第20話:借金返済と本当の契約
第20話:借金返済と本当の契約
次にジンが目を覚ました時、最初に感じたのは、薬草の匂いと、陽光の温かさだった。
全身が、鉛のように重い。あちこちの傷が、熱を持って疼いている。だが、不思議と、不快ではなかった。むしろ、自分がまだ「生きている」という、鈍い実感があった。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた廃屋の天井が、視界に映った。
「……気が、つきましたか」
穏やかな声がして、横を向くと、そこには、華が座っていた。
彼女の肩は、真新しい包帯で厚く巻かれている。その顔は、まだ青白かったが、その瞳には、穏やかな光が宿っていた。彼女の手には、濡れた布が握られており、どうやら、ずっと自分の汗を拭ってくれていたらしい。
「……お前は、無事か」
掠れた声で、ジンが問う。
「はい。あなたのおかげで。村の薬師さんが、すぐに応急処置をしてくれました」
華は、そう言って、優しく微笑んだ。
ジンは、ゆっくりと、記憶をたどった。龍の顎での死闘、悪魔の鎌、そして、自分たちを助けに来てくれた、村人たちの姿。
「……村は」
「大丈夫です。黒蠍団は、村の人たちが捕らえ、お上に突き出してくれました。バザルも、もういません」
そして、彼女は、傍らに置いてあった、一つの袋を指差した。中からは、金貨の山が、きらきらと輝いている。
「龍の顎で見つかった宝玉は、お上が高値で買い取ってくれました。そのお金で、村の借金は全てなくなり、当面の生活にも困らないそうです。これも、全部、ジンさんが命懸けで戦ってくれたおかげです」
村人たちは、もう、ジンのことを、得体の知れない傭兵だとは思っていなかった。村を救った、英雄として、心からの感謝を捧げているのだという。
ジンは、何も言えなかった。ただ、遠い目をして、天井の染みを眺めている。
失ったはずの故郷。拒絶されたはずの人々。その全てが、自分の知らぬ間に、再び、温かい繋がりを取り戻していた。その事実に、どうしようもない戸惑いと、そして、胸の奥が熱くなるような、むず痒い感情がこみ上げてきた。
数日後、二人の傷が、ようやく歩けるまでに回復した頃。
ジンは、華の前に、一つのものを置いた。
龍の顎の報酬として、国から与えられた、金貨が詰まった、重い革袋だ。
「……これで、借金は返せるだろう」
金貨千枚。物語の始まりであった、あの重い鎖。
彼は、その全てを、はるかに上回る額の金を、彼女の前に差し出した。これで、契約は終わりだ。お前は、もう自由だ、と。
しかし、華は、その革袋には目もくれず、静かに首を振った。
「いいえ」
彼女は、立ち上がると、ジンの傷ついた手を、そっと両手で包み込んだ。
「この借金は、一生かけて、返します」
ジンが、驚いて彼女の顔を見る。
「あなたのそばで、あなたの妻として、です」
その瞳は、どこまでも真剣だった。
ジンは、言葉を失った。心臓が、うるさいくらいに、高鳴っている。
彼は、不器用な手つきで、彼女の頭を、くしゃりと撫でた。
「……好きに、しろ」
それが、彼にできる、精一杯の愛情表現だった。
そして、彼は、懐から、一枚の、ぼろぼろになった羊皮紙を取り出した。それは、かつて、華の父親が作ったという、偽りの借用書を、彼が蛇善から取り上げていたものだった。
「こんなもんは、もう、いらねえな」
彼が、それを破り捨てようとした時、華が、その手を止めた。
「待ってください」
彼女は、その羊皮紙を受け取ると、裏返しにした。そして、そばにあった炭で、何かを書きつけ始めた。
「……何をしている」
「新しい、契約書です」
華は、悪戯っぽく微笑むと、書き終えた羊皮紙を、ジンに見せた。
そこには、彼女の、少し癖のある、だが、心のこもった文字が並んでいた。
【新しい契約書】
一、夫・蒼汰は、妻・華を、一生、守ること。もう、一人で戦わないこと。
一、妻・華は、夫・蒼汰を、一生、支えること。彼の傷に、薬を塗り続けること。
一、二人は、時々、喧嘩をすること。でも、必ず、次の日には、一緒に朝ごはんを食べること。
一、この契約の期限は、どちらかが、死ぬまで。利息は、毎日の、笑顔一つ。
ジンは、その契約書を、食い入るように見つめていた。
夫・蒼汰、と書かれた文字。
その名を、彼女は、覚えていてくれた。そして、もう一度、彼に与えてくれようとしている。
胸の奥から、熱いものが、こみ上げてくる。
彼は、顔を上げることができなかった。ただ、ぼろぼろと、涙がこぼれ落ちるのを、止めることができなかった。十年もの間、枯れ果てていたはずの涙が、溢れて、止まらなかった。
華は、そんな彼を、優しく、抱きしめた。
「おかえりなさい、蒼汰さん」
その声は、十年前に、聞きたかった、声だった。
ジン――いや、蒼汰は、子供のように、声を上げて泣いた。そして、腕の中の、かけがえのない温もりを、もう二度と離さないと、心に誓った。
金で始まった偽りの関係は、終わりを告げた。
そして、ここから、二人の、本当の物語が、始まる。
不器用で、傷だらけで、それでも、互いを「帰る場所」として見出した、二人の、本当の契約が。
窓の外では、かつて、二人が見上げた故郷の空が、どこまでも青く、澄み渡っていた。
おわり




