表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

16/20

第16話:最後の夜の対峙

第16話:最後の夜の対峙

 黒蠍団が去ってから、家の中は墓場のような沈黙に支配された。

 ジンは、何も語らなかった。バザルに何を強要されたのか、華には一言も説明しようとしない。彼はただ、まるで何事もなかったかのように、黙々と夕餉のスープを啜り、そして、いつもより早く、自分の寝床へと入ってしまった。

 だが、その背中が、雄弁に絶望を物語っていた。

 華には、分かっていた。彼が、何かとんでもなく、命懸けの約束をさせられたのだということを。そして、それを、自分や村に累が及ばないよう、たった一人で背負い込むつもりなのだということも。


 その日から、ジンの行動は、どこか奇妙な、鬼気迫るものに変わっていった。

 彼は、夜通し、自分の武具の手入れに没頭した。大剣の刃を、何度も何度も砥石で研ぎ澄まし、月明かりにかざしては、その鋭さを確かめている。鎧の革紐を締め直し、傷んだ部分には、念入りに油を塗り込んでいた。

 それは、いつもの手入れとは明らかに違っていた。まるで、己の生涯で、最後にして最大の戦いに臨む前の、神聖な儀式のように見えた。

 彼は、普段は決して手をつけない、家の奥にしまい込んでいた薬品の箱を取り出し、中から、強力な治癒効果を持つという、高価なポーションを数本、選り分けている。さらには、前世の知識なのだろうか、紙の上に、複雑な罠や、魔物の配置図のようなものを、何度も描いては、燃やしていた。

 その全てが、死地へ赴くための準備であることは、誰の目にも明らかだった。

 しかし、彼は、華に何も言わない。

 華が「何か、あったのですか」と尋ねても、「……何もない」と短く答えるだけ。その目は、彼女を見ているようで、そのずっと向こうの、暗く深い闇を見つめているようだった。

 彼のその態度は、優しさではなかった。

 それは、拒絶だった。

 お前には関係ない。お前は、俺の生きる世界の外にいろ。そう、全身で語っていた。彼は、華を守ろうとしているのではない。ただ、自分の戦いに、彼女を巻き込むことから、逃げているだけなのだ。

 華は、その壁のような沈黙に、胸が張り裂けそうになるのを感じていた。

 彼が一人で戦うことを、ただ見ているだけでいいのか。彼が死地に赴くのを、黙って見送ることしか、自分にはできないのか。

 いや、違う。

 もう、ただ守られるだけの女でいるのは、嫌だ。


 黒蠍団が指定した、三日目の夜。

 ジンは、全ての準備を終え、まるでこれから、少し長い散歩にでも出かけるかのように、静かに立ち上がった。その姿は、闇に溶け込む、一匹の孤高の狼のようだった。

 彼が、戸口に手をかけた、その時だった。

「――行かせません」

 凛とした声が、彼の背中に突き刺さった。

 振り返ると、そこには、華が立っていた。彼女は、寝間着のまま、その小さな体で、戸口を塞ぐようにして、彼の前に立ちはだかっていた。

 その瞳には、涙も、怯えもなかった。ただ、燃えるような、強い意志の光が宿っていた。

「……どけ」

 ジンは、低い声で言った。

「どきません」

 華は、一歩も引かなかった。

「あなたは、死ににいくつもりでしょう。黒蠍団と、何を約束したのかは知りません。ですが、あなたが、たった一人で、全てを背負って逝ってしまうことだけは、絶対に許しません」

 ジンの顔が、苛立ちに歪んだ。

「これは、俺一人の問題だ。お前には、関係ない」

「関係なくなど、ありません!」

 華は、叫んだ。それは、彼女が初めて、ジンに対して見せた、感情の爆発だった。

「あなたの命は、あなただけのものじゃない! あなたが金で買った、私の命だって、そこに乗っかっているんです! 借金を返し終わるまで、あなたは、勝手に死ぬことなんてできないはずです!」

 めちゃくちゃな理屈だった。だが、それは、彼女の魂の叫びだった。

 彼を引き留めるためなら、どんな理屈でも、どんな我儘でも、口にする覚悟ができていた。

 ジンは、一瞬、言葉に詰まった。そして、苦々しく、吐き捨てるように言った。

「……ガキが、生意気な口をきくな。お前に、俺の何が分かる」

「分かりません!」

 華は、即答した。

「あなたの十年間も、あなたの傷の深さも、私には、まだ、何も分かりません! ですが、これだけは分かります! あなたは、また、逃げようとしている! 私から、この村から、そして、誰かと共に生きることから! それが、たまらなく、悔しいんです!」

 彼女は、一歩、ジンに近づいた。

 そして、その傷だらけの胸に、自分の額を、こつんと押し付けた。

「一人で、行かないで……」

 その声は、もう、叫び声ではなかった。

 ただ、震えるような、切実な、祈りだった。

 ジンの体が、石のように硬直する。彼の胸に伝わる、彼女の額の熱と、微かな震え。

 彼は、この温かさを、振り払うことが、どうしても、できなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ