第7話:夜の穀倉と小さな影
盗まれた。
穀物が、三袋。
―――
朝の倉庫確認で気づいた。
昨日の閉庫時に数えた残量は四十一袋。今朝は三十八。鍵は壊されていない。窓にも侵入の痕跡はない。
「ミチカ様、内部の者の可能性は」
レオンが険しい顔で言った。
「鍵を持っているのは私と管理係のみです。管理係は昨夜、館に泊まっています。鍵の複製か、別の侵入経路が――」
「レオン。落ち着いて」
私はステータスオープンで倉庫を確認した。物資管理の統治指標――格納記録に「異常出庫」の表示が出ている。
出庫時刻は深夜の第三刻。
「深夜三時頃に搬出されています。――外部からの侵入です。レオン、倉庫の裏手に小窓がありませんでしたか」
「あります。ただし――」
「人が通れない大きさ、ですよね」
大人なら。
でも、子供なら。
―――
リオを呼んだ。
「穀物三袋の盗難? ――そりゃまた、えらくピンポイントだな」
リオが腕を組んだ。
「三袋ってのが気になるね。転売目的なら、もっとごっそり持って行くだろ。三袋は――」
「食べる分だけ」
「そう。自分で食べる量だ。しかも運べる量でもある。大人なら一度に五袋は行ける。三袋しか運べないってことは――」
「子供」
リオと私の声が重なった。
「で、子供の窃盗となると――」
リオの表情が少しだけ変わった。軽い口調の下に、何か引っかかるものがあるような。
「……心当たりがある?」
「いや、確信はない。けど、街道筋で噂を聞いたことがあってね」
「噂?」
「この辺りの街道で、行商人の荷から小物を抜く奴がいる。巧いんだ。気づかないうちにやられる。被害は少額だから大騒ぎにはならないけど、やり口がプロっぽい。――で、目撃情報だと、小柄な子供らしい」
「小柄な子供が、プロの手口で窃盗を」
「スリだよ。街道筋のスリ。――俺も一回やられかけた。気づいたのは偶然だ。荷紐に触る手つきが、やけに上手かった」
リオの目が、いつもの商人の計算とは違う色を帯びた。
「俺が声かけたら、兎みたいに逃げやがった。追いかける気にもなれないくらい速かった」
―――
翌日の深夜。
私は倉庫の裏手で待っていた。
レオンには反対された。「ミチカ様が直接張り込むなど」と。
でも、これは私がやるべきだと思った。
ステータスオープンの近距離探知を使えば、接近者をリアルタイムで捕捉できる。レオンや他の大人では、相手が逃げる。
――子供相手に追い詰めるのは、大人の仕事じゃない。
同い年くらいの私が行く。
冬の夜気が骨に染みる。石壁に背中をつけて、毛布に包まって座り込む。ミナが持たせてくれた白湯の水筒がありがたい。
深夜。星が出ている。息が白い。
探知範囲五十メートル。倉庫周辺に反応はない。管理係はとっくに館に引き上げている。レオンは――命令通りなら館の警護に就いているはず。命令を無視してどこかで見張っている可能性もあるけど、それはレオンの判断に任せる。
一刻が過ぎた。
二刻が過ぎた。
……来ない。
子供の体力ゲージ、限界が近い。まぶたが重い。
もう少しだけ――
反応。
探知圏の端に、生体反応が一つ。
小さい。子供だ。
移動速度が異常に遅い。――いや、遅いんじゃなくて、音を立てないように動いている。壁際を這うようにして、一歩ずつ。
上手い。
夜間の潜行技術としては、大人の偵察兵でもこうはいかない。足音がゼロ。影から影へ、月明かりの下を完全に避けて移動している。
倉庫の裏手――小窓の下に、人影が蹲った。
見える。
月明かりの端で、小柄な影が窓枠に手をかけた。
小さい。私やミナよりさらに小さい。年齢は十一くらいか。髪が短い。目つきだけが暗闇の中で光っている。――猫みたいだ。
窓枠を外す手つきが淀みない。何度もやっている動きだ。
三袋。きっちり三袋だけ抜くつもりなのだろう。生きるために必要な量だけ。
「――そこまで」
私は毛布を脱いで、小窓の横に立った。
影が凍った。
一瞬――本当に一瞬で、全身が逃走の態勢に入った。猫どころじゃない。野生動物だ。
でも、逃げなかった。
逃げられなかったのではない。私の目を見て――止まった。
「逃げなくていいです」
声を抑えた。怒鳴らない。追い詰めない。
「話を聞かせてください」
沈黙。
影の目だけが、暗闇の中でこちらを見ている。出入り口と窓の位置を確認している。――逃走経路の把握。身体が覚えている癖だ。
「……誰だ」
低い声。子供の声だけど、声の出し方が暗い。喉の奥で潰すような発声。見つかりにくい声を作っている。
「ミチカ・フォン・ヴァイスフェルト。この領の領主です」
「……領主」
目が、少し変わった。警戒が一段階上がったのか、それとも――。
「穀物を盗っていたのは、あなたですね」
返事はない。
「三袋ずつ。食べる分だけ。鍵を壊さず、痕跡を残さず」
返事はない。でも、身体の強張りが少しだけ変わった。自分の手口を正確に言い当てられた驚き。
「上手です。正直に言って、感心しました」
「……莫迦にしてるのか」
「していません。事実を言っています。――名前は?」
長い沈黙。
「……カイ」
「カイ。――一つ聞いてもいいですか」
返事を待たずに聞いた。
「なぜ三袋なんですか。もっと持って行けたはずです」
カイの目が揺れた。
「……必要な分だけだ」
「必要な分」
「食う分。――それ以上は盗らない」
その言葉に、嘘はなかった。
ステータスオープン。
『カイ Lv.5 元スリ(更生中)』
忠誠値:5/嘘反応:なし
職能適性:潜入A、偵察A、追跡B、情報操作C
精神状態:警戒(極高)、罪悪感(中)、居場所不安(極高)
忠誠値5。ほぼゼロ。
でも嘘反応なし。この子は嘘をつけない。あるいは――つかない、と決めている。
「元スリ(更生中)」。
更生中。つまり、もうやめようとしている。食べ物を盗るのは――生きるための最後の手段。
精神状態、「居場所不安(極高)」。
この子は、どこにも居場所がない。
「カイ。あなたを捕まえるつもりはありません」
カイの目が見開かれた。
「穀物は返してもらいます。でも、罰は与えません。――ただし、条件があります」
「……条件」
「明日、領主館に来てください。話したいことがあります」
カイは何も言わなかった。
身を翻して、闇の中に消えた。
速い。影が影に溶けるように。足音はゼロ。
――来るかどうかは、わからない。
―――
翌朝。
来ないかもしれないと思っていた。
半分は来ることを祈って、半分は来なくても仕方ないと覚悟していた。
「ミチカ様、館の裏手に……子供が一人、立っています」
ミナの報告で、私は椅子から立ち上がった。
裏手。正面玄関じゃない。――裏口から来るのが、この子らしい。
館の裏口を開けた。
カイがいた。
昨夜と同じ格好。小柄な身体。短い髪。鋭い目。――でも、昨夜と一つだけ違う。
足元に、穀物の袋が三つ、置いてあった。
「……返しに来た」
低い声。こちらを見ない。
「ありがとう。――中に入りませんか」
「……用件だけ聞く。中には入らない」
逃走経路を確保したいのだ。建物の中に入れば、出口が限られる。この子は常に「逃げられる場所」にしかいない。
「わかりました。ここで話します」
私は裏口の敷居に腰を下ろした。カイとの間に、三袋の穀物がある。
「単刀直入に言います。あなたの足と目が必要です」
「……何のためだ」
「この領を守るために」
カイの眉が動いた。
「本家から召還状が届いています。本家は力で押し切ろうとしている。それに対抗するには、情報が必要です。――敵の動きを察知し、領内の異変を見つけ、誰にも気づかれずに報告を持ち帰れる人間が」
「……俺を偵察に使うのか」
「偵察。監視。情報収集。あなたの技術は、そのためにあると思います」
カイの目が、ちらりと私を見た。
「……盗みの技術を、褒めるのか。領主が」
「盗みの技術じゃない。あなたが身につけたのは、気配を消す技術と、観察する技術と、逃げる技術です。それを何に使うかは――あなたが選べる」
沈黙。
長い沈黙。
カイの手が、無意識にズボンの裾を握っていた。
「……居場所」
小さな声。
「……ここにいて、いいのか」
その声が――不意に、胸に刺さった。
この子が欲しいのは「使われる場所」じゃない。「いていい場所」だ。
十一歳。親がいるのかもいないのかもわからない。街道筋でスリをしながら、一人で生き延びてきた。必要な分だけ盗って、それ以上は手を出さない。自分なりのルールを守りながら。
「いていいですよ」
私は言った。
「ここは、あなたの居場所です。――ただし、ルールは守ってもらいます」
「……ルール」
「盗みはしない。嘘はつかない。任務には全力で当たる。――それだけです」
カイは答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ――顎を引いた。頷いたのだ。たぶん。
「……カイ。一つ、今すぐお願いしたいことがあります」
「何だ」
「御用商会の倉庫の周辺を見てきてほしい。人の出入り、荷の動き、異変があれば全て。――戻ったら、報告を」
カイの目が変わった。
さっきまでの不安が、一瞬だけ引っ込んで――代わりに、鋭い集中の光が灯った。
仕事を与えられた顔。
「……了解」
それだけ言って、カイは消えた。
文字通り、消えた。角を曲がった瞬間、気配がゼロになった。探知で追いかけると、すでに五十メートル圏の端に達している。速い。
ミナが裏口から顔を出した。
「あの子……仲間になるんですか?」
「なるといいね」
「ミチカ様が声をかけたんだから、きっとなります」
ミナの楽観論は根拠がない。でも、なぜか安心する。
―――
夕方。
カイが戻ってきた。
裏口から。やっぱり裏口。
「報告」
カイの声は短い。体言止め。必要最小限。
「御用商会の倉庫。本家の紋章入りの馬車が二台、今朝出発。荷は穀物。行き先は領外。街道の検問を通らず、東の間道を使用。――帰路に本家からの伝令が一騎、合流」
情報量が多い。しかも整理されている。観察力はステータス通りだ。
「……伝令の内容は分かりますか」
「近づけなかった。ただ、伝令を受けた後、御用商会の人間が荷を降ろし始めた。――出発を中止した」
「中止?」
「伝令が来て、方針が変わった。荷を領内に戻している」
ステータスオープン。御用商会関連の統治指標に変動――。
本家からの伝令で、穀物の搬出が止まった。これは――召還状と連動している。回答書を出す前に穀物を抜き終えるつもりだったのが、計画変更。
何かが動いている。
「カイ。よくやりました」
カイの表情は変わらない。でも、肩の力が少しだけ抜けたように見えた。
「……もう一つ」
「何ですか」
「倉庫の裏手の壁に穴がある。子供なら通れる。――俺が使ってた侵入口だ」
「……それ、自分の手口を暴露してませんか」
「もう使わない。――塞いだ方がいい」
ああ。
この子は、自分の「逃げ道」を差し出したのだ。もう盗みはしない、という宣言。
「ありがとう。レオンに伝えて、塞いでもらいます」
カイが頷いた。今度ははっきりと。
ミナが走ってきた。この子は本当にいつも走っている。
「ミチカ様! ノアさんが東地区の井戸の水質報告を――あ」
ミナがカイに気づいて、足を止めた。
「……えっと、こんにちは」
カイは答えなかった。ミナの顔を見ず、出入り口の位置を確認している。
――逃走経路の把握。この癖、直るのに時間がかかりそうだ。
「ミナ、紹介します。カイです。今日から――」
何と言おう。偵察担当? 監視係?
「――仲間です」
ミナの顔がぱあっと輝いた。
「仲間が増えた……!」
カイが一瞬、目を見開いた。
「仲間」という言葉を聞いたことがないような顔だった。
―――
夜。
ユリウスの小屋で回答書の最終調整をしていると、リオが来た。
「カイのこと、聞いたよ」
「知っていたんですね。街道筋のスリ」
「まあね。――あの子さ、俺が声かけたとき、逃げたんだ。でも翌日、俺の野営地に干し肉が置いてあった」
「干し肉?」
「俺から抜こうとした分。返しに来たんだ。――盗れなかったからじゃない。盗らないことに決めたんだと思う」
リオが肩をすくめた。
「そういう奴を、見捨てられなくてね。面倒だけど」
「リオ」
「ん?」
「あなた、いい人ですね」
「やめてくれ。商人に『いい人』は禁句だ。商売がやりにくくなる」
リオがにやっと笑った。でも、その笑みの下に――少しだけ、柔らかい何かがあった。
ユリウスが羽ペンを止めずに言った。
「随分と賑やかになったな。四人で始まった陣営が、もう七人か」
「ミチカ様、ミナ、レオン、ユリウス、リオ、ノア、カイ。――七人」
ミナが指を折って数えている。
「全員、子供です」
「子供で上等だ。大人に期待するより、よほど確実だよ」
ユリウスの皮肉は、ときどき本音と区別がつかない。
私は窓の外を見た。
星が出ている。
七人。
召還状の期限は迫っている。本家は力で来る。御用商会はまだ息をしている。未知の「未定義」の影もいる。
でも――
駒は揃いつつある。
穀物を配り、流通を築き、衛生を整え、情報網を敷いた。
次は――回答書を完成させて、本家に叩きつける。
「ユリウス。回答書の進捗は」
「九割。明日の朝には完成する。――寝てくれ、ミチカ。子供は寝ないと育たない」
「あなたも子供でしょう」
「俺は例外だ」
こいつ、本気で言ってるな。
「おやすみなさい。――明日から、忙しくなります」
「今まで暇だった覚えはないがね」
ユリウスの皮肉を背に、私は小屋を出た。
夜風が冷たい。
でも、不思議と凍えない。
七人分の体温が、この領を少しずつ温めている。




