第24話:焼かれた倉庫
焦げ臭い。
それが、自治領確定の翌朝にわたしが最初に感じたことだった。
広場には朝早くから領民が集まっていた。昨日の審理結果を聞きつけた人々が、互いの顔を見て笑い合っている。握手したり、抱き合ったり。配給所の前には小さな花束まで置かれていた。
嬉しい。素直に嬉しい。
――でも、鼻の奥にまとわりつくこの匂いが消えない。祝いの空気の下を、何か嫌なものが這っている。
「ミチカ様! おはようございます! 今日はお祝いですね、お祝い!」
ミナが駆け寄ってくる。その笑顔が眩しい。眩しいんだけど。
「ミナ、ちょっと鼻を利かせて。この風、何か混じってない?」
「え? ……あ」
ミナの表情が曇る。朝靄に紛れて、確かに何かが焦げる匂いがする。薪の煙とは違う。もっと重くて、油っぽい。
そこへレオンが走ってきた。息が上がっている。レオンが息を切らすのは珍しい。
「ミチカ様、緊急のご報告です。御用商会の第二倉庫から――出火が確認されました」
その声に怒りを押し殺した硬さがあった。自分の管轄で起きた失態だと、もう自分を責めている。そういう人だ。
―――
わたし、ミチカ。前世の記憶持ちの転生少女領主。昨日ようやく自治領の正当性を勝ち取ったばかり。なのにもう次の問題が燃えている。物理的に。
「鎮火状況は?」
「夜半に巡回隊が発見し、初期消火を行いました。延焼は防ぎましたが――」
レオンの言葉が途切れる。拳が白くなるほど握られていた。
「帳簿は」
「……大半が焼失したものと思われます」
言わなくていい。顔を見ればわかる。
証拠隠滅。
カイが報告してくれた「まだ運び出されていない帳簿の束」――あれを狙い撃ちにしたんだ。審理で負けた以上、次に来るのは物証の処分。わかっていた。わかっていたのに。
「自分の警備配置が甘かったために――」
「レオン、謝罪は後。今は封鎖が先」
わたしは声を切り替えた。
「命令。第二倉庫の周囲――三十間ほど、歩数にして五十歩くらいの範囲を完全封鎖。出入りする者は全員記録。残存物は一切動かさないで」
内心でざっと換算する。五十歩は大体三十五メートルから四十メートルか。現場の規模を考えれば十分な範囲のはず。
「了解しました。直ちに」
レオンが踵を返す。その背中に迷いはない。指示が明確なら、この人は最速で動く。
わたしは広場の領民たちを振り返った。祝いの空気がまだ残っている。でもこの焦げ臭さに気づいた人もちらほら出始めていた。不安げに鼻を上げ、倉庫の方角を見ている者がいる。
「ミナ」
「はい」
「広場の皆に伝えて。『小火があったが延焼はない。自治領の運営は本日から通常通り開始する』と。不安を煽らないで、でも嘘はつかないで」
「わかりました。ミチカ様の言葉、そのまま伝えます」
ミナが走り出しかけて、ふと振り返った。
「あの、ミチカ様。それと――昨日の夕方、市場で隣領の行商人から聞いた話なんですけど」
「何?」
「隣のラドヴァンの方から来た人たちが、『うちはもう穀物が買えない、値が三倍になった』って。市場の商人さんたちも『おかしい、去年まではそこまでじゃなかった』って話していて……関係あるかわからないんですけど、気になって」
隣領の飢饉。穀物価格の高騰。
「……ありがとう、ミナ。それ、とても大事な情報。後で詳しく聞かせて」
ミナが頷いて走り出す。こういう時のミナの伝達力は本当に頼りになる。柔らかい言葉で人を安心させる才能――これは制度じゃ作れない。
―――
第二倉庫に着くと、焦げた木材の匂いが一気に濃くなった。
壁の半分が黒く焼け落ちている。屋根は辛うじて残っているが、内部は炭と灰の山。棚があった場所には骨組みだけが残り、その下に――黒い紙の残骸。
帳簿だったもの。
「……ひどいな」
ユリウスが倉庫の入口に立って、腕を組んでいた。レオンからの緊急伝達を受けて駆けつけたらしい。煤を見る目つきが鋭い。
「焼失範囲は?」
「ざっと見て七割。棚の配置からすると、帳簿が集中していた区画を狙って火を放っている。無差別じゃない。内部構造を知っている人間の仕業だ」
内部構造を知っている。つまり御用商会の関係者。
「残りの三割は?」
「水をかぶって読めなくなったものが大半。使い物になるのは――」
ユリウスの視線がわたしの後ろに向く。
振り返ると、カイがいた。
無言。いつも通り。でもその手に、煤で汚れた帳簿が三冊。
「……事前に抜いた」
短い。短すぎる。でもその三冊を見た瞬間、わたしの中で何かが弾けた。
「カイ、あなた――倉庫の帳簿が狙われると読んで、先に抜き出していたの?」
「審理の前夜。残しておくのは危険だと判断した」
ユリウスが帳簿を受け取りながら、小さく唸った。
「なるほど、それで審理には出さなかったわけか。審理の争点は証言と手続きの正当性に絞っていた。ここで帳簿を出せば、相手に物証の存在を知らせることになる――温存したのは正解だ」
カイは何も答えなかった。でも否定もしなかった。この人は、審理の戦略を理解した上で、物証を別ルートで守る判断を自分で下していた。
――カイは元々、御用商会側のスパイだった人だ。その忠誠の変化は、わたしにとって確認すべき情報でもある。
ステータスオープン。カイの忠誠値――数値が前回より明確に上がっている。微量の正数が、小さいけれど確かな正数に変わっていた。
この人は、自分の判断で動いた。わたしの命令じゃない。「必要だから」動いた。
「……ありがとう、カイ」
カイは何も言わなかった。ただ帳簿を差し出す手が、わずかに震えていた。
―――
残存帳簿三冊。
ユリウスが執務室の机に広げて、一時間で全容を読み解いた。一時間で三冊。複式帳簿の暗号化された勘定項目を、暗算で復号しながら読むのだから尋常ではない。
「面白いことになっている」
ユリウスの「面白い」は大体面白くない。
「御用商会の取引先リストが残っていた。領内の取引だけじゃない。領外への出荷記録が二十三件。うち十七件が同一の仲介業者を経由している」
「領外? 横流しの穀物を?」
「そう。封印付き穀物袋が領外に流れていた証拠だ。しかも――」
ユリウスが帳簿の一頁を指で叩く。
「この仲介業者の所在地、覚えがあるだろう。リオ」
扉が開いて、リオが入ってきた。ユリウスが伝令を飛ばしたらしい。
「呼ばれて来たよ。で、何を見せたいんだい、参謀殿」
リオが帳簿を覗き込み、一瞬で表情が変わった。軽薄な笑みが消える。商人の顔になる。
「――ラドヴァン。隣領の穀物仲介拠点だ」
「それがどうしたの?」
「ミチカ嬢、ラドヴァンは去年から飢饉が深刻化している地域だよ。穀物価格が通常の三倍以上に跳ね上がっている」
ミナが市場で拾ってきた噂と一致する。隣領の行商人が嘆いていた価格の異常――あれはただの天候不順じゃなかった。
三倍。
つまり。
「御用商会はうちの領地から横流しした穀物を、飢饉で価格が高騰している隣領に転売していた?」
「そういうことになるね。しかも量が量だ。年間収穫の二割が流出していたんだろう? それだけの穀物が隣領の闇市場に流れ込めば――」
リオの声が低くなる。
「正規の流通を圧迫する。隣領の農家が自分の穀物を適正価格で売れなくなる。結果、隣領の飢饉はさらに悪化する」
部屋が静まり返った。
御用商会の不正は、うちの領地だけの問題じゃなかった。
横流しされた穀物が隣領の飢饉を加速させていた。うちの民が飢えている裏で、隣の領地の民も飢えていた。同じ穀物のせいで。同じ不正のせいで。
怒り、という感情がある。
でもそれだけじゃ足りない。
「……これは、わたしたちだけの問題じゃない」
声に出すと、その言葉の重さが自分にのしかかってきた。
―――
午後。
ノアが倉庫の残骸から回収したサンプルを持って戻ってきた。
「放火に使用された油の成分を特定しました」
ノアの声はいつも通り静かだ。でも報告の中身は静かじゃない。
「植物性の精製油に、鉱物系の着火促進剤が混合されています。この着火促進剤の組成なんですが――水源汚染の際に検出した薬品と同一の成分構成でした」
わたしの脳内で、点と点が線で繋がる。
水源汚染に使われた薬品。王都の特定薬種商からしか入手できない希少品。そして今回の放火に使われた油にも、同じルートの薬品が使われている。
「つまり、水源汚染と今回の放火は同一の供給元から資材を得ている」
「はい。王都の薬種商ルートです」
ノアは報告書を机に置いた後、わずかに間を置いて付け加えた。
「……それと、現場の煤煙はまだ残留しています。長時間吸い込むと気管に障ります。ミチカ様、本日の現場視察はこれ以上控えた方がいい。――報告は私が書面にまとめますので」
ノアなりの気遣いだ。「体を心配しています」とは絶対に言わない。代わりに「報告書を出すから現場に来るな」と仕事の言葉に変換する。
「……わかりました。ノアに任せます」
ノアが小さく頷いた。その目がほんの一瞬だけ安堵したように見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
ユリウスが鼻を鳴らした。
「御用商会の背後に王都の金が流れている――もう状況証拠の域を超えてきたな」
超えてきた。でもまだ直接証拠には届かない。第二宰相派との繋がりを完全に立証するには、もう少し材料がいる。
でも今は、それより先にやることがある。
わたしは立ち上がった。
「御用商会を正式に解体します」
全員の視線が集まる。
「自治領の法的正当性は確定した。御用商会は領内の物流を独占してきたけれど、その独占の根拠は本家当主の後ろ盾。その後ろ盾はもう崩れた。帳簿が示す横流しと領外転売、水源汚染、放火――これだけの不正を行った組織を存続させる理由はない」
ユリウスが頷く。リオが口角を上げる。
「代替物流制度の起草を始めます。リオ、あなたが結んだ独立製粉契約を雛形にして、領内の物流を再設計する。御用商会に頼らない、開かれた商業の仕組みを」
「待ってました、その言葉」
リオの目が光る。商人の本能が刺激されたらしい。
「ユリウス、法的な解体手続きと財産の処理方針を明日までに。ノア、倉庫周辺の土壌・水質への影響調査を。レオン、封鎖の維持と領内の治安監視を強化」
「了解しました」とレオンの声。「承知した」とユリウス。「了解」とノア。「任せておくれ」とリオ。
―――
夕刻。広場。
御用商会の解体布告を、わたしは自分の口で読み上げた。
領民が集まっている。朝の祝賀よりも多い。火事の噂が広がって、不安と期待が入り混じった顔がずらりと並んでいた。
「――以上の理由により、本日をもって御用商会の領内における独占的商業権を停止し、組織の解体を命じます」
一瞬の沈黙。
それから、広場の片隅で誰かが手を叩いた。拍手が波のように広がる。歓声が上がる。「やっと終わる」と叫んだ老人がいた。隣の女性が泣いていた。
でも全員が喜んでいるわけじゃない。
広場の端に、御用商会の番頭格と思しき男が数人、黙って立っていた。腕を組み、布告を聞き終えても動かない。怒りでも悲しみでもない――値踏みするような目でわたしを見ている。
この目は覚えておく。
「ミチカ様!」
ミナが涙目で駆け寄ってくる。
「皆、喜んでいます。でも、あの……怖い顔の人たちも――」
「見えてる。大丈夫。ミナ、配給所の方に人を誘導して。混乱が起きないように」
「はいっ」
ミナが走る。領民たちがざわめきながら動き始める。
政治的な決断には、必ず歓喜と反発が同時に来る。片方しか見えなくなったら、それは統治者じゃなくて扇動者だ。
―――
夜。
執務室の蝋燭が揺れている。
一日中動き回って、さすがに疲れた。子供の体力には限界がある。これは前世の記憶があっても変わらない現実。
明日からの予定を頭の中で整理していると、扉が叩かれた。
控えめな、でも正確な二回のノック。カイだ。
「入って」
カイが入ってくる。表情は相変わらず読めない。でも――何か、緊張している。
「報告」
「聞きます」
「倉庫に火を点けた者。逃げていない」
「……は?」
「領外に逃走した形跡がない。街道の足跡、森の踏み分け道、河川沿いの痕跡。全て確認した。出た形跡がない」
つまり。
「まだ領内にいる、ということ?」
「いる」
カイの目がわたしを真っ直ぐ見た。
「証拠を燃やすだけなら、火を点けて逃げればいい。留まる理由がない。――別の指令がある」
背筋が冷えた。
御用商会の残党は、まだ動いている。証拠隠滅は終わった。でも、それは最初の仕事に過ぎなかった。
次の仕事が、まだ残っている。
「カイ。明朝、レオンと合流して領内の捜索を――」
「すでに候補地を三箇所に絞っている」
「……ありがとう。明日、動きます」
カイが頷いて、部屋を出ていく。
わたしは蝋燭の炎を見つめた。
自治領は勝ち取った。御用商会の解体も宣言した。代替物流の設計も始まる。
でも――火を点けた者は、まだここにいる。
逃げなかった放火犯。別の指令。御用商会の残党が、この領地の中で、まだ何かを待っている。
蝋燭の炎が、ふいに大きく揺れた。窓は閉まっているのに。
「……まだ、終わっていない」




