に帰させるなど、なんともったいない……」

「やむを得ません。あなたの言っていることは支離滅裂だ。州政府に属する人間ならば、それ相応の倫理と道徳、そして正義を矜持するのが当然でしょう。私は何も、アミュード教を否定しているのではない。ゴーザ派などという殺人集団との関係を維持しているご自分を憚ろうともしないあなたが信じられないだけだ。あなたがそのつもりなら、私には私なりの考えがある。――もう、お会いすることもありますまい」


 渾身の怒りを込めて思いのたけを一気にぶちまけたロゼル。

 くるりと背を向け、部屋の出口へ大股で歩いて行く。

 すると、彼の背にディゼンの声が飛んできた。


「一つ、大事なことを言い忘れていた」


 立ち止まって振り返ったロゼルの眦が、大きく見開かれる。

 大きな窓を背負っているディゼンの姿は逆光ではっきりと見えなかったが、いつの間にかその手に物騒な凶器が握られていたことだけは理解できたからだ。

 ディゼンは口元に微笑をたたえたまま、その表情を変えることなく


「……副知事の役目、ご苦労だった。ゆっくりと休むがいい」

「な、何を……!? 正気なのですか!?」

「なに、秘密を守ってもらいたいだけさ。……君の休養も兼ねてね」


 パンッ――

 乾いた炸裂音が一つ、室内に反響した。

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