第17話:放火と汚染
まだ暗い。窓の外に星が残っている。
私の部屋の扉を叩く音が三回。間隔が均等で、力加減が一定。レオンだ。
「入って」
扉が開く。松明の残り火が廊下から差し込んで、レオンの顔を半分だけ照らした。
――目の下に隈。唇が乾いている。一晩中、起きていた顔だ。
「ミチカ様。ご報告があります」
声が硬い。いつもの硬さとは違う。迷いを押し殺した硬さだ。
「昨夜、正体不明の人物が俺のもとに接触しました。――今夜、クルツの製粉所に放火が行われる、と。接触の手口は尋常ではありませんでした。警戒の間隙を縫い、俺の背後に立ってから声をかけてきた。暗闘――それも相当な訓練を受けた者と判断します」
ステータスオープン。
レオンの忠誠値、九十二。過去最高値を更新している。そして嘘反応――ゼロ。完全なゼロ。
この数値の意味は明確だ。レオンは一晩中、報告すべきか悩み抜いた。出所不明の情報をそのまま伝えることが、かえって私を危険に晒すのではないか。罠ではないか。そう考えて、それでも報告することを選んだ。
忠誠値九十二は「自分の判断より主君の判断を信じる」という覚悟の数字だ。
「情報源の素性について、レオンの所見は?」
「確たることは申し上げられません。ただ、殺意は感じませんでした。情報を渡した後、即座に離脱しています。こちらを害する意図があれば、あの距離で背後を取った時点で実行できたはずです」
報告が的確だ。事実と推測を分けて述べている。
ああ――あの人影か。ユリウスの小屋を監視していた、ミナが目撃した正体不明の存在。忠誠値が『未定義』だった。
「レオン」
「はい」
「情報の出所は後で追う。今は内容の真偽だけを考えます」
即断。これが正解だと分かる。
なぜなら、御用商会の行動パターンを時系列で並べれば――物流封鎖、経済封鎖、そして次は物理破壊。エスカレーションの段階を踏んでいる。製粉所への放火は、論理的に「起きて当然」の次手なのだ。
情報が罠であろうとなかろうと、製粉所を守る理由は十分すぎる。
「命令。ユリウスとリオを起こして。五分後にここに集合」
「了解いたします」
レオンの背中から、目に見えるほどの緊張が抜けた。報告して良かったのだと、その背中が言っていた。
――よし。寝不足だけど、ここが勝負どころだ。
現在の状況を整理する。
審理は長期化が確定。本家当主は勅使を呼ぶと言っている。その間、御用商会は経済封鎖で私たちをじわじわ締め上げる算段だ。配給の要は三つ。穀物備蓄、製粉所、そして水源。
製粉所が燃えれば、穀物があっても粉にできない。パンが焼けない。配給が止まる。
つまり製粉所は――経済封鎖の急所だ。
―――
五分後。
ユリウスは髪を掻き上げながら現れた。寝起きでも目だけは鋭い。リオは逆に、やけに身なりが整っている。……寝ていないな、この人も。
「……製粉所への放火、ね。まあ、予想の範疇だ」
ユリウスが腕を組む。
「御用商会は審理の間に領内経済を干上がらせたい。横流しの証拠を突きつけられる前に、『そもそも配給できない状態』を作ってしまえば、ミチカ様の統治能力を問えるからな」
「つまり攻撃は製粉所だけじゃ終わらない可能性がある、と」
リオが指を立てた。
「製粉所、水路、配給所。この三つのどれかを潰せば配給は止まる。俺が御用商会の番頭なら、本命と陽動を分けるね。――特に水だ。水は製粉所より目立たない。汚すなら上流の取水地点を狙う。水路を見張ってても、源を押さえなきゃ意味がない」
さすが商人。発想が実戦的だ。
「リオ。製粉所の経済的な位置づけを整理して」
「了解。――クルツの製粉所は領内唯一の大型水車製粉施設だ。ここが止まると、手挽きの石臼しか残らない。配給量は現状の三割以下に落ちる。逆に言えば、ここさえ守れば配給は維持できる」
「守るだけじゃ足りない」
ユリウスが言った。全員の視線が集まる。
「放火犯を現行犯で押さえろ。そしてそいつらと御用商会の繋がりを証拠化しろ。――横流しの帳簿だけじゃない。破壊工作との繋がりを示すものが出れば、審理で叩きつけられる」
――法の刃で斬る。それが私たちのやり方だ。
作戦は三十分で固まった。
レオンが製粉所周辺に三箇所の監視点を設置。巡回ではなく、伏せて待つ。放火犯が来たら逃がさず捕縛。その際、所持品は一切触らず保全する。証拠が命だから。
「レオン、人員は足りる?」
「署名所の警備から四名を転用します。交代制で回しておりますので、夜間の増員は対応可能です」
署名所の警備体制を組んだとき、まさかこんな形で活きるとは思わなかった。制度は積み重ねだ。一度作った仕組みは、次の危機で必ず足場になる。
「リオは配給所と水路の警戒を頼む。陽動の可能性がある」
「任せな。商人の目は夜でも利くよ」
「ただし、リオの目が届くのは配給所と水路の下流域まで。上流の取水地点は距離がある。――ノアに井戸と取水口の水質確認を頼んであるから、そちらと連携して」
「ノア? ああ、あの寡黙な。衛生のことになると妙に目が鋭くなるやつか」
「水の異常は味や臭いで分かる人が必要です。ノアは薬草の扱いに詳しいから、適任」
リオが頷いた。
「ユリウスは証拠の法的な取り扱い手順を整理しておいて。現行犯の捕縛要件と、所持品の証拠能力」
「既に頭の中にある。書面にまとめておく」
配置は整った。
――いや、完璧じゃない。一つだけ、未知数がある。
あの人影。レオンに情報を渡した正体不明の存在。味方なのか、第三勢力なのか。忠誠値『未定義』という、私のステータスが初めて返した異常値。
今夜、答えが出るかもしれない。
―――
日が暮れた。
製粉所の周囲は闇に沈んでいる。水車の回る音だけが、低く、一定のリズムで響いていた。
私はユリウスとともに、製粉所から五十歩離れた納屋の二階に潜んでいた。ミナには宿舎で待機するよう言ってある。「ミチカ様、お気をつけて……!」と両手を握られた感触がまだ残っている。
待つのは苦手だ。体力値も五割を切っている。でも、ここは私が見届けなければならない。
ステータスで確認できる情報は、目視できる範囲に限られる。放火犯の所持品をインベントリで保全するにも、私が現場にいる必要がある。
「……来るかな」
「来る。論理的に来る」
ユリウスが断言した。珍しく、皮肉抜きだった。
深夜。
月が雲に隠れた瞬間、二つの影が製粉所の裏手から現れた。
――来た。
一人が油壺を持っている。もう一人が火打ち石を構えた。
レオンの合図。
闇の中から四つの影が一斉に動いた。訓練された動き。声を上げる暇も与えず、一人目の腕を捻り上げ、地面に押さえつける。
だが――二人目。
二人目は反応が速かった。油壺を投げ捨て、製粉所の壁沿いに走る。レオンが追う。しかし暗闘の訓練を受けた者特有の、壁を蹴っての方向転換。レオンの手が空を掴んだ。
その瞬間。
壁の影から、もう一つの影が飛び出した。
音がなかった。足音も、呼吸音も。ただ、影が影を呑み込むように――二人目の放火犯の足を払い、喉元に手刀を叩き込んだ。
一瞬で意識を刈り取る、最小限の暴力。
放火犯が崩れ落ちる。
そしてその影は――レオンの方を向いた。
月が雲から顔を出す。
痩せた少年だった。年齢は、自分と同じくらいか。黒い外套。表情がない。ただ、目だけが――何かを待っているように、こちらを見ていた。
ステータスオープン。
名前:――
忠誠値:未定義
……いや、待って。
数値が、揺れている。
『未定義』の文字が薄れて、その下から――0.7。微量の、しかし確かな正の数値が浮かび上がった。
未定義から、正数へ。
これは――この人物が初めて、「敵ではない」側に足を踏み入れた瞬間だ。
忠誠値は行動で動く。この少年は今、放火犯を制圧するという行動で、自分の立ち位置を選んだのだ。
納屋の二階から降りた。ユリウスが「おい」と止めかけたが、私は構わず歩いた。
――ただし、考えなしではない。
忠誠値0.7。正の数値。敵意はない。加えて、先ほどの制圧で使った手刀は放火犯を気絶させただけで、刃物は使っていない。腰にも袖にも、武器らしいものは見えない。そしてレオンが五歩の距離にいる。
数値だけで人を信じるほど楽観的ではない。でも、数値と状況証拠と退路を揃えた上で近づくのは――合理的な判断だ。
少年の前に立つ。見上げる形になる。少し身長差がある。でも、視線は逸らさない。
「あなたが、レオンに情報を渡した人ですね」
少年は動かない。
「名前を教えてください」
沈黙。
長い沈黙だった。水車の音だけが、世界を埋めていた。
そして――少年の唇が、かすかに動いた。
「――カイ」
それだけだった。一言。自分から口を開いたのは、これが初めてだった。
でも私には分かった。この一言がどれほど重いか。
自分から声を発するということは、「ここにいる」と宣言することだ。影でも、未定義でもなく。一人の人間として。
「カイ。――ありがとう。製粉所を守ってくれて」
ステータスを確認する。忠誠値が、0.7から1.2に上がった。
微量だ。でも、確実に上がった。
―――
捕縛した放火犯二名の所持品を確認する。
インベントリで格納し、取り出す。重量と形状を記録。――これはユリウスが提案した証拠保全の手法だ。格納前と取り出し後で変化がないことを複数人で確認すれば、改竄の疑いを排除できる。
油壺。火打ち石。そして――革の筒に入った書状。
ユリウスが書状を開いた。松明の明かりに照らされた文面を読み、口元が歪んだ。
「御用商会の支配人印が押してある。――『製粉所の焼失は自然発火として処理せよ。報酬は事後に商会倉庫にて本書と引き換えに受け取れ』。日付入りだ」
「……報酬の引換証を兼ねた指示書か」
リオが唸った。
「なるほどな。雇われの実行犯ってのは、口約束だけじゃ動かない。事が済んだ後に報酬を踏み倒されるのが一番怖いからだ。だから書面で縛る。――逆に言えば、商会側も実行犯を信用してないってことだ。書面がなきゃ倉庫に近づけさせない仕組みにしてある」
「犯罪組織の内部統制が裏目に出たわけだ」
ユリウスの声に、冷たい愉悦が混じった。
「経済封鎖だけなら『商取引の自由』で言い逃れできた。
だが放火は犯罪だ。
しかも支配人印入りの指示書がある以上、個人の暴走とは言わせない。
組織的な破壊工作の証拠だ。
――これで御用商会は『取引先』ではなく『犯罪組織』として扱える。
裏金帳簿の押収にも、正当な根拠が生まれる」
「明日――いえ、今日の審理で公開します」
私は宣言した。
「放火未遂の現行犯。御用商会の指示書。これを証拠として提出し、御用商会の倉庫と帳簿の差し押さえを巡回判事に申し立てます」
レオンが頷く。ユリウスが書面の準備に取りかかる。リオが放火犯の身柄を確保する。
――勝機が見えた。受け身の時間は終わりだ。
カイは、いつの間にか闇の中に消えていた。最後に確認した忠誠値は1.2。微量の正数。あの一瞬だけ見えた、消えない足跡。
この少年が何者なのか、まだ分からない。でも、数字は嘘をつかない。
―――
そう思った矢先だった。
製粉所の前で安堵の息をつく間もなく、街道の方から駆けてくる足音が聞こえた。
ノアだった。
普段は感情を表に出さないノアが、息を切らしている。それだけで、ただ事ではないと分かった。
「ミチカ様。取水口と配給所の井戸を確認しました」
夕刻に依頼した水質確認――その結果が、この表情。
「――何があったの」
「上流の取水地点です。水源に異臭があります。硫黄に似た臭気。井戸水にも微量ながら混入しています。飲用には適しません」
「汚染はいつからだと思う?」
「臭気の濃度から推測すると、今夜――おそらく日没後です。取水地点の周囲に、新しい足跡がありました」
頭の中で、時系列が組み上がる。
製粉所への放火犯が動いたのと、ほぼ同時刻。こちらの人手が製粉所の警戒に集中している隙を突いて、上流の取水地点に別の人間を送り込んだ。
リオの言葉が蘇る。
『本命と陽動を分けるね』『水は製粉所より目立たない。汚すなら上流の取水地点を狙う』
――リオの読みは正しかった。そしてリオの警戒範囲は配給所と水路の下流域。上流の取水地点は、そもそも別の人間が押さえなければ届かない場所だった。ノアに水質確認を頼んでいなければ、発覚はもっと遅れていた。
製粉所は陽動ではない。両方が本命だ。製粉所を燃やし、水源を汚染する。二重の攻撃。配給の命綱を、同時に二本断ちにくる。
御用商会の妨害は、物流封鎖から物理破壊へ、そして衛生攻撃へ。段階を上げてきている。
「……ノア。汚染範囲は特定できる?」
「明朝、取水地点から下流に向けて順に確認します。ただし、配給所の水は即時使用停止すべきです」
「了解。代替水源の確保を最優先で」
ノアが頷き、踵を返す。その背中に、静かな怒りが見えた。水を汚すという行為は、ノアにとって――命を扱う者にとって、許容できない一線なのだろう。
製粉所は守れた。放火の証拠も手に入った。
でも、水が止まる。
配給にパンがあっても、水がなければ人は三日で倒れる。審理は長期化する。勅使が来るまで、何日かかるか分からない。
その間に、水が――。
私は空を見上げた。東の空が、うっすらと白み始めていた。
審理三日目の朝が来る。
手の中には、御用商会の犯罪を証明する指示書。でも足元では、水源という命綱が音もなく断たれようとしている。
攻撃は、製粉所だけじゃなかった。
水源の方角を、ノアがじっと見つめていた。その横顔に、静かな決意が滲んでいる。
「全員、二時間だけ寝てください。夜明けに集合。――命令です」
誰も異を唱えなかった。




