第6話:井戸水と薬草師ノア
配分を始めて五日目。
最初の「患者」が出た。
「ミチカ様、東地区の老人が一人倒れました」
レオンの報告を受けて、私は走った。十二歳の短い脚で。子供の体力ゲージ、やっぱり容量少なすぎ問題。
東地区の集会所――と言っても、崩れかけた共同作業場の軒先だけど――に、老人が横たわっていた。
顔色が土のように灰色で、唇がひび割れている。周囲に家族らしい人が三人、おろおろと立ちすくんでいた。
「いつから?」
「今朝から具合が悪くて……。水を飲ませたんですが、吐いてしまって……」
嫁らしき女性の声が震えていた。
ステータスオープン。
領民の健康状態に関わる統治指標が表示される。
『東地区老人――栄養失調:重度/脱水:中度/感染兆候:あり』
感染兆候。
嫌な予感がした。個人の体調不良なら手当てで済む。でも「感染」は――広がる。
「この地区で、同じような症状の人は」
「あの……隣のおばさんも、昨日から寝込んでいて」
二人目。
私は地図を頭に描いた。東地区は井戸が一本。共同井戸の水質が原因なら、地区全体に波及する。
「レオン、東地区の井戸を封鎖してください。代替の水は南地区から運びます。リオに連絡を」
「了解」
レオンが走り出す。
――でも。
私は老人の顔を見た。灰色の肌。乾いた唇。
この人を、今、助ける手段が私にはない。
ステータスオープンで状態は分かる。何が問題かは分かる。でも「治す方法」は教えてくれない。統治チートは統治に特化していて、医療の知識までは持っていない。
前世の一般常識で水分補給が必要なことは分かる。でも「感染兆候」に対して何をすべきか――具体的な処置が分からない。
「すみません」
聞き慣れない声がした。
静かな声。低い。でも、不思議と耳に残る声。
振り返ると――少年が一人、集会所の軒先に立っていた。
私と同い年くらい。背は少し低い。黒い髪に、感情の読みにくい落ち着いた目。手に革表紙の帳面と炭筆を持っている。
知らない顔だ。
「……あなたは?」
「ノアと言います。――この方を診せてください」
名乗りもそこそこに、少年――ノアは老人の傍に膝をついた。
まず額に手の甲を当てた。次に手首を取り、脈を確認する。唇の色を見て、舌を確認し、指先の色と爪の状態を確かめた。
その動作の一つ一つが、迷いなく、正確だった。
「……脱水が進んでいます。ただし嘔吐があるなら、一度に水を与えてはいけない。少量ずつ、間隔を空けて」
帳面を開く。何かを書き留めている。
「塩と砂糖を水に溶かしたものが理想です。なければ、薄い粥の上澄みでも構いません。――あと、この方の寝かせ方を変えてください。横向きに。吐いたときに詰まらないように」
嫁に指示を出す声は、十二歳の子供のものとは思えないほど冷静だった。
私はステータスオープンを起動した。
『ノア Lv.6 薬師見習い』
忠誠値:15/嘘反応:なし
職能適性:医術B、衛生管理A、観察力A、記録管理B
精神状態:集中(高)、使命感(中)、孤立感(低〜中)
衛生管理A。十二歳で。
嘘反応なし。この子は、本当のことしか言わない。
「ノア、さん」
「ノアで構いません」
老人の処置をしながら、こちらを見ない。手が止まらない。
「あなたは医者ですか」
「薬師の婆さんに育てられました。医者ではありません。――でも、この症状には覚えがあります」
ノアが帳面を開いて見せた。
中には、びっしりと記録が書き込まれていた。
日付。症状。気温。食事内容。水源。
「この地区の井戸水を調べました。昨日、少し匂いが変わっていたので」
「昨日? ――あなた、この地区を調査していたんですか?」
「はい。三日前から」
三日前。
私が穀物配分を始めたのと、ほぼ同時期だ。
「なぜ」
ノアの手が一瞬だけ止まった。
「……穀物が配られ始めたと聞きました。でも、食糧だけでは人は健康にはなりません。水が汚れていれば、食べても体を壊す。――誰かが調べないといけないと思って」
誰かが。
この子は「誰かが」と言った。命じられたわけでも、頼まれたわけでもなく、「誰かがやるべきことだ」と判断して、一人で動いた。
十二歳で。
「……帳面を見せてもらえますか」
ノアがわずかに躊躇した。帳面を胸に抱くような仕草。これは彼の大事なものなのだ。
「分析に使いたいんです。あなたの記録は、この領の公衆衛生の基礎データになり得ます」
「……公衆衛生」
ノアが初めて、私の顔をまっすぐ見た。
その目に、微かな――本当に微かな――光が宿った。
「……ここに、全部書いてあります」
帳面が差し出された。
私はページをめくった。
東地区だけじゃなかった。南地区、西地区、領の外縁部まで。三日間で、この子は領内の主要な水源と、周辺住民の体調変化を記録して回っていた。
一人で。
しかも記録の精度が高い。数字が整然と並び、所見が簡潔にまとめられている。感情的な記述は一切ない。事実だけ。
「……すごい」
「すごくはないです。婆さんに教わった通りにやっているだけです」
「その婆さんは?」
「……去年、亡くなりました」
ノアの声に、感情の揺れはなかった。でも、帳面を受け取り直す指先が、少しだけ――本当に少しだけ白くなった。
「この帳面は婆さんの形見です。書き方も、記録の項目も、全部婆さんが教えてくれた」
「だから手放せない」
「……はい」
「返します。コピーを取らせてもらえれば十分です」
ノアの目がわずかに見開かれた。帳面を取り上げられると思っていたのかもしれない。
「……ありがとうございます」
―――
老人の容態は、ノアの指示で安定した。
塩水を少量ずつ飲ませ、体勢を整え、額の冷却を続ける。嫁の女性にも水分補給の手順を丁寧に――そして無駄なく――教えていた。
「同じ症状が出た場合は、まずこの手順で。それでも改善しなければ――」
ノアが言葉を切った。
「……改善しなければ?」
「薬が必要です。でも、この領には薬草の備蓄がほとんどない」
知っている。御用商会が薬草の流通も握っていた。穀物だけじゃない。この領では、薬すら自由に手に入らない。
「薬草の自生地は把握していますか」
「はい。南街道沿いの渓流と、森の東縁に数種」
「それも帳面に?」
「……書いてあります」
この子の帳面は、この領の衛生インフラの設計図そのものだ。
「ノア」
「はい」
「提案があります」
私はノアの目をまっすぐ見た。
「この領に、衛生管理の仕組みを作りたい。水質の定期検査、住民の健康記録、薬草の確保と管理。――あなたの知識と記録が必要です」
ノアは黙っていた。
長い沈黙。
「……仕組み、ですか」
「はい。あなた一人が走り回るのではなく、誰がいつ何をすべきかが決まっている仕組みです。あなたの記録をもとに、ルールを作る」
「ルール……」
ノアの目が、少し遠くなった。
「婆さんが、言っていました。『一人の薬師が百人を診るのは限界がある。でも百人が自分の体を知っていれば、薬師は本当に必要な人だけを診ればいい』と」
「いいお婆さんですね」
「……はい」
ノアの声が、かすかに震えた。一瞬だけ。すぐに平坦に戻った。
「条件があります」
「聞きます」
「記録は全て私が管理します。改竄は許しません。たとえ統治上不都合な数字が出ても」
「当然です。数字は正確でなければ意味がありません」
ノアが私を見た。長い間。
それから、小さく――本当に小さく――頷いた。
「……わかりました。協力します」
帳面を開いて、新しいページの最初の行に何かを書き込んだ。
覗き見たわけじゃない。でも、ちらりと見えた。
日付と、一言。
「――衛生管理業務開始」
無駄のない、きれいな字だった。
―――
「ミチカ様、お水を」
集会所を出たところで、ノアが木の椀を差し出した。
「え?」
「さっきから額に汗をかいています。走ってきたのでしょう。脱水の初期症状です」
……言われてみれば、喉が渇いていた。走ったのは自覚していたけど、自分の体調は後回しにしていた。
「統治者が倒れれば全てが止まります」
淡々と。でも、椀を差し出す手は丁寧だった。
「……ありがとう、ノア」
水を受け取って飲んだ。冷たくて、美味しかった。
ノアはこくりと頷いただけで、帳面に何かを書き始めた。たぶん、私の体調も記録している。
「ねえ、ノア」
「はい」
「一つ聞いていいですか。三日前から調査していたって言ったけど、誰かに頼まれたわけじゃないんですよね」
「はい」
「じゃあ、なぜ?」
ノアの筆が止まった。
「……穀物が配られ始めたニュースを聞いて、この領が変わるかもしれないと思いました。でも、変わるなら正しい方向に変わってほしい。食糧があっても水が汚ければ人は死にます。――だから、データを集めた。誰かが使えるように」
「誰かが、じゃなくて。あなたが使ってください」
ノアが目を上げた。
「あなたのデータは、あなた自身が運用するのが一番正確です。――この領の衛生は、あなたに任せたい」
長い沈黙。
「……任せる、というのは」
「信用している、ということです」
ノアの表情は変わらなかった。
でも、帳面を握る指の力が、少しだけ緩んだように見えた。
「……了解しました」
ステータスを確認する。
忠誠値:15→32。
跳ねた。最初の数値からほぼ倍。
この子は、信頼されることに飢えていたのかもしれない。婆さんを失ってから、一人で記録を続けていた。誰にも見せず、誰にも求められず。
でも記録を止めなかった。
いつか誰かが必要とする、と信じて。
――この子は、強い。
「ノア。明日からミナと一緒に、領内の水質調査を本格的に始めてください。必要な資材のリストを出してくれれば、リオの輸送に載せます」
「わかりました。リストは今晩中に作ります」
「急がなくていいですよ」
「……急ぎます。東地区の井戸の件は、今日中に原因を特定したい」
有言実行。この子と仕事がしやすそうだと、直感で思った。
ミナが走ってきた。
「ミチカ様! リオさんが南地区からの帰りに、渓流の薬草を摘んできてくれたそうです!」
「リオが?」
「はい! 『ついでだからタダでいいぜ』って!」
……嘘つけ。あの商人が「ついで」で薬草を摘むわけがない。後で何かの取引に上乗せしてくる気だ。
でも、ありがたい。
「ノア、薬草の選別をお願いできますか」
「任せてください」
ノアが帳面を閉じて、ミナと一緒に走り出した。
いや――走り出したのはミナだけだ。ノアは早歩き。でも、その歩幅はミナの駆け足と同じ速さだった。効率がいい。
ユリウスの小屋に向かう足取りが、少しだけ軽くなった。
仲間が、また一人増えた。




