第19話:生還と守るべき場所
第19話:生還と守るべき場所
巨大な扉の向こうは、広大な円形の広間だった。
天井には、龍の顎の入り口と同じように、巨大な穴が穿たれており、そこから、か細い月光が、まるで舞台の照明のように、広間の中央を照らしている。
その中央の祭壇に、それはあった。
心臓のように、明滅を繰り返す、紅い宝玉。古代文明の遺物。黒蠍団が、ジンに手に入れろと命じたものだ。
だが、二人の視線は、宝玉には向かなかった。
その祭壇を守るようにして、一体の「それ」が、静かに佇んでいたからだ。
それは、もはや魔物というより、悪魔と呼ぶにふさわしい異形だった。黒曜石のような甲殻に覆われた体、燃えるような六つの瞳、そして、あらゆるものを切り裂くであろう、巨大な二対の鎌。このダンジョンの主。この場所で、数多の挑戦者たちの命を喰らってきた、死の化身。
その悪魔が、ゆっくりと、二人の方を向いた。六つの瞳が、一斉に、獲物である彼らを捉える。
空気が、凍りついた。
だが、その絶望的な静寂を破ったのは、悪魔ではなかった。
「――見事だ、傭兵ジン。まさか、本当にここまでたどり着くとはな」
広間に、拍手をしながら、一人の男が姿を現した。黒蠍団の頭、バザルだ。彼の後ろには、弓を構えた、精鋭と思しき部下たちがずらりと並んでいる。彼らは、別の入り口から、とっくにこの場所に先回りしていたのだ。
「さて、役者は揃った。最後の仕上げといくか」
バザルは、冷酷な笑みを浮かべた。
「その化け物を、存分にいたぶって、弱らせろ。お前たちが死ぬか、そいつが瀕死になるかしたところで、俺たちが、お前たちごと、まとめて矢の雨で仕留めてやる。漁夫の利、というやつだ」
あまりにも、非道な筋書き。ジンと華は、最初から、この場所で、ダンジョンの主と共に葬り去られる運命だったのだ。
「……外道が」
ジンは、吐き捨てるように言った。
「褒め言葉と受け取っておこう。さあ、始めろ! やらねば、俺たちの矢がお前たちの背中を貫くぞ!」
バザルの号令と同時に、ダンジョンの主が、咆哮と共に動き出した。
絶体絶命。前門の悪魔、後門の盗賊団。逃げ場は、どこにもない。
死闘が、始まった。
悪魔の動きは、これまでの魔物とは比較にならなかった。瞬間移動と見紛うほどの速度で、その巨大な鎌が、縦横無尽に二人を襲う。
ジンは、大剣でその斬撃を受け流し、弾き、逸らす。一撃でも食らえば、即死。彼の全身の神経が、極限まで研ぎ澄まされていた。
華も、必死だった。彼女は、悪魔の足元に、目くらましの薬液を投げつけ、その視界を奪う。ジンの足元がぬかるんだ時には、即席の乾燥剤を撒いて、彼の足場を確保する。
だが、実力の差は、歴然だった。
ガキン!という、耳をつんざく金属音と共に、ジンの大剣が、悪魔の一撃を受けきれずに、半ばからへし折れた。
「ジンさん!」
体勢を崩したジンに、悪魔のもう一方の鎌が、無慈悲に振り下ろされる。
華は、ほとんど無意識に、彼の前に飛び出していた。そして、懐から、最後の切り札だった、強力な麻痺毒を塗ったナイフを、悪魔の眼球めがけて突き立てた。
グシャリ、という鈍い感触。悪魔の六つの瞳の一つが、潰れた。
だが、代償は大きかった。振り下ろされた鎌の先端が、華の肩を深く、深く抉ったのだ。
「ぐ……あ……っ!」
華の体から、大量の血が噴き出す。彼女は、その場に崩れ落ちた。
「華ッ!」
ジンの絶叫が、広間にこだまする。
その瞬間、彼の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。
十年前の、あの日の光景が、フラッシュバックする。守ると誓った存在が、自分の目の前で、血を流して倒れていく。
もう、二度と、あんな思いはしたくない。
――いや、違う。
今度こそ、俺が、守る。
ジンは、折れた大剣を捨てると、華が突き立てたナイフを、悪魔の顔面から引き抜いた。そして、咆哮を上げながら、悪魔の懐へと、身一つで飛び込んでいく。
それは、もはや、戦術でも、技術でもなかった。
ただ、愛する女を守りたいという、一心の、獣の猛りだった。
彼は、悪魔の甲殻に張り付くと、その関節の隙間、装甲の薄い部分を、滅多刺しにした。悪魔の体液を浴び、自らの体も無数の傷を負いながら、彼は、ただ、狂ったように、ナイフを突き立て続けた。
やがて、悪魔の巨体が、地響きを立てて、活動を停止した。
ジンは、満身創痍の体で、ふらつきながら、華の元へと歩み寄る。
「……華、しっかりしろ……!」
彼は、自分の服を破り、彼女の傷口を必死で圧迫止血する。
その時だった。
「見事、見事! いやはや、素晴らしいショーだったぞ、傭兵!」
バザルの、能天気な声が響いた。
「礼を言うぞ。おかげで、矢を一本も使うことなく、化け物を始末できた。さて、約束通り、お前たちもここで死んでもらおうか。かかれ!」
部下たちが、一斉に弓を引き絞る。
もう、終わりだ。
ジンは、もはや、立ち上がる力も残っていなかった。彼は、せめて、華を庇うように、彼女の体の上に覆いかぶさった。
ヒュン、と、矢が放たれる音がした。
だが、矢が、二人に突き刺さることはなかった。
代わりに、バザルの部下たちの、断末魔の悲鳴が、あちこちから上がったのだ。
見ると、広間の入り口から、松明を持った、村人たちが、なだれ込んできていた。その手には、鍬や、鎌や、古びた猟銃が握られている。
その先頭に立っていたのは、村の長老だった。
「……ジン殿!」
長老は、叫んだ。
「お前さん一人が、格好つけるのを、見過ごせるほど、俺たちは、落ちぶれちゃいねえんだよ!」
彼らは、華から、全てを聞いていたのだ。ジンが、村のために、一人で死地に赴いたことを。そして、彼を助けるために、後を追ってきてくれたのだ。
バザルが、狼狽した。
「な、なんだ、この百姓どもが! やっちまえ!」
だが、数の上では、村人たちの方が圧倒的に多い。黒蠍団は、あっという間に、怒れる村人たちの波に、飲み込まれていった。
ジンは、その光景を、ただ、呆然と見ていた。
失ったはずの、故郷。拒絶されたはずの、人々。
その全てが、今、自分たちを守るために、戦ってくれている。
ジンは、祭壇に輝く、紅い宝玉を、最後の力を振り絞って、その手に掴んだ。
そして、意識が遠のいていく華の体を、固く、固く、抱きしめた。
「……帰るぞ、華。俺たちの、場所に」
彼の意識もまた、そこで、途切れた。




