番外編・もふもふの涙の日々
まだ春の名残が空に漂っていたころ。
空の世界では、ぽかぽかとした陽射しに包まれて、雲の子どもたちがのんびりと浮かんでいました。
その中で、少し離れた場所にひとりぽつんと漂っている小さな雲がいました。
名前はもふもふ。
まんまるで、ふかふかした形をしているのに、その目はいつも潤んでいました。
◇
「また泣いてるの?」
ほかの雲の子どもたちが近づいてきて、からかうように笑います。
「なにが悲しいのかわからないけど、泣いてばかりいると、すぐ雨になっちゃうよ」
「そしたら下の人間に迷惑かけるんだぞ」
言葉は冗談めいていたけれど、もふもふの胸にはずしんと響きました。
「……ごめんなさい」
謝る声もか細くて、風に消えてしまいそうでした。
仲間たちはそれ以上なにも言わず、遊びに戻っていきます。
もふもふはひとり残されて、しずかにぽろぽろと涙をこぼしました。
すると、雨粒となってぽたぽたと地上に落ちていきました。
下では洗濯物を干していた人間たちが慌てて取り込みはじめます。
「あら、急に雨が……」
「空は晴れてるのになあ」
そんな声を聞くと、ますます涙が止まらなくなりました。
◇
どうして自分はこんなに泣き虫なんだろう。
理由はわからないのに、胸がきゅうっと痛くなることがよくありました。
誰かに笑いかけられるだけで涙がにじみ、風が少し強く吹くだけで心細くなり、星がきらめくだけで切なくなる。
「どうして……どうしてわたしだけ、こんなに涙が出ちゃうの……?」
問いかけても、答えてくれるものはありません。
空は広すぎて、泣き声なんてすぐに風にさらわれてしまうからです。
◇
ある日。
もふもふは大きなクジラ雲たちが遊んでいる広場をのぞきました。
彼らは堂々と空を泳ぎ、互いにぶつかり合っては大笑いしています。
「いいなぁ……」
声に出した瞬間、目にまた涙があふれました。
羨ましい気持ちと、どうして自分はあんなふうにできないのだろうという悲しさが重なって、胸の奥が痛くなったのです。
こぼれた涙は小さな雨となり、下にいた小鳥たちの羽を濡らしました。
小鳥はばさばさと羽ばたいて逃げていきました。
「また迷惑かけちゃった……」
もふもふはしょんぼりして、風に流されるまま遠くへ漂っていきました。
◇
その夜。
月が出て、星たちがきらきらと輝いていました。
もふもふはひとり、夜空の端っこで丸まっていました。
泣き疲れて眠れず、目の下はかすかに濡れています。
「……ねえ、お月さま」
思わずつぶやいていました。
「どうしたら、泣かずにすむのかな。わたし……ほんとは、笑っていたいのに」
もちろん、月は答えてくれません。
ただ静かに光を落として、もふもふの涙を照らしました。
でも、そのとき。
小さな声が風の中から聞こえました。
『泣いていいんだよ』
もふもふははっとしてあたりを見回しました。
誰もいません。
ただ夜風がそよいで、花の香りを運んでくるだけです。
「……わたしが泣いていいの?」
もふもふはそっと自分に問いかけるように言いました。
涙を流すことは悪いことじゃない。
もしかしたら、誰かがその涙を待っているかもしれない。
ふと、そんな考えが胸に浮かんできました。
そう思った瞬間、少しだけ涙がやさしいものに変わった気がしました。
◇
翌日。
もふもふはまた空のすみでぽろぽろと涙を流していました。
けれど、今度は少し違いました。
地上に落ちた涙のしずくが、畑を潤しているのを見たのです。
葉っぱがきらりと光り、花がしずかに首をもたげました。
「……あれ、わたしの涙で元気になってる?」
驚きと同時に、胸の奥があたたかくなりました。
それからもふもふは、泣きそうになると空の下を見ました。
すると、涙が草木や小さな生き物を潤しているのを知ったのです。
「泣くのはわるいことじゃない。わたしの涙は、誰かの役に立ってる」
そう思うと、泣き虫であることがほんの少しだけ誇らしく思えました。
◇
それでも、仲間の雲たちは「また泣いてる」と笑いました。
寂しい気持ちは消えません。
ひとりぼっちの時間は相変わらず長くて、孤独でいっぱいでした。
けれど、その孤独の先に、あの日、遠くの空でまぶしく光る小さな雲の姿を見つけたのです。
強く、真っすぐに上を目指して、必死に膨らもうとしている雲。
でも、どこか不器用で、少しだけ寂しそうな影をしていました。
「……あの雲、なんだかわたしと似てる」
もふもふの胸に、涙といっしょに小さな勇気がわきあがりました。
あの雲に、声をかけてみたい。
こうして、もふもふはもくもくと出会う日の少し前まで、涙を抱えて過ごしていたのでした。




