第25話:暗殺と裏切り
御用商会解体の布告から一夜明けた朝。
私は執務室の長机に地図を広げて、代替物流の設計会議を開いていた。
「リオ、独立製粉契約の処理能力は現状どのくらい?」
「日量で旧商会の六割ってとこだな。ただし街道の荷馬車を二台追加できれば八割まで上がる」
リオが指で地図上の街道を辿る。
なるほど。六割か。足りない。でも御用商会が握っていた水路利用権を正式に領の管理下に移せば――
「製粉所から南配給所までの水路を使えれば、陸路の負荷を三割減らせます。ノア、水路の衛生状態は?」
「昨日の時点で汚染の残留は検出限界以下。通水は可能です」
ノアが淡々と答える。よし。
ユリウスが羊皮紙に数字を書き込みながら口を挟んだ。
「水路利用権の法的移管には布告だけでは足りない。旧商会との契約原本を押さえて、無効宣言の根拠を明文化する必要がある。……まあ、帳簿三冊のおかげで契約条件の不法性は立証できるがね。感謝してくれ、とは言わないが――感謝されても構わないぞ」
「はいはい。じゃあユリウス、移管の法的文書は今日中にお願い。リオは荷馬車の追加手配を――」
その時だった。
執務室の扉が、ノックもなく開いた。
全員の視線が集まる。
入ってきたのはカイだった。
息が荒い。あの寡黙な少年が、珍しく焦りを滲ませている。
「――報告」
一言。
私は地図から手を離した。
「どうぞ」
「放火犯。潜伏先を特定した」
カイが短く言い切る。
会議室の空気が一瞬で変わった。レオンが椅子から腰を浮かせ、ユリウスのペンが止まる。
「場所は?」
「南区画、旧染物工房の地下。三日前から出入りの形跡」
カイはそれだけ言って、懐から何かを取り出した。
羊皮紙の切れ端。焼け焦げた断片が二枚。
「所持品の一部。工房の排水口に捨てられていた」
ユリウスが素早く受け取り、卓上の燭台に近づけて文字を読む。
数秒の沈黙。
ユリウスの眉が、ぐっと寄った。
「……暗号だな。だが構造は見覚えがある。御用商会の帳簿で使われていたのと同系統の置換式だ」
彼の指が焦げた文字を辿る。
「断片だが、読める部分がある。『排除』『領主』『完了後に――』」
――排除。領主。
私の背筋に冷たいものが走った。
ああ、なるほど。
あの夜カイが言っていた「証拠隠滅とは別の指令」。その中身がこれか。
つまり放火犯は――放火犯じゃない。
暗殺者だ。
「……視察です、とか言ってる場合じゃないわね」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。いや、冷静というより、頭が高速回転し始めている。
リスクアセスメント。脅威の特定、影響度の評価、対応策の実行。事業継続計画と同じ構造。ただし、事業の代わりに私の命がかかっている。余裕なんて一ミリもない。
「レオン」
「はっ」
即座に返事。
「治安隊の実戦配備を命じます。詰所三箇所の巡回体制、今日から正式運用に格上げ」
レオンが頷き、すぐに立ち上がった――が、扉に向かう前に足を止めた。
「巡回間隔の指示を」
個人的な忠誠の言葉ではなく、制度として必要な情報を求める問い。
「二刻ごと。夜間は一刻ごとに短縮。それと――」
私はレオンの目を真っ直ぐ見た。
「私の移動時には必ず二名以上の随伴を付けてください。これは命令です」
レオンの喉が一瞬動いた。何かを飲み込んだのがわかった。
「了解しました。即座に編成を組みます」
短く答えて、レオンは足早に出て行った。
「ユリウス、暗号文の完全解読を最優先で。発信元の特定ができれば最高」
「言われなくても。……ただ、この暗号の鍵がどこにあるかだな」
ユリウスが焦げた断片を裏返す。
「待て。裏面に数列がある。これは――ほう。御用商会の商品符牒と同じ体系か。あの帳簿を解読しておいた甲斐があったな。……まあ、解読したのは私だが」
「頼りにしてます」
「知ってる」
ユリウスが断片を持って席を立つ。
その間に、私はレオンに伝令を出した。治安隊の一班を旧染物工房に向かわせる。カイの報告した潜伏先の確認だ。
結果が戻ってきたのは一刻後。
もぬけの殻。
工房の地下には生活の痕跡があったが、人の気配はなく、残された物も意図的に処分された形跡があるという報告だった。
相手も動いている。こちらの動きを察知して、既に拠点を移した。
――なら、待っているだけでは捕まえられない。
―――
二刻後。
ユリウスが解読結果を持ってきた時、私は正直、覚悟していた。
でも覚悟と現実は違う。
「発信元は本家当主経由だ」
ユリウスの声は平坦だった。でもその平坦さが、逆に事の重大さを物語っている。
「暗号の鍵は御用商会の帳簿で使われていた商品符牒と同一体系。つまりこの指令は御用商会の通信網を使って送られている。そして――」
彼が解読した文面を読み上げる。
「『当主の裁可を得た。領主の排除を以て後見人制度の発動条件を整えよ。完了後、報酬は王都経由で支払う』」
沈黙。
リオが低く口笛を吹いた。
「……えげつねぇな」
えげつない。本当に。
つまりこういうことだ。本家当主は、私を殺して「領主不在」の状態を作り、後見人制度を発動させて領地を乗っ取る気だった。追放で駄目なら、暗殺。法で奪えないなら、命で奪う。
後見人指名状の日付が追放令より前だった、あの時系列の矛盾。あれは計画的排除の証拠だった。そして今度は、排除の手段がさらにエスカレートしている。
「王都経由の報酬、か」
私は呟いた。
第二宰相派。あの封蝋の私印。偽遺言状。全部が一本の線で繋がり始めている。
「ユリウス、この暗号文の断片、保全できる?」
「既に写しを取った。原本は密封保管する。……まさか公開審査会で使う気か?」
「そのまさかです」
「ふん。まあ、そう来ると思ったがね」
ユリウスの口元がわずかに上がった。
さて。問題は――暗殺者が、まだ領内にいるということだ。潜伏先を変えただけで、任務を放棄したとは考えにくい。
―――
夜。
私は敢えて視察に出た。
罠だとわかっている。でも、潜伏先はもう押さえられない。相手が動いた以上、待ちの姿勢では後手に回り続ける。
なら、こちらから餌を出す。
――餌は私自身。
「ミチカ様、本当に大丈夫でしょうか……」
ミナが隣で小さく呟く。彼女には執務室で待っていてほしかったけど、「ミチカ様のお側を離れません」と譲らなかった。
「大丈夫。レオンがいるから」
レオンは私の右側を歩いている。左手に松明、右手はいつでも盾を構えられる位置。その後方にもう一人、治安隊員が付いている。
巡回経路は事前に三パターン用意して、直前にくじで決めた。予測を困難にするためだ。でも、どのパターンでも必ず通る場所がある。
南区画と中央区画を繋ぐ石橋の手前。建物の影が多く、待ち伏せに適した狭路。
そこを通らなければ、詰所への巡回ルートが成立しない。
相手もそれを知っているはずだ。
石橋が見えてきた。
松明の光が石壁に揺れる影を作る。風が止んだ。虫の声すら聞こえない。
――静かすぎる。
ステータスオープン。
私はこの能力で、周囲の人間の忠誠値を常に把握している。レオンの値、後方の治安隊員の値、ミナの値。領内で私が認識した人間には、薄くても数値が表示される。
だから――数値が表示されない人間の気配は、空白として浮かび上がる。
前方右側。建物の陰に、忠誠値の空白がある。
私が認識していない人間。領民でも、治安隊員でもない誰か。
「レオン」
私が名前を呼んだ瞬間――
空気を裂く音。
建物の陰から、何かが飛んできた。投擲。
レオンが反射的に盾を掲げた。甲高い金属音。小型のナイフが盾の表面に弾かれ、石畳に落ちる。
一撃目――陽動。
それがわかった時には遅かった。
投擲と同時に、影がもう動いていた。壁際を低く走り、盾の死角――レオンの左側から回り込んでくる。黒い布を巻いた人影。手には短剣ではなく、刃渡りの長い暗器。
速い。訓練された動き。フェイントから本命への切り替えに迷いがない。
レオンが盾を振り向かせるより、暗殺者の踏み込みの方が速かった。
「――ッ!」
レオンが盾ごと体を捻った。暗器の刃先が盾の縁を滑り、その向こう――私に向かって伸びる。
レオンの左腕が割り込んだ。
鈍い音。
布が裂ける音と、肉を浅く切る音が重なった。
「レオンっ!」
ミナの悲鳴。
レオンの左腕の外套が裂け、赤い線が走った。浅い――でも、血が出ている。
それでもレオンは退かなかった。
切られた左腕で暗殺者の暗器を掴み――握力だけで刃の軌道を止めた。
「――離れろッ!」
レオンが盾を叩きつけるように押し出す。暗殺者の体が弾かれ、一瞬だけ体勢が崩れた。
その一瞬。
背後から、音もなく影が滑り込んだ。
カイだった。
暗殺者の軸足を蹴り払い、倒れかけた体の利き腕を捻り上げ、関節を極めて石畳に押さえ込む。暗器が地面に転がった。
暗殺者が身をよじる。カイの拘束を振りほどこうと、肘で顔面を狙う。カイが首を逸らして躱し、膝で背中を押さえ直す。
三秒。
暗殺者の抵抗が止まった。
「――確保」
カイの声。息がわずかに乱れている。いつもの無感情な一言とは、ほんの少しだけ違った。
「レオン、腕――」
「問題ありません」
レオンが左腕を押さえながら答えた。声は平静だが、外套の裂け目から血が滴っている。
「問題あります。ノアに診てもらいます。命令」
「……了解」
ミナがすでにレオンの傍に寄り、自分の上着の裾を裂いて応急の止血布を作っていた。その手が震えているのに、巻く動作は的確だった。
「ミナ、ありがとう」
「いえ……レオン様が、ミチカ様を守ってくださったから……」
ミナの声が少し詰まった。
私は暗殺者を押さえ込んでいるカイを見た。カイはこちらの視線に気づいたが、何も言わなかった。ただ暗殺者の拘束を緩めず、黙って次の指示を待っている。
「詰所に連行します。全員移動」
―――
詰所に戻り、暗殺者を拘束した後。
ノアがレオンの傷を診ている間に、ユリウスが暗殺者の身体検査を始めた。
衣服の縫い目、靴底、腰帯の裏――一つずつ丁寧に調べていく。
「……ないな。所持品は最低限の武器だけだ。さすがにプロか。足がつく物は――」
ユリウスの手が止まった。
暗殺者の喉元。わずかに膨らんでいる。
「ノア」
「はい」
ユリウスが顎でしゃくると、ノアは即座に意図を理解した。薬棚から小瓶を取り出す。
「催吐剤です。飲み込んでいる物があるなら、出させます」
暗殺者の目が初めて動揺を見せた。
数分後。
油紙に包まれた小さな包みが二つ、木桶の中に落ちた。
ユリウスが油紙を慎重に開く。中から現れたのは、蝋で防水処理された薄い羊皮紙が二枚。
一枚目を広げた瞬間、ユリウスの目が鋭くなった。
「……これは」
私も覗き込む。
指示書だった。「領主の排除」を命じる文面。そしてその末尾に押された印――
「本家当主の私印だ。間違いない」
ユリウスが断言した。
暗号文の断片ではない。今度は、直接的な指示書。本家当主自身の印が押された、領主暗殺の命令書。
「なぜこんな物を飲み込んで持っていた?」
リオが怪訝な顔をする。
ユリウスが二枚目を広げて、答えが出た。
「……資金請求書の写しだ。宛先は――王都第二宰相派。任務完了後、この書類を提示して報酬を受け取る仕組みだな。依頼主の印がなければ、報酬の受取を証明できない」
つまり、暗殺者にとってもこの書類は命綱だったということだ。任務を終えて逃走した後、報酬を回収するために絶対に必要な証明書。だから処分できず、最も見つかりにくい方法で――飲み込んで持ち歩いていた。
「逃走経路で吐き出して回収する算段か。……合理的ではあるが、捕まった場合のリスクは考えなかったらしい」
ユリウスが皮肉げに言った。
「考えなかったんじゃない。捕まる想定がなかったんでしょう」
私は言った。それだけ、この領の治安体制は舐められていたということだ。
決定的物証。
これがあれば、公開審査会で御用商会の不正だけでなく、本家当主本人の犯罪行為を立証できる。
「本家当主と第二宰相派の共謀が、物証で繋がった」
封蝋の成分一致。偽遺言状の王都産羊皮紙。密書の私印。そして今、暗殺指令書と資金請求書。
点が線になり、線が面になった。
「公開審査会で一括弾劾します。御用商会の横流し、放火、水源汚染、偽遺言状、そして暗殺指令。全てを一つの場で叩きつける」
ユリウスが腕を組み、珍しく皮肉を挟まずに頷いた。
「証拠は揃った。法的にも手続き的にも、穴はない」
その時――カイが動いた。
拘束した暗殺者から離れ、部屋の中央に進み出る。全員の視線が集まった。
カイは私の前に立ち、片膝をついた。
「……報告がある」
レオンの目が鋭くなる。包帯を巻かれたばかりの左腕で、反射的に盾の柄を探っていた。
「俺の名は、カイ。本家当主の密偵として、この領に送り込まれた」
ミナが息を呑んだ。
リオの表情から軽さが消えた。ユリウスだけが、わずかに目を細めた――驚きではなく、確認するような目だった。
「任務は情報収集と、必要に応じた工作活動」
カイの声は短く、いつも通り端的だった。でも――次の言葉だけは、わずかに震えた。
「俺は投降する。この領に、正式に」
沈黙が落ちた。
最初に動いたのはレオンだった。
「ミチカ様、お下がりください」
低い声。包帯の左腕を庇いながらも、体はすでにミチカとカイの間に割り込む位置に動いている。
「密偵の自己申告を鵜呑みにするのは危険です。投降と見せかけて――」
「レオン」
私は手を上げて制した。
「気持ちはわかります。でも、まず聞きます」
ユリウスが口を開いた。
「一つ聞かせろ。なぜ今なんだ? 潜伏を続ける選択肢もあったはずだ。暗殺者を制圧して見せたのは、投降の手土産のつもりか?」
皮肉ではなく、純粋な問いだった。
カイは顔を上げなかった。
「……手土産じゃない。あの場で動かなければ、領主が死んでいた」
短い沈黙。
「それだけだ」
ユリウスが私を見た。「判断はお前に任せる」という目だった。ただし、その目には「慎重にやれ」という注釈がついていた。
私はステータスオープンでカイの忠誠値を確認した。前回見た時は「微量の正数」だった。今は――明確に上がっている。
でも、数値だけで全てを決めるわけにはいかない。
「カイ。投降の申し出は受理します」
カイの肩がわずかに動いた。
「ただし――即座に処遇は決めません」
レオンが少しだけ表情を緩めた。ユリウスが小さく頷く。
「本家当主の密偵だった人間を、その場で赦免するほど私は甘くない。でも、罰を与えて終わりにするほど愚かでもないつもりです」
私はカイの目を見た。
「あなたの技能と、あなたの意志を、これから見せてもらいます。処遇はその上で決める。それまでは――拘束はしません。ただし、レオンの監視下に置きます」
レオンが「了解しました」と即答した。
カイは長い間、何も言わなかった。
「……ミチカ様」
ミナの声だった。小さく、でもはっきりと。
全員がミナを見た。
ミナはカイを見つめていた。怯えではなかった。
「カイさん、さっき……暗殺者がミチカ様に向かった時、一番最初に動いたのはレオン様でした。でも、一番正確に動いたのは、カイさんでした」
カイが初めて、ミナの方を見た。
「わたし、見ていました。カイさんの目。あれは……命令で動く人の目じゃなかったと、思います」
ミナの声が少し震えた。でも、言い切った。
カイは何も答えなかった。ただ――ほんの少しだけ、頭を下げた。
「……了解」
たった二文字。でも、それが今のカイに出せる精一杯だということは、この場にいる全員が理解していた。
―――
その直後だった。
詰所の扉を叩く音。
巡回から戻った治安隊の一人が、息を切らして報告した。
「南街道の早馬からの伝令です。王都からの勅使団が――」
「勅使?」
「はい。あと三日で到着するとのことです」
三日。
私とユリウスの目が合った。
勅使が来る。それも三日後に。
公開審査会を勅使の立会いで開くか。それとも、その前に決着をつけるか。
ユリウスの目が「待つべきだ」と言っている。勅使の前で弾劾すれば、王都への正式な報告と同義になる。
でも――三日。三日あれば、本家当主だって動く。証拠を隠す。人を逃がす。あるいは、もう一人暗殺者を送り込む。
「……判断は明日の朝に」
私は言った。
今夜はもう十分すぎるほど動いた。疲労で判断を誤るわけにはいかない。
ノアがレオンの包帯を最終確認しながら、静かに言った。
「傷は浅いですが、二日は利き手以外の使用を控えてください。……明日の編成に影響します」
実務的な言葉。でもその視線は、一瞬だけレオンの顔に留まっていた。
ミナが毛布を持ってきてくれた。
「ミチカ様、少しでもお休みになってください」
「ありがとう、ミナ」
毛布を受け取りながら、私は窓の外を見た。
レオンの腕の傷。カイの告白。暗殺者の物証。そして、勅使。
三日。
たった三日で、この領の命運が決まる。
――このときの私はまだ知らなかった。勅使が一隊ではないことを。そして三日という猶予が、味方にも敵にも等しく与えられた時間であることを。




