第4話:不器用な共同生活と砕かれた花瓶
第4話:不器用な共同生活と砕かれた花瓶
翌朝、華が目を覚ましたのは、床に差し込む朝日でだった。
硬い板の間で眠ったせいで、体の節々が痛む。彼女はゆっくりと身を起こし、廃屋の中を見渡した。隣で眠っていたはずのジンの姿は、どこにもなかった。ただ、彼が使っていたのであろう毛布が、無造作に畳まれているだけ。まるで獣が寝ぐらを去った後のように、そこには何の生活感も残されていなかった。
ひとまず、このままではいけない。華はそう思い、行動を開始した。
まずは水だ。村の共同井戸へ向かうと、案の定、水を汲みに来ていた村の女たちから、好奇と警戒の入り混じった視線を浴びた。
「まあ、華ちゃん……昨日の、あの男は一体……」
「……」
華は何も答えず、ただ黙って桶に水を汲んだ。何を言っても、憶測を呼ぶだけだ。今は、耐えるしかない。
家に戻ると、次にしたのは掃除だった。十年分の埃と煤を、根気よく拭っていく。破れた障子を応急処置し、吹き込んできた枯れ葉を掃き出す。男が寝床にしていた一角は、特に念入りに。そこには、血の匂いが微かに染みついていたからだ。
昼過ぎ、少しは人の住める場所になった家を見て、華は小さく息をついた。がらんとした室内は、まだ寒々しい。彼女はふと思い立ち、家の裏手に回った。そこは、昔、彼女の母とジンの母が、ささやかな花壇を作っていた場所だった。今は見る影もなく荒れ果てているが、その片隅に、ど根性大根のように、名の知れぬ紫色の野の花が数輪、健気に咲いているのを見つけた。
華はそれを摘み、家の中にあった、唯一割れていない土器に活けた。そして、食卓だったものの上に、そっと置く。
たったそれだけで、廃屋に、ほんの少しだけ、彩りが生まれた気がした。
それは、借金を返すための労働ではなかった。ただ、この冷え切った空間に、少しでも温もりが欲しかった。そして、自分自身が、人間らしく息をするために、必要なことのように思えた。
ジンが戻ってきたのは、陽がすっかり落ちた頃だった。
その手には、仕留めたばかりの兎が二羽ぶら下がっていた。今日の食料だろう。彼は無言でそれを土間に置くと、家の中の変貌に気づき、眉をひそめた。
埃と血の匂いだけが染みついていたはずの小屋に、いつの間にか別の何かが混じり始めている。
そして彼の視線は、食卓の上の、一輪挿しに釘付けになった。
「何をしている」
低い声に、火をおこそうとしていた華の肩がびくりと跳ねる。
「あ、あの……少しでも、過ごしやすいようにと……」
「余計なことをするな」
ジンの声は、凍てついていた。彼は食卓に歩み寄ると、何の躊躇もなく、花が活けられた土器を腕で払いのけた。
ガシャン、と耳障りな音が響く。
土器は床に落ちて砕け、水と紫色の花が、惨めに散らばった。
華が息をのむのが分かった。その瞳が、信じられないという色に染まる。
「な…ぜ…、こんなことを……」
「言ったはずだ。ここはただの寝ぐらだ。それ以上でも、それ以下でもない」
そうだ、ここは寝ぐらだ。感情を持ち込む場所じゃない。十年前に捨てたはずの、あの穏やかな日々を思い出させるようなものは、ここにあってはならないのだ。あの温もりを知ってしまえば、今の自分がどれほど汚れているかを、惨めなほどに思い知らされる。
だから、やめろ。俺を、昔の『蒼汰』に戻そうとするな。
「……ひどい」
か細い声が、ジンの胸を刺した。
華は、唇を強く噛みしめ、瞳に涙を溜めていた。だが、決してこぼしはしなかった。彼女は砕けた土器の破片を、震える手で拾い始める。その小さな背中が、頑なに彼を拒絶していた。
その姿が、十年前、守れなかったものの幻影と重なった。
ジンは、胸が焼けつくような衝動に駆られ、舌打ち一つ残して小屋を飛び出した。冷たい夜風が、火照った頬を撫でる。彼は自分の拳を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、じわりと血が滲む。
自分のしたことの酷さは、分かっていた。
あれは、ただの八つ当たりだ。
忘れたい過去を思い出させ、今の自分の醜さを突きつけてくる、目の前の女に対する、どうしようもない苛立ちの発露だった。
ジンはその夜、小屋には戻らなかった。獣のように、ただ暗い森の中を、当てもなく彷徨い歩いた。