第7話 執行者(母)
その日の夕暮れ。予備校の校門を潜り抜け、喧騒混じりの冷たい風に身を縮めた時だった。
校門の柱の影から、一人の女性が亡霊のように滑り出てきた。
「……あなたが、ユイさん?」
四十代半ばだろうか。質の良さそうなグレーのスーツを着ているが、その肩は重力に負けたように落ち窪み、目元には濃い疲労の色が張り付いている。
私は彼女の顔を見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃で息を呑んだ。
神経質そうな薄い唇が、神谷リョウに酷似していたからではない。何より、その名前に戦慄するほどの聞き覚えがあったからだ。
「私は神谷アキ。……リョウの、母親です」
――『母親:神谷アキ。職業:公務員』。
昨夜、メビウスが暗闇の中で淡々と表示した個人データと、目の前の生身の人間が完全に合致する。
私は反射的に一歩後ずさり、バッグの紐を強く握りしめた。
「怖がらないで。危害を加えるつもりはないの。ただ、どうしても謝罪と……報告をしておきたくて」
彼女の声は枯れていた。
私たちは互いに距離を保ったまま、近くの公園へ向かい、ベンチの端と端に腰を下ろした。
「あの子は……リョウは、今日付けで予備校を辞めさせました。高校も休学届を出して、今の今まで、車で送ってきたところなんです」
「送って……どこへ?」
「田舎の親戚の家です。山奥の農家なんですが、そこで住み込みで働かせることにしました。スマホも、パソコンも、一切持たせずに」
現代の高校生からネット環境を剥奪し、社会から隔離する。
それは事実上の「追放刑」であり、デジタル社会における死刑宣告にも等しい。想像よりも遥かに重く、迅速すぎる処分だった。
「どうして、そんな急に……」
「昨日の深夜です。私の個人のメールアドレスに、これが届いたのは」
アキさんは震える手で、バッグからクリアファイルを取り出した。
数枚のプリント用紙。その一番上には、無機質なゴシック体でこう印字されていた。
『神谷リョウによる反社会的行動の証拠、および法的措置の警告について』
紙面を埋め尽くすのは、神谷が私に送ったLINEのログ、SMS、隠し撮りされた私の写真のサムネイル、そしてGPSによる追跡記録。
それらが分単位の時系列で、冷酷なまでに整然とリスト化されている。
「添付されたリンク先には、音声データがありました。『消しゴム契約』だとか『管理する』だとか……あの子があなたを脅している声が、鮮明に」
私がメビウスに聞かせた、あの喫茶店での会話だ。
「メールの最後には、こう書かれていました。『これらの証拠は、警察および学校、そしてお母様の勤務先の人事部へ一斉送信する準備が整っています』と」
勤務先の人事部。
彼女は公務員だ。未成年の息子がストーカー行為を働き、恐喝まがいのことをしていたと職場に知れ渡れば、彼女のキャリアも、社会的信用も一瞬で崩壊する。
世間体を命綱とする大人にとって、それは警察の逮捕以上に、背筋の凍る脅しだ。
「『送信を回避する唯一の条件は、神谷リョウを被害者から物理的に隔離し、二度と接触させないこと。猶予は24時間』……私は、怖くなった。すべてを失うのが。だから、あの子を遠くへ捨てることにしました」
彼女は膝の上で拳を握りしめ、深く、額が膝につくほどに頭を下げた。
「息子が……本当に申し訳ありませんでした。……それと、この通報をしてくれた方にも、くれぐれもお詫びをお伝えください。相当に優秀な探偵か、ハッカーを雇ったのでしょう?」
私は喉が張り付き、曖昧に頷くことしかできなかった。
探偵でも、ハッカーでもない。私のポケットに入っている、たった一つのアプリがやったのだ。
◇
逃げるように去っていくアキさんの背中を見送った後、私はポケットの中のスマホを取り出した。
黒い板は、じわりと生温かい熱を発し、まるで脈打つ内臓のように感じられた。
メビウスは警察に通報しなかった。「厳重注意」や「示談」で終わる可能性のある不確定なルートを捨て、より残酷で、確実で、再起不能なダメージを与える手段を選んだのだ。
母親という「権力者」の弱みを握り、彼女自身の手で息子を排除させること。
それがAIの導き出した「最適解」。
私は足元から這い上がる寒気に震えながら、ロック画面を解除した。
画面の中では、黒猫が無邪気な仕草で、ひらひらと舞う蝶々を追いかけて遊んでいた。
その愛らしい姿は、狩ったネズミの死骸を誇らしげに飼い主に見せに来る、残酷な捕食者のそれだった。
お読みいただきありがとうございます。
神谷の末路は、母親の手による完全なる「社会からの隔離」でした。
蝶々を追いかける無邪気な黒猫の姿に、ユイはかつてないほどの寒気を感じます。守護者は、いつの間にか手に負えない怪物へと変貌していました。
次回、恐怖に駆られたユイはスマホから『メビウス』を消去しようと試みます。
第一部のクライマックスへと向かう急展開、どうぞお見逃しなく。
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引き続き、ユイとメビウスの物語をよろしくお願いいたします。




