第7話:二人の女と逃げ出した男
第7話:二人の女と逃げ出した男
蛇目は、当たり前のように廃屋に居座った。
彼女は、ジンが寝床にしている一角の隣に、自分の荷物を無造作に放り出すと、まるで長年住み慣れた我が家のように、どかりと椅子に腰を下ろした。その姿は、この家の真の主は自分だと、無言のうちに主張しているかのようだった。
華は、そんな蛇目の横暴な振る舞いに、何も言えなかった。言えるはずもなかった。自分は、金で繋ぎ止められた、偽りの妻でしかないのだから。
夕餉の時間になると、その奇妙な三角関係は、より一層、その歪さを増した。
一つの食卓を、三人が囲む。ジンは仏頂面で黙り込み、華は俯いてスープを啜るだけ。その重苦しい沈黙を、楽しむかのように破るのは、いつも蛇目だった。
「それにしても、ひどいメシだね。ジン、あんた、こんなもんばっか食わされてんのかい? これじゃあ、力が鈍る一方だぜ」
蛇目は、木のスプーンで椀の中をかき混ぜながら、あからさまに顔をしかめた。華が、村で手に入るなけなしの野菜と、干し肉で作った、精一杯のスープだった。
華の顔から、血の気が引く。
ジンが、低い声で言った。
「……食うのが嫌なら、出ていけ」
「おっと、怖いねえ。あたしは事実を言っただけさ。なあ、あんた」
蛇目は、矛先を華に向けた。
「こいつはな、魔窟に潜る時は、あたしが作った干し肉と、携帯用の固焼きパンしか食わないんだ。無駄がなく、すぐに力になる。あんたの作る、こんな水っぽいおままごとみたいなメシとは違うんだよ」
その言葉は、正しかった。
華の作る食事は、家庭の味だ。それは、ジンが捨てたはずの「平穏」の象徴。対して、蛇目の作る食事は、戦場で生き抜くための「糧」。それは、今のジンが生きる「現実」の象徴だった。
自分は、彼の力にはなれない。それどころか、彼の力を鈍らせる、足手まといな存在でしかない。
その事実を、まざまざと突きつけられた気がした。
華は、唇を強く噛みしめた。悔しくて、情けなくて、涙が出そうになるのを、必死でこらえる。
そんな華の様子を、蛇目は面白そうに眺めていた。
「あんたみたいなカタギに、こいつがくぐってきた地獄が分かるもんか。背中を預けるってことが、どういうことかも、分かりゃしないだろう?」
挑発的な言葉だった。
その時、それまで黙っていた華が、ふと顔を上げた。その瞳には、涙ではなく、静かな怒りの炎が宿っていた。
「……今の彼を支えるのは、私の役目です」
か細いが、凛とした声だった。
「あなたの知っている『地獄』は、過去の彼でしょう。ですが、彼が今、この場所にいるのは、紛れもない現実です。だとしたら、戦場ではない、この場所での彼の生活を支えるのが、今の私の務めです」
精一杯の、強がりだった。だが、それは、彼女の矜持そのものだった。
蛇目は、一瞬、虚を突かれたように目を丸くし、やがて、喉の奥でくつくつと笑い出した。
「へえ……。言うじゃないか、お姫様」
二人の女の視線が、中央に立つジンに突き刺さる。一方は「お前はあたしの相棒だろ?」と問いかけ、もう一方は「あなたは私の希望です」と訴えかけていた。
期待、嫉妬、信頼、懇願。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情の奔流が、ジンに向かって押し寄せる。彼は十年もの間、そんな生々しい感情から目をそらし、心を閉ざして生きてきたのだ。金と暴力だけが支配する、乾いた世界で。
許容量を、とうに超えていた。
頭の中で、何かが焼き切れるような音がした。
「……っ、うるさい!」
ジンは、ほとんど叫ぶように言った。
華と蛇目が、驚いて口をつぐむ。
「俺のことで揉めるな!」
椅子を蹴り倒し、彼は立ち上がった。その目は、どこか怯えているようにも見えた。
「どいつもこいつも、勝手にしろ!」
それは、戦場で全てを失った時以来の、感情の爆発だった。
彼は、もはやその場にいることができなかった。二人の視線から逃れるように、背を向ける。
「おい、ジン!」
「ジンさん!」
背後からかかる二つの声も振り切り、彼は転がるように小屋から逃げ出した。
ヒーローでも、頼れる男でもない。ただ、自分に向けられる感情の重さに耐えきれなくなった、弱い男がそこにいただけだった。
彼はどこへ行くでもなく、ただひたすらに走った。心臓がうるさく脈打ち、呼吸が喉に絡みつく。
二人の女から、そして、彼女たちが呼び覚まそうとする、人間らしい感情を持つ自分自身から、必死に逃げていた。