第15話:水車小屋への疾走
朝だ。
配給所の前に、人の壁ができていた。
「ステータスオープン」
小声で呟く。視界の端に浮かぶ半透明のウィンドウ。領民ストレス値――八十五。
昨晩の八十二から、たった一夜で三も上がった。
これ、やばい。
前世の知識で言うなら、暴動発生の臨界点は九十前後。つまり猶予はあと五ポイント。数字にすれば小さいけど、体感では崖っぷちもいいところだ。
「ミチカ様、列が――」
ミナの声が震えている。
配給所の前に集まった領民は百人を超えていた。朝靄の中、彼らの顔は一様に強張っている。怒り、不安、そして飢え。製粉所が止まったという噂は一晩で領内全域に広がったらしい。
情報伝達だけは中世でも爆速なんだよな。悪い意味で。
「レオン」
「はっ」
「配給所の列を三列に分けて。高齢者と子供連れは別列。押し合いが起きたら即座に割って入って」
「承知しました。――皆さん、三列に分かれてください! ご年配の方とお子様連れはこちらへ!」
レオンが声を張り上げる。緊急時でも敬語は崩さない。ただし声の鋭さが、有無を言わせない。即席の警備隊――と言っても、昨日の署名活動で志願してくれた若者が八人いるだけだ。それでも彼らはレオンの指示で素早く動き、人の流れを整理し始めた。
治安隊の実地訓練が、まさかこんな形で役立つとは。
「粉はあるのか!」
列の中から怒声が飛ぶ。
「製粉所が止まったって聞いたぞ!」
「今日のパンはどうなるんだ!」
ストレス値が、八十五から八十六に動いた。
――今日中に粉を届けなければ、暴動が起きる。
これは確信じゃない。数字が言ってる。ゲームのHPバーが赤く点滅してるのと同じ。猶予は、ない。
「命令」
私は声を張った。小さな体で、精一杯。
「全員に告げます。本日中に、必ず配給を行います。列を維持してください。約束します」
約束。
重い言葉だ。でも今、この瞬間に必要なのは具体策じゃない。「大丈夫だ」という声だ。
ストレス値が――動かない。八十六のまま。
下がりもしないけど、上がりも止まった。
よし。時間は稼いだ。
―――
「リオ」
配給所の裏手。私は走りながら呼んだ。
「もう動いてるよ」
振り返ると、リオが馬の手綱を握って立っていた。いつもの軽い笑みだけど、目は真剣だ。
「隣村のクルツ爺さん。水車小屋を持ってる。腕は確かだし、御用商会とは取引がない。独立系の職人だ」
「交渉できる?」
「できる、じゃなくて、する。商人なめんなよ、お嬢さん」
リオがウィンクして――それから、少しだけ声を落とした。
「ただ、一つ頭に入れといてくれ。クルツ爺さんは先代領主に恩がある。八年前の大飢饉の時に穀物を融通してもらった縁だ。交渉の糸口にはなるが、逆に言えば――」
「逆に言えば?」
「御用商会も、その繋がりは知ってる。製粉所を止めた時点で、代替手段を潰しにくるのは読み筋だ。商会は独立系の粉屋周辺にも目を光らせてる。動くなら速い方がいい」
「……了解。急いで」
リオが馬に飛び乗る。
「それと――小麦をどうやって運ぶかだ。荷馬車で往復すると半日かかる。それじゃ間に合わない」
「それは私がやる」
リオの目が光った。
「インベントリか」
「インベントリです」
「……お嬢さん、俺はあんたのその能力、最初に見た時から思ってたけどさ」
「何?」
「物流革命の塊だよ、あんた」
褒め言葉として受け取っておく。
―――
リオが馬を走らせた後、私はノアを呼んだ。
倉庫の隅。残った小麦袋の前で、ノアは既に計算を始めていた。
「ノア、配給量の試算は?」
「終わっています」
羊皮紙に細かい数字が並んでいる。ノアの字は小さくて正確だ。
「領民四百十二名。一人あたり一日の最低カロリーを粥で賄う場合、小麦粉は一人百五十グラム。合計で約六十二キロ」
「今ある備蓄は?」
「小麦袋で換算すると、製粉前の状態で八袋。ただし製粉歩留まりを七割として計算すると――」
ノアが顔を上げた。
「足りません」
知ってた。でも数字で言われると胃が痛い。
「最低限に絞れる?」
「……絞れます。一人百グラムまで落とせば、今日一日は持つ。ただし」
「ただし?」
「栄養としては不十分です。子供と高齢者には追加の塩と、できれば干し肉の煮出し汁が必要になる」
「塩はある。干し肉は――」
「三本だけ在庫があります。煮出せば百人分の汁にはなる」
苦渋の判断。
でもこれが実務だ。全員を満腹にはできない。でも全員を生かすことはできる。
「ノア、その配給表を清書して。配給所に掲示する」
「了解しました」
ノアが一瞬だけ手を止めた。
「ミチカ様。薄い粥です。文句は出ます」
「知ってる。でも空の皿よりはましでしょう」
「……そうですね」
ノアが小さく頷いた。その顔に、ほんの少しだけ安堵が見えた――ように思ったのは、気のせいかもしれない。
―――
リオが隣村に着いたのは、出発から二刻後だった。
カイからの伝令。カイには影術――短距離を影のように高速移動する体術がある。馬で二刻かかる距離も、カイなら半刻で詰められる。最近この子が伝令役として自然に機能し始めているのは、その能力あってこそだ。
報告によると、交渉は難航しているらしい。
「クルツ爺さん、首を縦に振らない?」
「違う。振りたいが、怖がっている」
カイの報告は相変わらず短い。体言止めの鬼。
「御用商会の報復?」
「そう」
だよね。御用商会と取引がないとはいえ、逆らえば何をされるかわからない。この世界の商会は、前世で言うところの――うーん、独占企業と暴力団のハイブリッドみたいなものだ。リオが言っていた「監視の目」が、クルツ爺さんにも圧力をかけているんだろう。
「リオに伝えて。『契約は領主名義で行う。万一の損害は領が補償する』と」
「了解」
カイが影のように消えた。文字通り。
待つ時間が、長い。
配給所からはレオンの声と、領民のざわめきが聞こえてくる。ストレス値は八十七に上がっていた。
「ミチカ様……」
ミナが私の袖を掴んでいた。
「大丈夫。リオを信じて」
「はい……はい、信じます」
ミナの手が震えている。でもこの子は逃げない。いつも私の後ろで、でも確実にここにいる。
――三十分後。
カイが戻った。影術特有の、音もなく現れる登場の仕方。
「成立」
たった二文字。でもその二文字が、今日一番の朗報だった。
「詳細は?」
「製粉委託。代金は後払い。クルツ爺さんの条件は一つ。『嬢ちゃんの顔を見せろ』」
「……私の?」
「リオの言葉を借りる。『爺さん、あんたの名前聞いた途端に目の色変えやがった』」
先代領主への恩義。リオが言っていた、八年前の繋がり。
それが――私の名前に、まだ生きていた。
疑問を噛みしめたい気持ちはある。でも後だ。今は動く。
―――
配給所を離れる判断は、簡単じゃなかった。
ストレス値八十七。列は辛うじて保たれているが、私がいなくなれば不安が再燃する可能性がある。
「レオン。私はこれから隣村に向かう。配給所の統率を任せます」
「……ミチカ様が直接、ですか」
レオンの声に、わずかな動揺。
「インベントリで粉を運べるのは私だけ。荷馬車を待つ余裕はない」
「承知しました。この場はお任せください」
レオンが背筋を正す。迷いを飲み込んで、任務に変換する。この人のそういうところを、私は信頼している。
「ノア、配給の開始は粉が届いてから。それまでは備蓄の塩湯を配って時間を稼いで」
「了解しました。塩湯の分量は計算済みです」
「ミナ」
「はいっ」
「ここにいて。配給所の空気を見ていて。何かあったらカイを飛ばして」
「……はい。お気をつけて、ミチカ様」
ミナの声は震えていたけれど、目はまっすぐだった。
馬を借りた。リオが残していった予備の一頭。鞍に跨がると、地面が遠い。十二歳の短い足では鐙がぎりぎりだ。
隣村まで、馬で片道一刻。往復二刻。荷馬車なら半日かかる道のりも、身一つの馬なら短縮できる。
ただし――この体で馬を駆り続けるのは、別の問題だった。
―――
隣村の水車小屋。
谷間の細い川沿いに、苔むした石壁の小屋が建っていた。木組みの水車が低く軋みながら回っている。水の匂い。石と穀物の匂い。
私はインベントリから小麦袋を取り出した。
「格納――解放」
目の前の空間から、ずしりと重い麻袋が現れる。一袋、二袋、三袋。
「おお……」
白髪の老人――クルツ爺さんが目を丸くしている。深い皺の刻まれた顔、太い指、粉で白くなった前掛け。三十年石臼を回してきた男の手だ。
「これが、神術ってやつかい」
「似たようなものです。クルツさん、製粉をお願いします」
「ああ、任せな。うちの石臼は三十年現役だ。粒の粗さも指定できるぞ」
「細挽きで。粥に溶かしやすいように」
「わかった」
水車が回転を上げる。石臼が低い音を立てて小麦を噛み砕いていく。粉塵が陽の光に舞った。
――ここからが本番だ。
インベントリの制約。目視した無生物を格納できる。格納・解放自体に体力は使わない。右手を対象に向けて念じるだけ。
問題は、移動だ。
製粉が終わった粉を格納して、馬で配給所に戻り、解放して渡し、また馬で水車小屋に戻る。片道一刻の馬上往復。これを袋の数だけ繰り返す。
全八袋。一袋の製粉に約二十分。ただし一度に全部は預けられない――クルツ爺さんの石臼は一基しかなく、製粉が終わった分から順に運ぶしかない。二袋分がまとまったら往復する計算で、四往復。
体力の問題。
私は十二歳の、痩せた女の子だ。
馬上の振動は全身に来る。鐙を踏む脚、手綱を握る腕、姿勢を保つ背中。一往復ごとに、体の芯が削られていく。
二往復目で、手綱を握る指が痺れ始めた。
三往復目で、腕が上がらなくなりかけた。鞍の上で姿勢が崩れるのを、腹筋だけで堪える。
「ミチカ様!」
水車小屋に戻ると、ミナが――いつの間にか後からカイに連れられて来ていた――水を差し出してくれた。
「ありがとう、ミナ」
「お顔が真っ白です……!」
「大丈夫。あと一往復」
大丈夫じゃない。でも止まれない。
配給所に戻るたび、レオンが粉を受け取り、ノアが配給量を調整し、また送り出してくれた。この連携がなければ、とっくに破綻していた。
ストレス値は八十八まで上がっていた。
―――
最後の往復――七袋目と八袋目の粉を格納して配給所に向かおうとした時、カイが走ってきた。
「報告。御用商会の使者がクルツの水車小屋に到着。契約破棄を要求している」
来た。
予想はしていた。リオが警告した通りだ。御用商会は独立系の粉屋にも監視を張っている。クルツ爺さんの水車が動き始めた情報は、半日もあれば商会の耳に届く。製粉所停止だけじゃない。代替手段も潰しにくる。二段構えの物流攻撃。
「クルツさんは?」
「拒否した」
「――拒否?」
「理由は、恩義」
カイが珍しく、説明を加えた。
「クルツの言葉。『八年前、村が飢えて死にかけた時に穀物を回してくれたのは先代領主だ。あの方の娘を見捨てるくらいなら、商会に潰される方がましだ』」
胸が、詰まった。
お父さん。
リオから聞いていた。八年前の恩。でも、こんなにも強く残っているとは思わなかった。
私にはこの体の前の記憶がない。転生者だから。ミチカとしての記憶は断片的で、父の顔すらぼんやりとしか思い出せない。
でも、この世界の人たちは覚えていた。
私がやっていることは、新しいことじゃないのかもしれない。この土地には、そういう記憶が根付いていた。私はそれを――継いでいるだけなのかもしれない。
「ミチカ様」
ミナが、小さく呟いた。
「……私、ずっと不思議だったんです。ミチカ様がどうしてこんなに頑張れるのか。でも――この土地の人たちが覚えてるんですね。ミチカ様のお父様がしてくださったことを。だからミチカ様も、自然と同じことをしてるんだって……なんだか、すごく――」
言葉が見つからないように、ミナは唇を噛んだ。目が潤んでいる。
「――あったかいです」
その一言が、妙に深く刺さった。
「……泣くのは後」
自分に言い聞かせる。
「配給所に戻る。最後の粉を届ける」
―――
配給所に最後の粉を届けた時、私の足はもう棒だった。馬から降りた瞬間、膝が笑って地面に手をついた。
ノアが配給量を計算し直す。
「全員分、行き渡ります。薄い粥ですが」
レオンが列を整理する。
「順番にお配りします! 押さないでください! 全員分あります!」
一杯ずつ、粥が配られていく。
本当に薄い。水に小麦粉を溶いて、塩を振っただけ。子供と老人には干し肉の煮出し汁を足した、少しだけましなやつ。
でも――。
受け取った老婆が、椀を両手で包んで、泣いた。
「あったかい……」
その一言で、配給所の空気が変わった。
怒りが、安堵に溶けていく。列の中で、隣の人に場所を譲る者が出始めた。子供を先に行かせる母親。椀を受け取って頭を下げる老人。秩序が、怒りの代わりに広がっていく。
ステータスオープン。
領民ストレス値――七十八。
八十八から、十ポイント下がった。
粥だけじゃない。列が守られたこと。約束が果たされたこと。温かいものが手に届いたこと。その全部が、十ポイントになった。
これが「制度で危機を乗り越える」ということだ。英雄が剣を振るったんじゃない。契約と計算と、小さな石臼が、四百十二人の命を繋いだ。
「ミチカ様」
レオンが敬礼した。
「配給、完了しました」
「……ご苦労様」
ミナが横から支えてくれなかったら、たぶんそのまま座り込んでいた。
―――
夜。
執務室――と呼ぶには粗末すぎる小屋の中で、ユリウスが書類の山と格闘していた。
「……ミチカ嬢」
「何?」
「審理二日目の提出書類を精査していて、面白いものを見つけた」
「面白い?」
ユリウスが一枚の羊皮紙を掲げた。ランプの灯りに、インクの文字が浮かぶ。
「後見人指名状の日付だ」
「日付がどうかした?」
「追放令の発行日より――前だ」
一瞬、意味がわからなかった。
後見人指名状が、追放令より前?
つまり――。
「本家は、あなたを追放する前から、後見人に就任する準備をしていた」
ユリウスの声は、いつもの皮肉を含んでいなかった。冷たく、硬い、法律家の声だった。
「追放は、後見人就任のための――」
「計画的排除だ。追放が先じゃない。後見人就任が先にあって、そのために追放が仕組まれた」
鳥肌が立った。
知ってた――いや、薄々感じてはいた。でも、物証として出てきたのは初めてだ。
「これ、審理で使える?」
「使える、どころじゃない」
ユリウスが、獰猛に笑った。
「時系列の矛盾は、意図の証明になる。後見人指名状が追放令より前に発行されているということは、追放の理由が『領主としての不適格』ではなく『後見人就任の障害排除』だったことを意味する。つまり――追放令そのものの正当性が崩れる」
「……勝ち確定?」
「まだ早い。本家も馬鹿じゃない。審理二日目に何か仕掛けてくるはずだ」
ユリウスが書類を束ねた。
「だが――武器は揃いつつある」
ランプの炎が揺れた。
薄い粥と、古い石臼と、八年前の恩義と、一枚の羊皮紙。
どれも小さい。
でも、積み重ねれば――制度になる。
「ミチカ様」
ミナが毛布を持ってきた。
「今日は、もうお休みください」
「……うん」
今日はもう、動けない。体が限界だ。
毛布にくるまりながら、父の顔を思い出そうとした。
ぼんやりとしか浮かばない。でも、クルツ爺さんの声は覚えている。
『あの方の娘を見捨てるくらいなら――』
お父さん。
あなたの仕組みは、ちゃんと生きてたよ。




