第3話:金で買った妻と一方的な契約
第3話:金で買った妻と一方的な契約
夜の闇が、街道を支配していた。
馬の背に揺られながら、華は目の前の男の広い背中を、ただ黙って見つめていた。一つの鞍に二人乗り。彼女の体は、必然的に男の背中に密着している。ごわごわした革鎧の感触と、その下から伝わる確かな体温。そして、微かに漂う、血と鉄と、遠い昔に知っていたような汗の匂い。その全てが、華の心をかき乱していた。
この男は、一体誰なのだろう。
人買いの蛇善から自分を救ってくれたのは事実だ。しかし、そのやり方はあまりに乱暴で、彼の瞳には、慈悲も同情も浮かんでいなかった。ただ、目的を遂行する機械のような、冷たい光があるだけ。
「……あの」
耐えきれなくなり、華は声を絞り出した。
男の背中が、ぴくりと硬直する。彼は、返事をしなかった。無視されているのか、それとも聞こえなかったのか。
「どこへ、向かっているのですか」
もう一度、今度は少しだけ声を張って尋ねる。
「……村だ」
ようやく返ってきたのは、石を転がすような、無愛想な声だった。
「あなたの、生家に戻る」
その言葉に、華の心臓がどきりと跳ねた。なぜ、この男が自分の家のことを知っているのか。
「なぜ、それを……」
「……」
男はまた、黙り込んだ。沈黙が、まるで分厚い壁のように二人の間にそびえ立つ。これ以上尋ねるな、という無言の圧力が、彼の背中から発せられていた。華は、唇を噛みしめ、それ以上問いかけるのを諦めた。
(やはり、違う。あの人が、こんな冷たい沈黙を、私に向けるはずがない)
華は、心の中で、かぶりを振った。だが、馬を操る彼の手綱さばきが、昔、一緒に馬に乗せてもらった時の、あの不器用な手つきと、奇妙に重なって見えて、彼女の心は、また、揺れた。
村に戻り、男が向かったのは、華の家の隣、かつて蒼汰が家族と暮らしていた家だった。今は誰も住んでおらず、十年という月日が、家をただの廃屋に変えている。
ジンは、軋む戸を、蹴破るようにして開けた。
家の中は、埃とカビの匂いがした。床には枯れ葉が吹き込み、家具には白い布がかぶせられたままだ。彼はその中心に立つと、ようやく華の方を向いた。月明かりが、傷だらけの横顔を青白く照らし出す。
「なぜ……あんな大金を」
華は、馬の上で聞けなかった質問を、もう一度ぶつけた。
「私を、助けてくださったのなら、何か理由が……」
「理由などない」
ジンは、華の言葉を遮った。
「お前、これからどうするつもりだった」
問いかけに、華は答えなかった。答えられなかった、というのが正しい。人買いに売られ、どこかの見知らぬ町で、屈辱的な人生を送る。それ以外の道など、なかったのだから。
その沈黙が、何よりの答えだった。
ジンは、苛立ちを隠しもせずに舌打ちした。その音が、やけに大きく廃屋に響く。
「あの金は、貸しだ」
やっとのことで、それだけを言った。感謝されたいわけでも、英雄気取りでいたいわけでもない。ただ、この状況を終わらせるための、最も手っ取り早い言葉がそれだった。
「借金だと思えば、受け取れるだろう」
「……」
「返すあてはあるのか」
畳みかけるような問いに、華は唇を噛んだ。あるわけがない。一生働いても、金貨一枚稼げるかどうか。
「ないな」ジンは決めつけた。「なら、体で返せ」
ハッと、華が息をのむ音がした。彼女の顔から血の気が引き、瞳に侮蔑と恐怖の色が浮かぶ。人買いから助けてくれた男が、結局は同じ種類の人間だったのだと、そう思ったのだろう。
違う、そうじゃない。ジンは心の中で叫んだ。だが、どう言えばいいのか分からない。感情を言葉にする術を、十年前に捨ててきてしまった。言葉はいつも、本心とは違う、最も相手を傷つける形でしか出てこない。
焦りと苛立ちが、さらに歪んだ言葉を彼の口から吐き出させた。
「……夫婦になれ。形だけの、な」
「え……?」
「この村で、男と女が一つ屋根の下で暮らすんだ。夫婦のフリでもしておけば、余計な勘繰りをされずに済む。お前にとっても、悪くねえ話のはずだ」
必死で取り繕った理屈は、ひどく上滑りしていた。安全のため?違う。ただ、彼女を自分の手の届く範囲に置いておきたいだけだ。かつてのように、失ってしまわないように。そんな独善的な欲望を、彼は正当化しようとしていた。
華は、混乱していた。目の前の男が、自分を助けてくれた恩人なのか、それとも新たな支配者なのか。ただ、その不器用すぎる物言いの奥に、ほんのわずかな必死さを感じ取っていた。まるで、迷子の子供のような。
彼女は、廃屋の床を見つめたまま、小さな声で呟いた。
「……あなたの、名前は?」
唐突な質問だった。
ジンは、一瞬、言葉に詰まった。蒼汰、と名乗ることは、もうできない。あの名は、あの穏やかな日々は、十年前に死んだのだ。
「……ジンだ」
荒野で拾った、仮初めの名。
「ジン、さん……」
華は、その名を反芻するように呟くと、顔を上げた。その瞳には、もう恐怖の色はなかった。代わりに宿っていたのは、覚悟の色だった。
「わかりました。その契約、お受けします。ジンさんからお借りした、金貨千枚。その借金を返し終わる、その日まで」
彼女は、腹を括ったのだ。目の前の、得体の知れない男と共に生きることを。
その言葉を聞いて、ジンは何も言えなかった。ただ、彼女の真っ直ぐな視線から逃れるように、顔をそむける。
こうして、金と偽りの契約で結ばれた、二人の奇妙な生活が始まった。十年ぶりに再会した二人の間には、温かい思い出ではなく、金貨千枚という名の、重く冷たい鎖だけが横たわっていた。