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第17話:魂の叫びと初めての弱さ

第17話:魂の叫びと初めての弱さ

 ジンの胸に額を押し付けたまま、華は、ただ、彼の鼓動を聞いていた。

 トクン、トクン、と力強く、しかし、どこか不規則に響く音。それは、彼の心の混乱を、そのまま表しているようだった。

 彼の全身から、戸惑いと、苛立ちと、そして、振り払うことのできない何かに対する、諦めのような感情が、波のように伝わってくる。

 長い、長い沈黙が、二人を支配した。

 先にそれを破ったのは、ジンだった。

 彼の口から漏れたのは、言葉にならない、獣の呻きのような、低い声だった。

「……どけ」

 その声は、掠れていた。

「どけと言っている。お前がいると、調子が狂う……」

 彼は、華の肩を掴み、自分から引き剥がそうとする。だが、その手には、いつものような、有無を言わせぬ力がこもっていなかった。むしろ、縋るように、微かに震えている。

 華は、その手を振り払わなかった。逆に、その大きな手に、自分の手を重ねる。

「嫌です。どきません」

「……なぜだ」

「あなたを、一人にしたくないからです」

 その答えは、あまりにも真っ直ぐで、純粋だった。

 その純粋さが、ジンの心の奥底で、十年もの間、固く閉ざしていた扉を、ついに破壊した。


「うるさいッ!」

 それは、ほとんど絶叫だった。

 ジンは、衝動的に、華の体を強く抱きしめていた。骨が軋むほど、強く。まるで、そうでもしなければ、自分の中の何かが、バラバラに砕け散ってしまいそうだったから。

「うるさい……うるさい……! お前がいると、俺は弱くなる……!」

 そうだ、弱くなるのだ。

 この女と再会してから、忘れていたはずの感情が、次々と蘇ってくる。

 死ぬのが怖い。

 失うのが怖い。

 この、腕の中にある、ささやかな温もりを、手放したくない。

 そんな、傭兵としては致命的な弱さが、心を蝕んでいく。それは、愛の告白ではなかった。彼の心の平穏を乱し、鋼鉄の鎧に亀裂を入れる、この女の存在そのものに対する、魂の叫びだった。

 彼の体は、小刻みに震えていた。悪夢にうなされる時よりも、ずっと激しく。

 華は、彼の腕の中で、その震えを、ただ黙って受け止めていた。彼の背中に、そっと自分の腕を回す。そして、できるだけ、優しい声で言った。

「……弱く、なってください」

 ジンの動きが、止まった。

「弱いあなたを、今度は、私が支えます。あなたが、昔、私にしてくれたように」

 昔、蒼汰だった頃の彼が、転んで泣いていた幼い自分に、いつもそうしてくれたように。

「借金なんて、どうでもいいんです。生きていてほしい。ただ、それだけなんです」

 華の言葉が、温かい雫のように、ジンの乾ききった心に染み渡っていく。

 長い、長い時間が流れた。

 やがて、ジンは、まるで懺悔するかのように、絞り出すような声で、言った。

「……龍の顎に、行かされる」

 初めて、彼が、自分の状況を説明した。

「黒蠍団に、脅された。俺が行かなければ、お前と、この村を皆殺しにすると」

「……」

「生きて帰れる場所じゃ、ねえ」

 彼の声には、もう、いつものような虚勢はなかった。ただ、一人の男としての、率直な恐怖と、絶望が滲んでいた。

 初めて見せた、彼の弱さ。

 華は、彼の背中を、幼子をあやすように、優しく撫でた。

「……なら、私も、行きます」

「馬鹿を言うな!」

 ジンが、思わず体を離した。

「お前が行って、何になる! 死ぬだけだ!」

「死にません」

 華は、きっぱりと言った。

「私は、戦闘では、あなたの足手まといにしかならないでしょう。ですが、私には、母から教わった薬草の知識があります。強力な毒や、麻痺薬だって作れます。きっと、あなたの役に立てるはずです」

 彼女の目は、本気だった。

 それは、ただの感傷や、自己犠牲ではない。自分にできる、唯一の武器を手に、彼と共に戦うという、戦士の覚悟だった。

 ジンは、言葉を失った。

 目の前にいるのは、もう、ただ守られるだけのか弱い少女ではなかった。

 自分の運命を、自分で切り拓こうとする、一人の、強い女だった。

「……必ず、帰ってくる」

 ジンは、ほとんど無意識に、そう呟いていた。

 それは、もう、自分自身に言い聞かせるための、孤独な誓いではなかった。

 目の前の、かけがえのない存在に向けた、魂からの、約束だった。

「二人で、必ず。お前のいる、この場所に」

 華は、その言葉を聞いて、十年ぶりに、心の底から、微笑んだ。

 その笑顔は、まるで、夜明けの光のように、ジンの荒みきった心を、静かに照らし始めていた。

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