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第8話:魔窟の掟と彼の戦場

第8話:魔窟の掟と彼の戦場

 主を失った廃屋に、重苦しい沈黙が落ちた。

 蹴り倒された椅子が、床の上で無様に転がっている。華と蛇目は、互いに視線を合わせることもなく、ただジンの飛び出していった戸口の暗闇を見つめていた。先ほどまでの、棘を含んだ緊張感は霧散し、代わりに気まずさと、そしてどこか共通の敗北感のようなものが、冷たい空気と共に漂っていた。

 先に口を開いたのは、蛇目だった。

「……やれやれ。あんなに取り乱すなんて、珍しいこともあるもんだ」

 その声には、いつものような挑発の色はなく、純粋な驚きと、ほんの少しの寂しさが滲んでいるように華には聞こえた。

「あいつは、ああ見えて、不器用だからね。自分の感情の置き所が分からなくなると、すぐに殻に閉じこもるか、こうして逃げ出すか、どっちかだ」

 それは、長年、彼の隣で戦ってきた者だけが知る、ジンの素顔の一端だった。華は、何も言い返せなかった。自分は、彼が逃げ出すほどの重荷を、無自覚に与えてしまっていたのだ。

 蛇目は立ち上がると、無造作に自分の荷物から革袋を取り出し、中から黒ずんだ干し肉の塊を取り出した。そして、その半分を、ナイフで切り分けて華の前に置く。

「食いな。あんたの作ったスープよりは、腹の足しになる」

 それは、施しにも似た振る舞いだった。しかし、不思議と腹は立たなかった。ただ、自分たちのいる世界の、絶対的な違いを見せつけられているだけだと分かったからだ。

 華が差し出された干し肉を口にすると、燻した肉の香りと、強い塩気が口の中に広がった。硬く、顎が疲れるほどだったが、噛めば噛むほど、凝縮された肉の旨味が滲み出てくる。確かに、これは生きるための味だ、と華は思った。


 ジンが戻ってきたのは、翌日の昼近くだった。

 その姿は、まるで地獄の底から這い上がってきたかのようだった。鎧は泥と、そして真新しい血で汚れ、顔には疲労の色が深く刻まれている。だが、その瞳には、昨夜のような混乱はなく、全てを諦めたかのような、凪いだ静けさが戻っていた。彼は、己の感情を、夜通しの殺戮の中で無理やり鎮めてきたのだ。

 彼は、華と蛇目を一瞥すると、何も言わずに、背負っていた背嚢を床に下ろした。中からは、魔窟で採れる鉱石や、魔物の素材が、ゴロゴロと転がり出てくる。

「蛇目、行くぞ」

 ジンは、それだけを言った。

「村の近くの魔窟だ。稼ぎが足りん」

「はいはい、了解。相変わらず、ワーカホリックだねえ、あんたは」

 蛇目は、慣れた様子で腰の短剣を確かめると、軽やかに立ち上がった。二人の間には、もはや言葉は必要なかった。視線を交わすだけで、次に何をすべきかが分かる。長年、背中を預け合ってきた者同士の、完璧な呼吸。

「……私も、行きます」

 華は、ほとんど無意識に、そう口にしていた。

 その言葉に、ジンと蛇目が、同時に彼女の方を向いた。

 ジンは、眉間に深い皺を寄せた。

「……お前が行って、何になる。足手まといだ」

 その言葉は、刃物のように冷たく、事実だった。

 蛇目も、呆れたように肩をすくめた。

「お嬢ちゃん、魔窟ってのは、あんたみたいなカタギが、お散歩気分で来るところじゃないんだよ。死ぬぜ、本気で」

 二人の言葉が、華の胸に突き刺さる。

 分かっている。自分が行っても、何もできないことくらい。それどころか、二人を危険に晒すだけだということも。

 だが、それでも、行かなければならないと思った。

 このまま、何も知らずに、ただ守られているだけでは、いつまで経っても、自分は彼の隣には立てない。彼の生きる世界を、彼の背負うものを、この目で見なければならない。そうでなければ、自分は、ただの借金を抱えた、哀れな女のままだ。

「……死には、しません。あなたの邪魔も、しません。ただ、見ているだけでいいんです。お願いします」

 華は、ジンに向かって、深く頭を下げた。

 ジンは、しばらくの間、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいたが、やがて、深い深いため息をつくと、吐き捨てるように言った。

「……勝手にしろ。ただし、俺から三歩以上離れるな。一瞬でも遅れたら、置いていく」


 村はずれにある、岩の裂け目。それが、魔窟の入り口だった。

 中へ一歩足を踏み入れた瞬間、華は全身の肌が粟立つのを感じた。ひやりとした、墓場のような空気。カビと、苔と、そして、濃密な獣の匂い。

 ジンと蛇目は、まるで我が家のように、躊躇なく闇の中へと進んでいく。その連携は、完璧だった。ジンが大剣で敵の体勢を崩し、蛇目がその隙に短剣で急所を突く。あるいは、蛇目が罠を解除し、ジンがその先に潜む魔物の気配を察知する。言葉なくして、二人の体は一つの生き物のように動いていた。

 華は、ただ、息を殺して、彼らの後ろをついていくだけだった。

 彼らが屠っていく魔物の姿は、おぞましく、その断末魔は耳を塞ぎたくなるほどだった。飛び散る血飛沫が、頬にかかる。その生温かい感触に、吐き気がこみ上げた。

 これが、ジンの戦場。

 これが、彼が十年もの間、生きてきた世界の、掟。

 華は、彼が毎日、生傷を絶やさず、常に死と隣り合わせでいる現実を、初めて目の当たりにした。そして、理解した。

 自分と彼の間には、決して越えることのできない、深く暗い川が横たわっているのだと。

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