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第2話:十年ぶりの故郷とすれ違う時間

第2話:十年ぶりの故郷とすれ違う時間

 東へ向かう街道は、記憶の中よりずっと荒れていた。馬車を雇う金はあったが、急く心はそれを許さなかった。ただひたすらに、己の足で土を蹴る。肺が焼けつくように痛み、脇腹の古傷が悲鳴を上げた。その痛みが、自分がまだ過去に縛られている証明のようで、ジンは自嘲の笑みを浮かべた。


 丸二日、ほとんど休みなく歩き続け、ようやく故郷の村の入り口を示す、朽ちかけた木の門が見えてきた。

 村は、まるで色褪せた絵姿のようだった。活気はなく、家々は傾き、畑は痩せている。すれ違う村人たちは、見慣れぬ大男の姿に怯えた視線を向けるだけだ。その誰もが、俺がかつてこの村で育った蒼汰であることには気づかない。その事実に、ジンは安堵と、そして針で刺すような鋭い孤独を感じた。


 逸る気持ちを抑え、まずは村のただ一つの酒場へと向かった。状況が分からないまま乗り込んでも、ろくなことにはならない。前世の経験がそう告げていた。埃っぽい酒場の隅で、泥水のようなエールを注文し、耳を澄ます。傭兵稼業で身につけた、情報収集の基本だった。

 果たして、すぐに耳慣れた名が聞こえてきた。

「聞いたかい。卯月んとこの娘さん、とうとう蛇善に連れていかれたそうだよ」

「ああ、今朝がた、馬車に乗せられるのを見た。泣きもせず、ただまっすぐ前を見てたって話だ。気丈な子だったが、可哀想にな…」

 ゴトリ、とエールの入った木杯が手から滑り落ち、床に転がった。

 ――間に合わなかった。

 その事実が、鉄の槌のようにジンの頭を殴りつけた。焦燥感に駆られ、最短で駆けつけたつもりだった。だが、現実は非情だ。物語のように、都合よく英雄が登場する場面など、ありはしない。

「その蛇善という男は、どこへ行った」

 ジンが隣の席の老人たちに低い声で尋ねると、彼らは怯えたように顔を見合わせた。

「ひぃ…! さ、さあな。西の宿場町にでも、女を売りに行くんだろうが…」

 ジンはテーブルに銅貨を数枚叩きつけると、酒場を飛び出した。西の宿場町。ここから半日の距離だ。馬を使えば、まだ追いつけるかもしれない。

 村の入り口で、痩せた馬を一頭、法外な金で無理やり買い上げる。鞍もつけず、剥き出しの背に飛び乗ると、彼は西へと馬を走らせた。


 夕暮れ時、陽が地平線に溶ける直前、街道の先に一台の幌馬車を見つけた。間違いない、蛇善の馬車だ。

 ジンは馬の速度を上げ、あっという間に馬車の真横につける。御者台に座る蛇善が、馬を並走させる大男の姿に気づき、驚愕に目を見開いた。

「な、なんだてめえは!」

 ジンは答えず、馬から馬車へと、獣のような俊敏さで飛び移った。御者台が大きく軋む。

「ひいっ!」

 蛇善の首根っこを掴み、力任せに引きずり降ろす。地面に叩きつけられた蛇善が、砂を食って咳き込んだ。

「……中にいる女を、出せ」

 地を這うような声だった。

 蛇善は震えながらも、まだ強がって見せた。

「な、何の権利があってそんなことを…こいつは、俺が正当な手続きで譲り受けた商品だ!」

「権利?」ジンは鼻で笑った。「そんなものは、ねえな」

 彼は大剣の柄に手をかけた。その鞘から、鈍い光がわずかに覗く。それだけで、蛇善の顔から血の気が引いた。目の前の男が、道理の通じる相手ではないことを、その殺気から瞬時に悟ったのだ。

「わ、わかった! わかったから、それを抜けぶんじゃねえ!」


 幌が開けられ、中から一人の娘が姿を現した。

 卯月華だった。

 彼女は、突然の襲撃に何が起きたのか分からない、という顔をしていた。だが、地面に這いつくばる蛇善と、その前に仁王立ちする傷だらけの大男を見ると、すぐに状況を理解したらしい。

 彼女の視線が、ジンに注がれる。それは、感謝の眼差しではなかった。驚き、戸惑い、そして、得体の知れない暴力に対する、深い警戒の色をしていた。

 華は、震える声で言った。

「……あなたは?」

 その声に、ジンの心臓が鈍く痛む。彼女は、目の前の男が誰なのか、全く分かっていない。それも当然だ。十年という歳月は、男の顔を、声を、魂の色さえも変えてしまったのだから。


 だが、華の心の中では、別の感情が渦巻いていた。

 この男の声。ひどく低く、荒んでいる。けれど、その響きの奥底に、昔、自分だけに聞こえた、あの優しい声の欠片が、隠れているような気がしてならなかった。

 そして、その立ち姿。大剣を背負い、全身から荒々しい気を放っているのに、ふとした瞬間に、体重をかける足の癖が、昔、木登りを教えてくれた、あの少年の姿と、重なって見える。

 ――まさか。

 そんなはずはない。あの人は、もう、いないのだから。華は、あり得ない妄想を、必死で頭から振り払った。


 ジンは懐から革袋を取り出すと、それを蛇善の足元に投げ捨てた。

「金はここに置いていく。こいつは、俺がもらう」

 それは救いの言葉ではなかった。一つの商品を、別の持ち主が買い取るかのような、無機質な宣言だった。

 華の瞳に、かすかな侮蔑の色が浮かんだのを、ジンは見逃さなかった。人買いから、別の、より強大な暴力の手に渡っただけ。彼女には、そう見えているのだろう。

 それでいい、とジンは思った。期待されるより、よほどましだ。

 彼は華に背を向けると、自分の馬を指差した。

「……乗れ」

 命令だった。拒否は許さない、という響きがそこにはあった。

 華は一瞬ためらったが、やがて諦めたように頷くと、おぼつかない足取りで馬の方へと歩き出した。その小さな背中が、夕陽に照らされて、ひどく頼りなく見えた。

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