第2話 英雄と空白
翌朝、朝霧ユイは一番後ろの席に座っていた。
席、と呼んでいいのか分からない。
番号も、所属クラスの表示もない。机の端末には、仮の識別コードだけが点灯している。
教室の空気は、昨日よりもわずかに重かった。
日暮ハルの席は、もう存在していない。
誰も、そのことに触れなかった。
触れないことが、正しいと定義されているかのように。
「……未定義席、か」
前の方から、小さな声が落ちてきた。
振り向くと、天城リィナがこちらを見ていた。
凛とした姿勢。
背筋はまっすぐで、制服の襟元一つ乱れていない。
胸元の端末には、金色の文字が浮かんでいる。
――英雄候補。
彼女は立ち上がり、迷いなくユイの前まで歩いてきた。
「あなたが、朝霧ユイね」
「……そうだけど」
「表示が出なかった人」
事実を並べているだけのはずなのに、
その声には微かな棘があった。
「珍しいわ。初期定義が測定不能なんて」
ユイは答えなかった。
答えようがなかった。
「ねえ」
リィナは一歩、距離を詰める。
「あなた、自分がどういう存在か分かってる?」
「……分からない」
正直に言ったつもりだった。
リィナは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
そして、唇を引き結ぶ。
「そう。なら、覚えておいて」
教室中に聞こえる声で、彼女は言った。
「ここは学園よ。
“分からない”まま存在できる場所じゃない」
周囲から、同意とも安堵とも取れる気配が広がる。
リィナは踵を返し、自分の席に戻った。
その背中は、非の打ち所がないほど“正しかった”。
ユイは、机の下で指を握りしめた。
午前の授業は、定義演習だった。
生徒同士がペアになり、互いに簡易裁定を行う。
「相手に適切な役割を与えなさい」
霧島教官の声が、淡々と響く。
「評価は、社会貢献度・安定性・再現性を基準とします」
ユイの前に立ったのは、天城リィナだった。
偶然ではない。
「よろしく」
そう言って微笑むリィナの表情は、完璧だった。
「朝霧ユイ。
あなたは……」
リィナは端末を操作しながら、言葉を探す。
「……定義不全。
社会における役割は未確定。
現時点では、観測対象」
画面に、灰色の文字が浮かびかける。
だが、定着しない。
「……?」
リィナは眉をひそめ、再入力する。
「不安定要素。
管理下に置くべき存在」
それでも、文字は滲み、消えた。
教室がざわつく。
「どういうこと……?」
リィナの声が、わずかに震えた。
ユイは、何もしていない。
ただ、そこに立っているだけだ。
「やり直しなさい、天城」
霧島教官が言う。
「はい」
だが、何度繰り返しても結果は同じだった。
定義が、貼り付かない。
リィナの呼吸が、少しずつ荒くなる。
「……あなた」
声を低くして、ユイを睨む。
「わざとやってるの?」
「違う」
「じゃあ、なんで――」
言葉が途切れる。
その瞬間、リィナは理解してしまった。
目の前の少女は、
自分が積み上げてきた“正しさ”の外側にいる。
努力も、評価も、期待も。
それらが通用しない存在。
――物語の外。
「……気味が悪い」
リィナは、そう呟いた。
授業終了の鐘が鳴る。
霧島教官は、端末を閉じた。
「本日の演習は、ここまで。
朝霧ユイは、引き続き監視対象とする」
監視。
その言葉が、教室に落ちる。
放課後、ユイは一人、廊下を歩いていた。
日暮ハルの声が、頭をよぎる。
――何者にもならなくていいよ。
でも、それは。
この場所では、許されないことなのだろう。
背後から、足音がした。
「……朝霧」
振り返ると、リィナが立っていた。
昼とは違い、表情は硬い。
「あなたは、敵じゃない」
唐突に、そう言う。
「でも……
あなたがここにいる限り、
私は“英雄”でいられるか分からない」
それは、告白に近かった。
ユイは、少し考えてから答えた。
「私は、奪うつもりはないよ」
「それが、一番怖いのよ」
リィナは目を伏せ、踵を返す。
「……覚えておいて。
この学園は、空白を許さない」
その背中を見送りながら、ユイは思った。
英雄は、守るために戦う。
でも、守られる側が“分からない存在”だったら?
世界は、どちらを選ぶのだろう。
監視カメラの赤い光が、静かに瞬いた。
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