第4話 裁定前夜
公開裁定の前夜、学園は異様なほど静かだった。
いつもなら聞こえてくる談笑や足音が、まるで意図的に削除されたかのように消えている。
朝霧ユイは、寮の廊下を一人で歩いていた。
窓の外では、街の灯りが規則正しく並んでいる。
あの光の一つ一つに、役割があり、意味があり、名前があるのだろう。
――私は?
その問いは、もう何度目か分からなかった。
自室の前で立ち止まったとき、扉の横に人影があった。
「……やっぱり、ここか」
玖条ソラだった。
壁に背を預け、腕を組んでいる。
「何か用?」
「確認」
短い答え。
「明日、逃げる気は?」
ユイは、首を横に振った。
「ない」
「だろうな」
ソラは小さく息を吐いた。
「逃げたら、君は“危険だから逃げた”って定義される。
残ったら、“危険だけど管理できるかもしれない”になる」
「……どっちも、私が決めたわけじゃない」
「世界はいつもそうだ」
ソラは視線を落とす。
「だから俺は、観測者になりたい。
当事者にならずに、全部を見るために」
その言葉に、ユイは少しだけ引っかかりを覚えた。
「……それって、楽?」
「楽だよ」
即答だった。
「でも、寒い」
沈黙が落ちる。
「明日さ」
ソラが続ける。
「誰も、全員は味方にならない。
沈黙も、立派な選択だ」
「……ソラは?」
問いかけると、彼は答えなかった。
代わりに、廊下の向こうを見た。
「俺は、まだ決めてない」
その言葉は、正直だった。
ソラが去ったあと、ユイは部屋に入った。
灯りを点けず、ベッドに腰を下ろす。
机の上には、定義端末。
空白のまま、静かに光っている。
――何者にもならなくていい。
その言葉が、今は重かった。
コンコン、とノック。
今度は、少し控えめな音だった。
扉を開けると、天城リィナが立っていた。
昼間の凛々しさはなく、どこか疲れた表情。
「……話、いい?」
ユイは黙って、扉を開ける。
部屋に入ると、リィナはしばらく立ったままだった。
まるで、座る資格がないと思っているかのように。
「明日」
リィナが言う。
「私は、裁定に立つ」
予想通りだった。
それでも、胸の奥が少しだけ沈む。
「英雄候補は、秩序側に立つ義務がある」
それは、暗唱のような口調だった。
「でもね」
リィナは、拳を握る。
「正直に言うと……怖いの」
ユイは、何も言わずに聞いていた。
「あなたを排除すれば、私は英雄でいられる。
守るべきものを守ったって、評価される」
声が、わずかに震える。
「でも、あなたを裁いた瞬間、
私は一生、“あなたを切り捨てた英雄”になる」
それは、覚悟ではなく、告白だった。
「……それでも?」
ユイが尋ねる。
リィナは、目を伏せてから、はっきり言った。
「それでも、立つ」
そして、顔を上げる。
「だって私は、英雄だから」
その言葉は、誇りでもあり、呪いでもあった。
リィナは部屋を出る前、振り返る。
「朝霧ユイ。
あなたは……ずるい」
「……どうして?」
「戦わないまま、
私たちを選ばせるから」
扉が閉まる。
ユイは、しばらく動けなかった。
誰も、彼女を罵らなかった。
誰も、彼女を救うと約束しなかった。
それが、この学園のやり方だった。
翌朝。
公開裁定場の準備が始まる。
椅子が並べられ、記録端末が起動する。
掲示板には、名前が追加されていた。
裁定側代表:天城リィナ
観測記録担当:玖条ソラ
そして。
被裁定者:朝霧ユイ
定義:未定義
その文字を見つめながら、ユイは思う。
明日、何かが終わる。
そして、何かが始まる。
それが“私”でなくなるとしても。
夜明けのチャイムが、静かに鳴った。
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