そんな日。そんな朝。そんな風景。
湖の中に棺がある。水底に沈んでいるという意味ではない。その棺は半分を水中に沈め、半分を水面から出し。器用に水平に保たれたそれは、まるで湖の底が其にあるかのように見えるが、湖の深さはひどく深く。いくら水が澄んでいようとも、水上からはその底は窺い知ることはできない。
その棺は、広い湖の中心に位置していない。正面から見やれば、中心に見えるが、右側から見ればそれはやや右側に在り。正面の真反対から見れば、やや奥に。左側から見れば、やや左側にというふうに。棺は、位置していた。
遠くに山岳を臨む、森の途切れた所にあるその湖に、薔薇色の髪をした女性が近づいてきた。腰まである薔薇色の髪はくるくると巻かれ、ふんわりと揺れている。髪と同じ色の薔薇色のワンピースに、やはり薔薇色の高いヒールを履いて。薔薇色の瞳の女性は真っ直ぐに湖へと向う。
ぱしゃりと音を立て、薔薇色の女性の足が湖の中へと入る。その湖はなだらかに深くなるわけではなく、断崖のように急な深さを持っていたが、女性は気にするでもなく足を進める。丁度足首までが水に沈み、しかしそれ以上沈むことはなく歩いてゆく。膝下のワンピースが濡れることもない。薔薇色の女性は、湖の上を真っ直ぐに棺に向って歩いていた。
十分も経った頃だろうか。ようやくといった感じで薔薇色の女性は棺に辿り着いた。半分沈み、半分浮き。器用に水平を保っているその棺を、薔薇色の女性は何のためらいもなく、ノックした。まるで普通の扉を叩くかのように。
「おはよう。朝よ。」
朝日は昇り、清々しい空気が湖を駆ける。一般的に棺といえば、開くのは夜、日が落ちてからという先入観を。
「朝よ。起きて。」
全く気にすることなく。それは当然の行為だとばかりに薔薇色の女性は棺を叩く。今棺を開けたのなら、中のものは灰と化してしまうのだろうか。
「・・・・・起きなさいって言ってんでしょ!」
痺れをきらした薔薇色の女性が、がんと棺を思い切り蹴りつけた。蹴られた棺は僅かに揺れ、それでもやはり沈むことはなく、位置を変えることはない。
「・・うぅん・・・」
子供がむずがるような声が棺から聞こえ、それに薔薇色の女性はもう一度無言で棺を蹴った。
「・・・起きるから・・・蹴らないで・・」
しぶしぶといった声と共に、棺の蓋が僅かに動く。これでもし中のものが灰になってしまえば。お話は続かず、なんとも言えぬ微妙な空気で終らざるをえないだろう。
「うう・・・眩しい・・・」
がたんぱしゃんと音がして、棺の蓋が完全に空きついでに水面に落ちた。それはやはり沈まずに、中に水が入らない程度の絶妙さで棺の隣に浮かび。
「おはよう。水蜘蛛。」
薔薇色の女性はやや冷ややかにそう声をかけた。棺から起き上がった女性に向って。
残念ながら中にいたものは、陽の光りで灰になる類ではなかったらしい。どうやらもう少し、このお話しは続くようだ。
「うう・・おはよう・・・荊棘姫・・・。・・てゆうか・・水蜘蛛って呼ぶのやめてよ・・・。もっときれいな名前があるんだから・・」
さらさらと流れる透明な青色の髪を片手でかき上げながら頭を抑える女性は棺の淵に寄りかかりながら、白い顔で荊棘姫と呼んだ薔薇色の女性を見上げる。眩しそうに細める瞳は、髪と同じ澄んだ青色で。
「さっさと起きないあなたが悪いのよ、機織姫。」
「うう・・・」
片手で頭を抑えたままうなだれた機織姫の棺の横に荊棘姫は座る。ふと何かに気付いたのか、機織姫の襦袢に散る桜の花弁を見た荊棘姫はすぱんと機織姫の頭をはたいた。
「い・・痛いじゃないいばら・・何」
「あんた、昨日どんだけ呑んだのよ。」
「う。」と呟いて一瞬動きを止めた機織姫に荊棘姫はこれ見よがしに溜息を吐き、二日酔いに眉を顰める機織姫にぴっと指を指し。
「機織、あんた今日月の帝に献上する反物を届ける日だって言ってなかった?だからわざわざわたしがあんたを起こしに来たのよ!?それをなかなか起きないわ二日酔いにはなってるわ・・・どういうつもり!?」
「ううう。」きつく言われますます棺の中に隠れてゆく機織姫に荊棘姫は容赦なく畳み掛ける。
「だいだい、何で棺なのよ?これほんとうは死者の入るものだって何回言ったかしら!?起こしに来る度に開けて灰になってしまったらどうしようとか、開けたらあなたの亡骸だったりしたらどうしようとか!わたしの心配もちょっとは考えなさい!」
「いつもそんなこと考えてないくせに・・」
「何かしら?機織。」
ぽそりと呟いた言葉に荊棘姫は凄みのある笑顔でにっこりと機織姫を見た。
「うう・・だってこれ、ちゃんと蓋が閉まるから中に水が入らないし・・・狭そうに見えて実は結構快適だし・・・」
「刺すわよ。」
「う。ごめん。」
すっかりしょげてしまった機織姫に、仕方ないわねと溜息を吐いた荊棘姫は立ち上がり。
「まあとにかく起こしたわよ、機織。あなたこれで今日ちゃんと届けに行かなかったら怒るわよ。」
「もう怒ったじゃない・・」
「何か言った?」
再びにっこりと振り返った荊棘姫に慌てて首を振り、じゃあねと手を振って歩き出した荊棘姫を見て指先を湖へとつける。
「いばら!」
呼ばれて振り返ると少し離れた機織姫がその繊細な顔の造りで柔らかく微笑んでいる。
「何?」
聞けば足元を指差され。ぷくりと音を立てて数匹の魚に支えられ風呂敷で包まれた三本の瓶が水面に立った。器用に結ばれている取っ手を持てば、嬉しそうな機織の声が聞こえ。
「それ、今年最後の桜酒よ。昨日で全てのはなひらが散ってしまったから。昨夜はちょうど満月で、桜木の虚に溜まったそれも今年最高の出来なの。」
ふふふと楽しそうに笑う機織姫に、重たい瓶を抱えた荊棘姫は首を傾げる。
「そんな良いもの、もらってもいいの?」
ふふふと笑う機織は棺の端に両手を乗せその上に頭を置きながら。
「大丈夫よ、それはほんの一部だから。今年は出来も良かったけど、量もたくさん採れたの。だから持って帰って、いばら。また起こしてもらわなきゃいけないしね。」
確りしてる。
「じゃあもらっとくわ。じゃあまたね、機織。」
苦笑しながらひらひらと手を振り荊棘姫は水面を歩いて行った。
「さて・・・」
うーんと伸びをして機織姫はぱくぱくと口を動かした。すると水中から魚たちが着物を持ってき、するりと受け取ると不思議と濡れていないそれを纏う。足先まである髪をゆるく結い、湖の中にある棺からとぷんと水中へと潜って行った。
涼しい風の通る湖面に、沈むことなく浮いている棺。主の居なくなったそれは静かに佇み。遠くに山岳を臨んでいた。
ただ。
蓋、閉め忘れてますよ。