第1話:辺境の荷馬車
がたん、と揺れた。
……痛い。
お尻が痛い。背中も痛い。というか全身が痛い。
木の板の上に直接座らされている。薄い毛布一枚すら敷かれていない。これ、馬車? しかも荷馬車だ。人を運ぶ用じゃない。荷物を運ぶやつ。
つまり私は今、荷物扱いということですね。
――はい。ここで自己紹介させてください。
ミチカ、十二歳。ヴァイスフェルト辺境伯家の長女にして、つい三日前まで正式な家督継承候補だった少女です。
……だった、というのがポイント。過去形。
「女は家督を継げない」
あの言葉を聞いたのは、三日前の朝だった。
後見人のエルヴィン叔父――正確には父の従弟にあたる男が、領都の大広間で高らかに宣言したのだ。王国相続法第十七条、女子は家督を継承する権利を有さない。未成年領主には後見人を置く。そしてその後見人は、領地経営の全権を代行できる。
つまりこういうこと。
父が死んだ。母は私が幼い頃に亡くなっている。跡取りは私しかいない。でも「女だから」家督は継げない。で、後見人のエルヴィン叔父が全権を握る。私は「不要」になる。
制度として、合法的に、奪われた。
……前世の記憶がなかったら、たぶん泣き崩れていた。
そう。前世の記憶。
私には、ある。
日本という国で、二十八年間生きた記憶。大学で行政学を学び、地方自治体の職員として十年働き、過労で倒れて――気がついたらこの世界の赤ん坊だった。
転生ってやつだ。
……まさか自分がなるとは思わなかったけど。
で、転生チートもある。あるらしい。
十二年間、一度も発動しなかったけれど。
頭の片隅にずっと、「使える」という確信だけがあった。ステータスオープン。インベントリ。ゲームみたいな名前の、二つの能力。
使い方は分からない。発動条件も分からない。ただ「ある」と知っている。
前世の記憶で得た知識と、この二つの能力。それが私の全財産。
着の身着のまま、荷馬車に放り込まれた十二歳の少女の、全て。
―――
がたん。また揺れた。
幌の隙間から外を見る。
荒野だ。
街道とは呼べないほど荒れた土の道。両脇に広がるのは、枯れた畑の残骸。灌漑用の水路は干上がり、ところどころ石垣が崩れている。
辺境伯領の南端。エルヴィン叔父が「追放先」に選んだのは、領内でもっとも荒廃した村だと聞かされた。
「……飢饉、か」
呟いてから、眉をひそめる。
飢饉。この領地は三年前から慢性的な食糧不足に陥っている。父が生きていた頃から問題になっていた。でも父の統治下では、少なくとも餓死者は出ていなかったはずだ。
父が死んでからの一年で、何が変わった?
考えるのは後だ。今はまず、生き延びること。
馬車の御者台には護衛兵が二人。一人が手綱を握り、もう一人が――ちらちらと、こちらを窺っている。
体格のいい男だ。顎髭を蓄え、腰に剣を佩いている。名はガルド。エルヴィン叔父がつけた「護衛」。
護衛、ね。
あの目は護衛の目じゃない。前世で見たことがある。リストラ対象者に退職勧告を伝える時の人事部の目。「仕事だから」という顔。感情を切り離した、任務遂行者の目だ。
嫌な予感がする。
―――
村が見えた。
いや、「村の残骸」と言った方が正確かもしれない。
茅葺きの屋根は半分以上が崩れ、土壁には亀裂が走っている。井戸の周りに数人の村人がいたが、こちらを見る目に光がない。頬がこけ、腕は枯れ枝のように細い。
子供が一人、道端に座り込んでいた。膝を抱えて、動かない。
――飢えている。
この村は、確実に飢えている。
馬車が村の中央で止まった。
降ろされる。足が地面に着いた瞬間、膝が笑った。三日間、ろくに食事を与えられていない。十二歳の体は正直だ。前世の精神力だけでは、空腹は誤魔化せない。
ふらつく体を、意志で支える。
背筋を伸ばせ。ここで倒れたら終わりだ。
周囲を見渡す。
村の奥に、一棟だけ立派な建物があった。石造りの倉庫だ。重厚な扉に鉄の錠前がかかっている。
――あれ?
視線を落とす。倉庫の前の地面。轍の跡がある。それも複数。しかも新しい。
飢饉で物資がないはずの村に、荷車が頻繁に出入りしている倉庫。
鍵がかかっている。中身がある。でも民は飢えている。
……おかしいだろ、それ。
脳内で赤いランプが点灯する。前世の行政マンとしての勘が叫んでいる。これは「流通の問題」だ。物がないんじゃない。物が届いていないだけだ。いや、届いているのに配られていない?
考えを巡らせていると、背後で足音がした。
ガルドだ。
もう一人の御者はいつの間にか馬車に戻っている。逃げる準備、という体だろう。
「お嬢様」
ガルドの声は低い。
「ここがあなたの終着点です」
彼の手が、腰の剣に触れた。
空気が変わる。
――来た。
やっぱりか。追放だけじゃ済まない。エルヴィン叔父は最初から、こうするつもりだった。辺境の荒村に送り込み、「野盗に襲われた」とでも報告するつもりだろう。
怖い。
正直に言えば、怖い。十二歳の体は震えている。心臓がうるさい。
でも。
私には「それ」がある。
今まで一度も使えなかった。使い方すら分からなかった。でも今、追い詰められた今なら――
念じる。
強く。
ステータスオープン。
――来た!!!
視界の端に、半透明の文字列が浮かび上がった。
ゲームのUIみたいだ。いや、まさにそれだ。目の前のガルドの頭上に、情報が表示されている。
【ガルド・ヘイゼン Lv.14 兵士】
忠誠値:本家 12/報酬 87/個人 3
状態:緊張 嘘反応:中(直近発言に虚偽含む)
……なるほど。
なるほどなるほど。
これは使える。いや、使えるどころじゃない。これ、統治チートだ。
忠誠値。誰に対してどれだけ忠実か、数値で見える。嘘反応。相手の発言に嘘が含まれているかどうか分かる。
前世の行政経験と合わせたら、これは――
いや、分析は後だ。今は生き延びろ。
ガルドの忠誠値を見る。本家への忠誠は12。低い。報酬への忠誠が87。つまりこの男は、エルヴィン叔父の理念や命令に従っているわけじゃない。金で動いている。
金で動く人間は、金で止められる。
あるいは――金以上の「損得」を提示すれば。
「ガルドさん」
声が震えないように。十二歳の少女にしては不自然なほど落ち着いた声で。
「その剣を抜く前に、一つ確認させてください」
「……何を」
「本家からの報酬、前払いですか? 後払いですか?」
ガルドの目が揺れた。
ステータスを見る。嘘反応が「高」に跳ね上がった。
後払いだ。
つまりこの男は、まだ報酬を受け取っていない。私を殺した後で受け取る手はずになっている。
「後払いですね」
断定する。ガルドの顔が強張った。
「本家は信用できますか? 私を始末した兵士に、証拠が残る報酬を律儀に払うと思いますか?」
沈黙。
ガルドの手が、剣の柄の上で止まっている。
「口封じの方が安上がりです。あなたも分かっているはずだ」
忠誠値を見る。報酬の数値が、87から79に下がった。動揺している。
「私を殺せば、あなたは『使い捨ての駒』で終わります。でも」
一拍、置く。
「私を生かせば、あなたには『貸し』ができる。辺境伯家の正統な血筋に対する貸しです。それは将来、報酬よりずっと価値のあるものになるかもしれない」
ハッタリだ。
今の私には何の権力もない。追放された十二歳の少女に「将来の価値」なんて保証できない。
でも、嘘は言っていない。「かもしれない」と言っただけだ。
ガルドのステータスを注視する。
嘘反応:低。
私の発言に対する反応だ。つまりガルド自身も、私の言葉を「完全な嘘」とは受け取っていない。
長い沈黙があった。
五秒。十秒。
永遠のように感じた。
ガルドの手が、剣の柄から離れた。
「……命拾いしたな、お嬢様」
忠誠値が変動する。本家12→8。報酬79→71。個人3→11。
個人が上がった。ほんの少しだけど、私個人への関心が芽生えている。
……よし。
生き延びた。
膝から力が抜けそうになるのを必死に堪える。倒れるな。まだだ。
「ガルドさん。もう一つだけ」
「……なんだ」
「あなたの処遇は追って決めます。逃げても構いませんが、この村に留まるなら働いてもらいます。選んでください」
ガルドは苦い顔をした。しかし剣には触れなかった。
「……勝手にしろ」
それは「留まる」という意味だと解釈する。
―――
ガルドが馬車の方へ戻っていく。
私は、倉庫の方へ歩き出した。
足が震えている。空腹と緊張で視界が少し揺れる。でも止まらない。
倉庫の前に立つ。鉄の錠前を見上げる。
この中に、答えがある。
民が飢えているのに、新しい轍が残る倉庫。鍵をかけて閉ざされた食糧――いや、食糧が入っているかどうかはまだ分からない。だからこそ確認する。
ふと、視線を感じた。
振り返る。
村の端。崩れかけた石壁の陰から、誰かがこちらを見ていた。
小さな影。私と同じくらいの年頃の少女だ。
汚れた亜麻色の髪。痩せた体。大きな目だけがやけに印象的で、その目が――怯えと、かすかな好奇心を同時に宿していた。
目が合った。
少女はびくりと身を引いた。でも、逃げなかった。石壁の陰から半分だけ顔を出して、じっとこちらを見つめている。
……何か、言いたそうな目をしている。
声をかけたい。でも今は、先にやることがある。
私は少女に小さく頷いてから、倉庫の錠前に向き直った。
深呼吸を一つ。
村人たちが遠巻きにこちらを見ている。ガルドも。あの少女も。
誰も、この場所の「新しい領主」を歓迎なんてしていない。当たり前だ。追放されてきた子供に何ができる。そう思っている。
でもいい。
歓迎は要らない。信頼は後から作る。
今必要なのは、事実だ。
私は錠前を見据えて、はっきりと声を上げた。
「視察です」
―――
倉庫の調査は日没で打ち切りになった。
錠前は開けられなかった。鍵はガルドが持っていて、渡す気配がない。正面からこじ開ける体力は十二歳の私にはなく、インベントリの使い方もまだ手探りだ。――くやしいけど、今日のところは退く。
ガルドに宛がわれた館は、「館」と呼ぶのもおこがましい石壁の小屋だった。扉の立て付けは悪く、窓は板で塞がれ、暖炉は煤だらけ。ベッドは藁束を積んだだけの代物。
……うん。前世の深夜残業で仮眠室の固い長椅子に慣れた経験が、まさかここで活きるとは。
さすがに疲労の限界だ。薄い粥を口にして、藁のベッドに横になろうとしたとき――
扉が、こつん、と鳴った。
ノックとも呼べない、おそるおそるの小さな音。
ガルドか? いや、ガルドならもっと無遠慮に叩く。村人は遠巻きにするだけで近づいてこなかった。
立ち上がって、扉を薄く開ける。
石壁の陰にいた、あの少女だった。
汚れた亜麻色の髪。痩せた体。大きな目。――手に、布で包んだ何かを持っている。
目が合った瞬間、少女はびくっと肩を縮めた。逃げるかと思った。でも逃げなかった。両手で布包みを突き出して、早口に言った。
「あ、あの……これ。干し麦です。少しだけですけど」
干し麦。この飢えた村で、干し麦を差し出すということの意味を、私は理解した。
「……あなたの分じゃないの?」
「あの、おなか空いてるかと思って……。馬車から降りたとき、ふらふらしてたから」
見ていたのか。石壁の陰から。
受け取るべきか迷った。この子だって飢えているのに。でも――差し出した手を払えば、この子の勇気を踏みにじることになる。
「ありがとう。……半分だけ、もらうね」
布を開いて、ひと握りにも満たない干し麦を、正確に半分に分けた。片方を少女に返す。
「え?」
「領主が民の食べ物を全部取り上げたら、それは統治じゃなくて搾取だから」
少女が目を丸くした。何を言われたのか分からない、という顔。そりゃそうだ。十二歳の子供がいきなり「統治」とか言い出したら普通は意味不明だろう。
でも次の瞬間、少女の目がじわっと潤んだ。
「……ミナ、です」
「え?」
「私の名前。ミナっていいます」
名乗った。向こうから。
この村に来て、初めて名前を教えてくれた人だ。
「ミナ」
名前を、声に出して呼んでみた。
「私はミチカ。……よろしくね」
ミナの頬が、ほんのわずかに上がった。笑顔と呼ぶにはあまりに控えめだけど、確かに、笑った。
「あの……ミチカ様。一つだけ、お伝えしたいことが」
「何?」
ミナが声をひそめた。
「あの倉庫の帳簿。全部、持ち出されています。三日前に……ガルドさんが」
帳簿が、ない。
行政職員の勘が跳ね上がった。帳簿を隠すということは、見られたら困る数字があるということだ。
「……ミナ。それ、どうして知ってるの?」
「倉庫の裏で……水汲みの帰りに見ちゃって。ガルドさんが麻袋に帳簿を詰めて、馬車に積んでたのを」
この子、ちゃんと見ていたのか。怖かっただろうに。
「ありがとう。すごく助かる」
ミナの目が、また潤んだ。今度は嬉しさで。
「あの、ミチカ様。私、何もできないですけど……ここにいても、いいですか」
小さな声。拒否されることに慣れている声だった。
「……もちろん」
扉を大きく開けた。
「中に入って。今夜は寒くなるから」
ミナが、一歩、踏み出した。石壁の陰から完全に出て、初めて月明かりの下に立った。
痩せた肩。ぼろぼろの裾。でもまっすぐにこちらを見る目が――どこか、強かった。
―――
ミナが小屋の隅で膝を抱えて落ち着いたころ、もう一つ扉が鳴った。
今度は迷いのない、硬い音。
開けると、少年が立っていた。
私と同じくらいの年頃――たぶん十二か十三。でも体格はしっかりしていて、肩幅が同年代の子供にしては広い。使い込まれた丸盾を左腕に提げ、継ぎ当てだらけの革鎧を着ている。盾だけが妙に手入れされていて、汚れた革鎧との差が際立っていた。
――あの盾、この子のものじゃない。誰かから受け継いだんだ。
ステータスオープン。
反射的に発動した。
『レオン Lv.8 巡回兵見習い』
忠誠値:48/嘘反応:なし
嘘反応なし。48は高くも低くもないが、初対面でこの数字は悪くない。
「……失礼します。自分はレオン。辺境の巡回兵の――息子でした」
低い声。年齢の割に硬い口調。感情を押し込めるのに慣れている話し方だった。
「父は巡回兵でしたが、部隊が解散になって。父が死んでから、自分はこの集落に流れてきました。――今日、馬車が来たのは見ていました」
「見ていた?」
「はい。ガルドが剣に手をかけたのも。……あなたが、止めたのも」
あの場面を見ていた子がいたのか。
「領主館の警護を申し出に参りました。報酬は問いません。今夜だけで構いません」
報酬は問わない。つまりこの子は、金で動いているのではない。
「なぜ?」
聞かずにはいられなかった。追放された子供の領主を、なぜ初日から守ろうとする?
レオンは一瞬だけ黙った。それから、まっすぐに言った。
「父は巡回兵でした。守るのが仕事でした。……自分も、そうありたいと思っています」
嘘反応、なし。
この子は、本心を言っている。亡くなった父の意志を継ごうとしている。だから盾だけがあんなに磨かれていたのか。
「……ありがとう。助かります」
「では、扉の前に立ちます」
それだけ言って、レオンは踵を返した。小屋の入り口の横に盾を立て、壁に背をつけた。
見張りの姿勢。夜通しそうするつもりらしい。
「あの、中に入らない? 寒い――」
「任務ですので」
短い。あまりにも短い。
……十二歳が言うセリフじゃないでしょ、それ。いや、私も人のこと言えないけど。
ミナが私の袖をそっと引いた。
「ミチカ様……あの子、ずっと見てたんです。馬車が来たときから、石壁の向こう側で。私と同じところで」
ミナと同じ場所で、見ていた。石壁の陰から出る勇気は、今夜まで出なかった。でも――干し麦を持ってきたミナと同じタイミングで、この子も一歩を踏み出した。
偶然かもしれない。でも、嬉しい偶然だ。
藁のベッドに横になりながら、考える。
ミナ。レオン。
仲間と呼ぶにはまだ早い。信頼は証拠の積み重ねだ。
でも、一人じゃなくなった。
それだけで、藁のベッドが少しだけ柔らかく感じた。
このとき私はまだ知らなかった。明日の朝、あの錆びた錠前の向こうで、飢饉の「本当の理由」が目を覚ますことを。




